3 重たく悲しみを帯びた青 ⑥
どういたしまして、こちらこそありがとうございます。そう言いたかったのに、口を開いたら涙が溢れそうだった。泣きたいのはセンセイのはずなんだから、と私は涙を流さないようにじっとセンセイのつま先を見ながら、口を噤んでいた。
ほどなくして、ドアが開く音と話し声が聞こえてきた。
「ああ、他の客が来たみたいだな。お前、もう十分見ただろ? 早く帰って勉強でもしてろ、受験生」
何も言う隙も与えられず、センセイは私の元から離れていった。今まで話していた事がまるでなかったみたいに、センセイは訪れた他のお客さんと話し始める。先ほどはうつむきがちだったのに、今のセンセイの表情に暗さは全くなく、いつも通りに見えた。
私は絵を抱きかかえて、話をしているセンセイにわき目も振れずにそのままギャラリーを出ていった。来たときと同じように走って。でもすぐに息が切れてしまって、横断歩道に差し掛かった時に私は足を止めた。車も止まっているし、『進め』の信号も光がついていた。私は少しふらつきながら、横断歩道を進む。その間で、何度も足が止まりそうになった。
頭の中で、何度も「嘘だ」と繰り返す。
でも、今まで見てきたセンセイの不自然な仕草と聞いたばかりの彼の言葉。それらが、私の頭にそれがまぎれもない真実であると言い聞かすように突き刺さっていく。信号を渡り切った私は来た道を振り返る。その遠くにセンセイがいる、戻ろうと思えばすぐにでもセンセイの元へ戻ることができる。でも、私の中でセンセイの存在が遠ざかっていくのを感じていた。
(……『罰』って、どういうこと?)
頭の中でその言葉が頑固なシミみたいにへばりついていた。……まるでその罪を償うための『罰』を受けるために治そうとしていないみたいだった。
(まさか、そんな事するわけないじゃない)
絵を描くのが大好きなセンセイなんだから、目の病気になったならすぐに治そうと努力するに違いない。センセイは治らないと断言したのだから、本当にそうなんだ、と私は自分自身をそう言い聞かせる。貰ったばかりの絵を抱きかかえながら電車に乗り、帰路につこうとした。でも、家に帰る気持ちにもなれず私は自宅の周りをゆっくりと散歩するように歩き始めていた。
季節は春めいてきたのに、私の見える風景は何一つ変わらない。春でも秋でも、目の前には白と黒、そしてグレーだけが広がっている。木々に芽生える小さな葉も、今にも咲こうとしている花も、雲一つない空も、私にとっていつも同じ。晴れていても、曇りみたいだ。私は信号の前で立ち止まり、その奥に見える公園をじっと見た。
その時、ふっと記憶がよみがえった。
そうだ。ここは、私が事故に遭ったところだ。
十歳の、少しずつ暑くなり始めた頃だったと思う。学校から帰る途中だった私は、ちょうどここで事故に遭った。詳細は覚えていないけれど、のちに自分で過去の新聞を読んだり、お母さんから半ば無理やり聞き出したから少しは知っている。
どうやら、私は道路に突然飛び出してきたらしい。急ブレーキをかけたけれど間に合わなかった車にそのまま轢かれて、それから先は記憶にある通り。どうして道路に飛び出したりしたのか、今振り返ってみても思い出せなかった。
あの事故の事で、ちょっとだけ覚えていることがある。車に轢かれた後、私はただぼんやりとまだ青かった空を見上げていたことを。そして少しずつ目の前が真っ暗になっているさなか、誰か――確か、まだ若い男の人だったと思う――がずっと叫ぶように私に向かって声をかけてくれていたこと。その声が心地よくて、ずっと聞いていたくなって、目を閉じないでいようと頑張っていた事。でもそれ以上を思い出そうとすると、頭の中が真っ赤に染まって、たちまち恐怖がこみ上げてきて……そこから先は、もう何も分からない。
私はその冷たい恐怖を振り払い、今度こそ家に帰ることにした。
玄関で私の事を出迎えたお母さんは出ていったばかりの私が帰ってきたことよりも、ちょっとだけ表情が暗く見えたことに驚いたみたいだった。「何かあったの?」と心配そうに問い詰められたけれど私はそれを躱して、自分の部屋にまっすぐ向かった。
自分の部屋に閉じこもってコートや持っていた物を床に置いてからすぐスマートフォンを取り出し、目の病気について調べようとした。けれど、センセイから病名すら聞いていない私はすぐに壁にぶち当たってしまっていた。
センセイのために、私に何かできないだろうか?
そんな事を考えても、すぐにしぼんでいってしまう。センセイが迷惑に思うことだけはしたくないし……私なんかが何かやったところで、目がよくなったりすることは絶対にない。
だって自分の目ですら治すことも出来ていないのだから。
にっちもさっちもいかなくなってしまって、私は重たくなった体を引きずりながらうつぶせになりながらベッドに沈み込んだ。目を閉じて、少し疲れたしもう昼寝でもしちゃおうかなと考えた時頭の中でパッとある考えが浮かぶ。




