3 重たく悲しみを帯びた青 ⑤
「センセイってさ……、目、見えてないんじゃないですか?」
最後になるかもと話していた個展の事。絵を見るために顔をぐっと近づけたり、キョロキョロと辺りを見渡すセンセイの癖。大学病院で見つけた、センセイの背中と思しき姿。頭の中に広がっていた靄のようなもの。私が導き出したその正体こそが『これ』だった。センセイは、震えるような息をはいた。
「お前、いつ、気づいた?」
センセイの声がいつもより低く聞こえてくる。
「センセイ、ずっと見えづらそうに目を凝らしながら絵描いていたじゃないですか? その時、ちょっとだけ気になってたんです。私、ずっと大学病院の眼科に通っていて、そこで似たような人をいっぱい見てきたから、似てるなって。物が見えなくなってきて、顔をしかめながら遠くのものを見ようとする人と、センセイが」
私の真後ろに立つセンセイは何も言わない、どんな表情をしているのかも分からない。でも振り返ってそれを見るのが怖くて、私は『空模様』の絵を見ながら話し続ける。
「前に一緒に帰ったときに、駅のホームで何か探すみたいにキョロキョロしていたでしょう? あれって、目が見えなくなっている人が視野を広くするためによくやる癖だって、眼科の先生に聞いたことがあるんです。あと、センセイ、よく廊下でいろんな人とぶつかっていたじゃない? もしかして、それも周りが見えてなかったせいなのかなって。それに、それにね……」
私はそこで言葉を区切った。そして息を吸ってから、一気にすべてを吐き出していく。
「私が通っている病院の眼科で、センセイの事を見かけたような気がしたから」
「わかった、もうお手上げだよ。……三原の言う通りだ」
私の背後で、センセイが何かを諦めるようにかすかに笑う声が聞こえてきた。
「若いのに珍しいって言われた、病院で。左目はもうほとんど見えてないないし、そう遠くないうちに右目もわずかな光しか感じられなくなる」
まるで私の事を絶望に叩き落とす様に、センセイは矢継ぎ早にそう言った。背中に冷たいものが伝い、頭の中が凍り付いって何も考えられなくなっていく。それでも私は、一番聞きたかったことを喉から振り絞っていく。
「……センセイの病気は、治らないんですか? また見えるようにはならないんですか?」
センセイの答えは、私の視界をこれ以上ないくらいに真っ黒に塗りつぶしていくようなものだった。
「さあな。進行しすぎたから、もう手遅れだろ」
「絵は? センセイ、絵描くの好きなのに、描けなくなっちゃうんじゃ……」
「絵なんて、もう諦めた。だから、これがもう最後の個展なんだ」
諦めたように話すセンセイの声には、その言葉とは正反対の、まるで悲しみの色が滲んでいるように聞こえてきた。その声は私の頭の中を、黒から青に塗り替えていくような気がした。青色なんて、久しぶりに思い出したような気がする。……こんなことで、思い出したくなかった。
「……どうしても?」
私は縋り付くようにそう口を開いた。
「どうしても。それに、もういいんだよ。これは俺への『罰』なんだから」
センセイの口ぶりは、無情そのものだった。センセイの『罰』という言葉が私の頭に引っかかった。それってどういう意味?
それを聞こうと振り返る前に、センセイは私の隣に立って壁にかかっている『空模様』の絵と札を手に取り外し、それを私に差し出した。顔を伏せて、まるで私に表情を見せないように。
「これ、やるよ」
「え? でも、それは売ってる絵じゃないんですか?」
「お前にあげようと思ってたんだ。三原、俺の絵に色々興味持ったみたいだし。それに、バレンタインのお礼だよ。ホワイトデー、もう過ぎちゃったけど」
センセイは私の手を掴み、その絵を強引に持たせた。私の手を掴んでいるセンセイのそれからは、何かを堪えるようにかすかに震えているのが伝わってくる。そして、私の手も同じように震えていた。耐えるように絵をぎゅっと握りしめると、センセイは細く長い息を吐きだしていく。
「チョコ、ありがとう。旨かったよ」