3 重たく悲しみを帯びた青 ①
バレンタインデー以降、私は美術室に行けなくなっていた。
センセイとどんな顔で接したらいいのか分からなくなったせいだ。美術の授業だって、私はずっと顔をあげずに教科書を見ながら受けていた。その美術の授業も、私にとっては幸か不幸なのか……学年末に差し掛かる頃には絵を描くことがなくなっていた。センセイは教科書を片手に、美術室ではない普通の教室で美術史について延々に授業をし続けていた。
学校に居る間中は心地悪さを感じたままだった。あっという間に三学期が終わり春休みがやってきた。修了式の日に配布された成績表を見ると、美術にもちゃんと成績がついていて少し安心した。あれだけ逃げ回っていたから成績評価は『2』や『3』くらいが関の山かなと思っていたのに、書いてあったのは『4』という想像以上に良い数字だったことにとても驚いた。その成績を見て、お母さんはとても嬉しそうにしていた。成績が良かっただけじゃなくて、私がついに絵を描いたこともきっと嬉しかったのだと思う。
しかし、私はこの事でセンセイにお礼を言うことも出来ずにいた。
「彩香ちゃん、何かあった?」
「え?」
今日は月に一度の定期検査の日。検査は午前中のうちに済ませてしまって、午後には舞と遊びに行く約束をしていた。長谷川先生はいつも通り機械越しに私の目を見ながら、そう聞いてくる。
「なんか、顔、暗いわよ」
先生はいつの間にか、目じゃなくて私の表情を見ていたらしい。
「……そうかな?」
私はいつもより、低い声でポツリと呟いていた。
「あら、声まで暗いわ。受験が憂鬱とか? 彩香ちゃんも、高三になるんだもんね。早いわ~」
確かに四月から私も高校三年生。そろそろ受験勉強だって本格化する。私が第一希望としている大学がそんなに難しくないとしても、だ。でも、私の表情が少し浮かない理由はそれとは全く関係のない事だった。私が静かに首を横に振ると、目を覗き込んでいる長谷川先生に「じっとしてて」と少し怒られた。
「それなら、友達と喧嘩したの?」
「ううん、それも違う」
喧嘩が一番近いのかもしれないが、センセイはそもそも友達なんかじゃない。私は生徒、センセイは高校の先生。その二つは一見するととても近いけれど、大きな壁で隔てられている。
私はため息をついて、センセイの姿を思い出していた。切り裂かれた絵の前で立ち尽くすセンセイの背中は私の頭に強く焼き付いてしまっている。私はあの時どうしたらよかったのか。正解なんてどれだけ考えても分からないままで、行き場のないもどかしさを感じていた。
「……もしかして、恋でもした?」
「違います!」
とっさに大きな声で言い返すと、長谷川先生は楽しそうに笑った。
「いいのよ、恥ずかしがらないで。若いんだから、恋の一つや二つしたらいいと私は思うけどね」
違うって言っているのに! 長谷川先生はわからずやで、呆れた私はため息をつく。舞然り長谷川先生然り、女の人ってなんでこういう浮ついた話題が好きなんだろう? 私にとって『それ』は、手の届かないところにあるぶどうのようなものだ。
「でも、いいかもしれないわ。彩香ちゃんにとって」
「……え? 何がですか?」
「恋をすることが、よ」
長谷川先生は私のカルテにいつも通り「異常なし」と書き記してから、機械越しではなく、直接私の目を見ながらそう言った。先生の目は濁りなく澄み切っていて、純真な子どもみたいだった。
「彩香ちゃんの初恋って、何歳の時?」
「え? 何ですか急に……」
時計を見ると次の検査までまだ時間がある。長谷川先生はいつも通り、時間になるまで私と雑談をするつもりらしい。
「確か……幼稚園の時、かな?」
「あら、おませさん」
「いいじゃないですか! これくらい!」
「そうねぇ、うちの息子もそれくらいにモテてたし。今は全然だけど! ……それから後に、人を好きになったことってある?」
「……ないですよ」