2 心を動かしたのは、何色? ⑨
でも、どれだけ悩んでも、私は、今日もきっと美術室に行くに違いない。机の横にかかっているカバンをちらりと見る。チョコレートが入った箱が壊れないように、今日はカバンの中をちゃんと整理して学校に来た。
何だか、違う自分になってしまったみたいだった。世界が少し変わって見えて、そわそわと落ち着かなかった。
放課後、舞や莉子ちゃんは先に帰ってしまった。他の友達も彼氏とデートするなんて言って、私は一人、教室に取り残される。舞は帰る前に「せいぜい頑張ってね」なんて、余計な一言を大きな声で言うもんだから教室中の注目を浴びて目立ってしまった、みんなの視線を感じて、恥ずかしさのあまり顔が熱くなってしまう。
私はセンセイになんて言って渡すか考えながら、ゆっくりと美術室に向かうことにした。
(友達にあげるついで、とか? でも箱が立派だし。……受け取ってもらえなかったら、どうしよう)
ふっと胸に、そんな不安がよぎる。
そうだ、センセイだっていい大人なんだし、もしかしたら彼女がいるからって受け取ってもらえないかもしれない。それが例え、義理チョコでも。私はそのチョコが溶けちゃうんじゃないかってくらいぎゅっと抱きしめる。もし受け取ってもらえなかったら、もう自分で食べてしまおう。
それで、もうセンセイのことなんてキレイさっぱり忘れてしまおう。
(……忘れる?)
私は廊下の真ん中で立ち尽くしていた。どうして私が、センセイの事を忘れなければいけないのだろう? 別に好きでもなんでもないんだから、忘れる必要なんてないじゃない。でも、頭は勝手にセンセイの笑った顔を思い出していて、それが無くなってしまうと考えると体が動かなくなってしまった。私はその考えを振り払って、無理やり足を動かし前に進んでいく。
気づけば、美術室の目の前に来ていた。ドアを開けたら、いつも通り明るく挨拶をしよう……私はぎゅっと目を閉じて自分自身にそう言い聞かせる。取っ手に手をかけてドアを開けようとしたその時、美術室の中から『ビリッ』と何かを裂くような大きな音が聞こえてきた。
私は慌てて引き戸を開ける。そこにあったのは、切り裂かれたキャンバスと、その前で立ち尽くすセンセイの姿だった。
「……な、何してるのセンセイ!」
「……三原か」
先生の瞳は、背筋がぞっとするほど冷たかった。
切り裂かれたその絵は、センセイが楽しそうに描いていた雨の絵だった。
「せっかく頑張って描いてたのに、どうしてそんなことを……!」
「……お前に」
俯いているセンセイの声は、震えている。
「お前には、関係ないだろ!」
次の瞬間、センセイの大きな声が美術室に響き渡った。反響する自分の声を聞いて、センセイはハッと我に返ったみたいだった。顔をあげて、大きく目を見開いて私の事を見ようとした。センセイの視線は私の事を探すみたいに色んなところを漂ってから、少し間を置いてからようやっと目が合った。センセイはぎこちなく、無理やり笑おうとしている。
「わるい……。画集見に来たんだろ? 今日はどれにする?」
その声は、まだどこか震えているように聞こえた。美術準備室に向かおうとする先生の背中はどこか弱弱しくて、そんな姿、もう見ていられなかった。
「ううん、邪魔になるだけだから……もう帰ります」
私は手に持っていたチョコレートが入った箱を、一番近いところにあった机に置く。
「これ、今日、バレンタインデーだから。センセイへのプレゼントです、今までありがとうございました」
「……三原?」
私はセンセイに背を向けて、次の瞬間、まるで逃げ出すみたいに走り出していた。背後からは、イーゼルが倒れる音とそれと少し間をおいてから私の名前を呼ぶセンセイの声が聞こえてきた。




