2 心を動かしたのは、何色? ⑦
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それ以来、私は時々美術室に行くようになっていた。毎日行くのはさすがにセンセイに文句を言われそうだから、何の予定も入っていない日に、週に一、二回程度。センセイは「お、また来たな」と口先では嫌がってたけれど、その表情は日を追うごとに柔らかい笑みに変わっていった。
センセイがキャンバスに向かって筆を走らせる横で、私はセンセイがおすすめする画集を見ていた。私ですら名前を知っているピカソやゴッホ、ゴッホの友達だったというゴーギャン。シャガールという人はセンセイが一番好きな画家らしい。そして、奇妙な絵ばかり描いていたダリ。
事故に遭って以来ずっと遠ざかっていたのに、まるでその反動のように私は絵画漬けの生活を送るようになった。私が『難しい絵』とか『何これ』とかいう小さく呟くと、センセイはその地獄耳で拾い、筆を走りながら色んなことを教えてくれた。あまりに専門的な話になると頭がこんがらがって、いまいちセンセイの話についていけなくなってしまったけれど、一つだけしっかりと覚えたことがある。それは、センセイの夢が、いつかシャガールがオペラ座の天井に描いた『夢の花束』という作品をその目で見ることだということ。
絵は、当たり前だけど……描いた人によって全然違う。センセイは絵の奥に込められた思いを私でも感じやすくなるように、画家の人生やその画家が生きた時代背景を教えてくれる。その話を聞くたびに、センセイの知識の深さに驚いてしまう。そして、話をしているセンセイがとても楽しそうに笑っていた。その笑顔を見るたびに、私の胸は何だか温かくなってしまう。
私は画集の絵だけにはとどまらず、センセイが描いている絵を背中から覗き込むこともあった。わたしの視線を感じても、センセイは手を止めずに筆を動かす。センセイが今描いている絵は玄関に飾られている絵とは作風が違っている。あれはまるで風景をそのまま切り取ったみたいな『写実的(センセイに教わった言葉だ)』な絵なのに、今先生が描いているそれが『抽象的(これも、センセイが教えてくれた)』だったからだ。私が「どうして?」と聞くと、決まってこう言う。
「ガキにはこの芸術がわかんねーんだよ」
確かに私にセンセイが抱いている『芸術』とやらは理解できない、でも、私はセンセイの絵が好きになっていた。時折目を凝らしながらキャンバスに向かうセンセイの姿を見ているうちに、打ち込めるものがあるという事が羨ましかったのかもしれない。
下校の時間が来ると、センセイはすぐに私に帰るよう促した。そのときは必ずと言っていいほど「寄り道すんなよ」と付け加える。そして、小さく手を振るのだ。プラットホームを挟んで向こう側に立っていたあの時みたいに。
私はマフラーを巻き、靴を履き替えて玄関を出た。息を吐くたびに、白いもやが目の前で揺れる。美術室に寄ってから帰る日は必ずと言っていいほど、私は歩きながらセンセイのことばっかり考えるようになっていた。
パレットの穴から突き出した親指。
絵の具で汚れた白衣。
少し丸くなった背中。
どこかで見たことのあるような、目を凝らす表情。
それらは、息をするたびに私の中から霞となって出て行ってしまいそうだった。私はなるべく息をする回数を減らし、早歩きで帰っていた。
美術室に通うようになったことと、もう一つ、私にある変化が生まれた。それは、逃げ回っていた美術の実習にちゃんと取り組む様になったことだ。
短い冬休みが終わってすぐ、私たちは『自分が履いている靴のデッサン』という課題をセンセイから与えられていた。玄関に置いてある革靴を美術室に持って行って、それを観察して描いていく。色を塗る必要もなく、これなら私は色の見え方へのコンプレックスを感じることなくのびのびと描くことができる。センセイは何度も私の背後を通っては私の絵をじっと見ていた気がした。
季節が少しだけすぎたある日、舞に久しぶり誘われて私は、新作フラペチーノを試しにバニーズにやってきた。舞とお揃いで頼んだ、真っ黒な液体の上にそれとは正反対の真っ白なクリーム。バレンタインビターフラペチーノという名前で、舌の上にはじんわりと苦みとカカオの香りが広がり、上に乗ったクリームはその苦さを補うよう甘かった。舞はこの時期にいつも出てくるチョコレートフラペチーノの新作を楽しみにしていたので、とても嬉しそうに飲んでいる。
「おいしいね、これ」
私が言うと、舞は何度も深く頷いていた。
「バレンタイン、近いんだね」
私はそう、ぽつりと呟いた。
つい最近までクリスマス、お正月だったのに、街の飾りつけはハートマークが増え始めた。舞をはじめ他の友達もどんなチョコを作ろうか悩み始めている。
「……サヤはさ」
「うん、なに?」
先ほどまでおいしそうにフラペチーノを飲んでいた舞が、急に真面目な顔になってすっと背筋を伸ばした。