2 心を動かしたのは、何色? ④
初めて入る美術準備室は、今まで見たことないくらいごちゃごちゃとしていた。いつもお母さんに綺麗にしなさいと怒られる私の部屋の方がきれいに見えるくらい。誰かが描いた絵がうずたかく積まれていたり、本棚に収まりきらなかった画集が机の上にほったらかしになったりしている。床には紙切れがたくさん落ちていて、先生はそれで足を軽く滑らせていたので、私はより慎重にその上を歩いた。ゆっくりと中に足を踏み入れて、何も乗っていないパイプ椅子に座る。
ご褒美ってなんだろう? とそわそわとさらに奥に行ってしまった先生を待っていると、香ばしい香りが漂ってきた。
「え? もしかしてコーヒー?」
「何だよ、文句あるか」
ぎゅっと眉に力がこもる。
「私、コーヒー苦手で……」
「この旨さがわからないとか、お前もまだお子様なんだな」
わるかったな。私はひどく憤慨する。コーヒーショップに行ってもどうせ甘い飲み物しか頼まないお子様で何が悪い。先生は私の目の前に真っ黒な液体が入った紙コップと、ミルクと砂糖を並べて置いた。それらを全部入れてよくかき混ぜても苦い味しか口には広がらない。私の目の前に座った先生は、とてもおいしそうに、何も入っていないブラックコーヒーを飲んでいく。これがお子様とオトナの違いなのか、とその差を突き付けられたような気がしてちょっとだけ悔しく思った。
「それで、どうでした?」
私はコーヒーをちびちびと飲みながら先生に聞く。
「私の絵。私の事、何か伝わりました?」
「ああ、嫌々描いてるのがよく分かった」
気持ちがそのまま筆に乗ったらしい。コーヒーの苦さを口いっぱいに感じながら私は深く頷く。久しぶりに絵を描くと、何をしたらいいのかわからないことの連続で何度も心が折れかけたものだ。
「でも、ちょっとだけお前自身の事分かった気がするよ」
先生は私とは正反対で、コーヒーと口に含み味を楽しむ様にゆっくり飲み込んでいく。
「えぇ~、ホントですかぁ?」
私が訝しむ様に目をじとっと細めて先生を睨むと、先生は小さく鼻で笑う。
「ああ、負けず嫌いで、自分の思っていることはっきり主張する。描いてある絵も、果物それぞれが自分の事をしっかりと主張していたな。けれど、それなりに協調性があって争ってはいなかった。意外に視野が広いのかもな」
「そ、そうかな……?」
思いがけず褒められてしまって、私の頬はポッと熱くなっていく。
「それに……楽しそうに見えたよ。絵を描いてる時の三原。新しく何を見つけて喜ぶ子どもみたいで。無邪気というか、幼すぎるというか」
「それ、褒めてます?」
「褒めてるだろ、どっからどう考えても。……絵を描き始めたときの気持ち、久しぶりに思い出せたよ」
先生はまるで遠くを眺めるように、窓の向こう側を見る。私も釣られて外を見ると、もうすっかり暗くなっていた。
「暗いな」
伊沼先生がポツリと呟くので、私も「そうですね」と頷く。先生は一気にコーヒーを飲んで口を開いた。
「お前、家までどうやって帰るんだ?」
唐突に変な事を聞かれて、私は少しどきまぎしながら答えた。
「駅まで歩いて行って、そこから電車で一駅ですけど」
本当は、家から高校までは自転車で通える距離だ。でもお母さんが私の目の事で心配するので、自転車を使わずに電車に乗って高校まで通っている。
「そっか、じゃあ駅まで送ってやるよ」
「えぇ?! せ、先生がですか?」
伊沼先生の言葉は思いがけないものだった。私が口をあんぐりと開けて驚いていると、伊沼先生は唇を軽く尖らせる。
「だって、危ないだろ。想像するしかないけれど……お前の目で見ると、夜道なんてただ真っ黒なだけで、どこに何があるかなんてわかりにくそうだし」
先生の言う通りだった。私の視界と夜道はすこぶる相性が悪い。私は残りのコーヒーを苦みに耐えながらぐっと一気飲みして、先生に向かって小さく頭を下げた。