2 心を動かしたのは、何色? ⑤
「助かります、ありがとうございます」
「よし、じゃあ玄関のところで集合な」
私は帰る支度を整えて靴を履き替え、少し寒さに凍えながら玄関で先生を待っていた。先生は私より数分ほど遅れてやってきた、グレーのジャンパーに真っ黒なマフラー。見慣れた薄汚い白衣じゃないぶん、どこか新鮮に見える。
「よし、行くか」
先生はスタスタと駅に向かって歩いていくので、私は慌ててその後に付いて行く。
「先生って、車じゃないんですか?」
「ああ。俺、運転できないんだよね」
先生の口ぶりはさらっとしている。多くの先生方は車で学校まで来ているから、てっきり伊沼先生もそうだと思い込んでいた。私は、小さく肩を落とす。
「送るなんて言うから、てっきり車に乗せてくれるんだと思いました」
「バーカ。自分の学校の生徒、しかも女子とふたりきりになってみろ。すぐさま首切られるよ」
「そうやって、生徒のことすぐバカっていう教師だって首になるかもしれないんですよ……」
私がそう小さな声で文句を言うと、先生はくしゃりと笑った。
先生が歩いて行ってしまうので、私は慌てて追いかける。伊沼先生は、歩道の車道側を歩いた。車のヘッドライトの光に、時折眩しそうに目元をゆがませながら。私は先生の横に並び、ゆっくり歩く。真っ暗な夜道をこうやって伊沼先生と歩くことなんて、もう二度とないと思ったから。その貴重な機会を楽しもうと思って。先生は、私の小さな歩幅に合わせて歩いてくれる。車のライトや街灯はいつもなら目に刺さる様に痛いのに、伊沼先生が隣にいるだけで柔らかな光に見えた。
とてもゆっくり歩いたつもりなのに、駅にはすぐに着いてしまった。伊沼先生は、私が乗る方向とは逆方向の電車を利用しているらしい。改札を抜けたあたりで、私たちは別れた。先生は軽く手をあげてホームに続く階段を昇っていく。私はそれに返すように小さく頭を下げ、先ほどよりもちょっと重たくなった足取りでホームに向かった。
電車を待っていると、ちょうど真向いのホームに先生が立っているのが見えた。先生は足元や自分の周りを、まるで何か探し物をしているかのようにキョロキョロと見渡している。ふっと彼が顔をあげた時、私に気づいたのかまるで「おっ」とでも言うように口を丸く開ける。先生が手をあげて今度は小さく横に振った。
その姿を見て、私は思わず叫びたくなった。彼に届くように大きな声で「センセイ!」と叫びたくなった。でも、叫ぶよりも先にプラットホームに金属が擦れ合う音が響きわたる。センセイの姿は滑り込んできた電車の向こう側に隠れてしまって、それが走り去っていった後、センセイの姿はもうそこにはなかった。
センセイが立っていた辺りを見ながら、私はあの時のセンセイの言葉を思い出していた。
――これが、最後になるかもしれないからな。
耳に残るその言葉を、頭の中で何度も繰り返す。今思えば、寂しそうで何かを諦めているようにも思えてくる。
でも、その言葉の裏に秘められた本当の意味を見つけ出すことができるほど、私はセンセイの事をよくは知らない。
だから、知りたいと思った。センセイの事を。今よりもずっと深く。
私が課題の絵を描き終えたことによって、ようやっと生徒全員分の絵が飾ることができるようになったみたいだ。センセイはそう言って、嬉しそうに二年生の教室が並ぶ廊下に絵の展示を始めていた。広岡くんの絵も、舞の絵も、相田ちゃんの絵も。そしてもちろん、私が描いた絵も同じように飾られている。小学生の時の写生大会で絵を描いたときのように。
以前の私だったら、みんなの描いた絵がただのグレーのかたまりにしか見えなかったと思う。でも、センセイと話をした後の今の私は少しだけ違う。私は、その絵の向こう側にある描いた人の「気持ち」に触れたくて、一枚ずつじっくりと見ていた。
荒々しい線で描かれた絵、淡い灰色の輪郭で描かれた絵。ひとつひとつの違いが面白くて、私は暇さえあれば廊下に出ては絵を見るようになっていた。
「うわ、変な絵」
「え? どれどれ」
「これ。真っ黒のヤツ」
飽きもせずに絵を見ていると、そんな声が耳に飛び込んでいた。ハッと顔をあげると、私の絵を指さしている男子生徒二人がいるのが見えた。彼らにその絵を描いたのが自分自身だとばれないように、とっさに顔を伏せる。その場から早足で去ろうとしたとき、どこからか「おい」という低い声が廊下に響いた。
「人が描いた絵にケチつけんじゃねーぞ、お前ら」
「げ、い、伊沼先生!?」
「す、すいません! ほら、行くぞ」