前編
≪星の国≫は緑の広がる豊かな国でした。
王には美しい妃があり、ふたりの間には兄王子と弟王子がありました。
悲しいことに美しい王妃は若くして常世の人となり、国の富もだんだんと減ってまいりました。
目に見えて国が傾きだしたころのことです。
「王よ、大変でございます」と大変な形相で右大臣が城へ飛び込んできました。
王の御前に伏した右大臣は喘ぎ喘ぎ今見てきたことを話し始めました。
「さきほど兄王子が草原で馬を駆っておられましたところ、川岸で猫が何やら獲物を狙っておりました。王子はその様子に足を止められ、やれどんな魚がいるのだろうと馬の上から川の中を覗き込みました。というのも、陛下もご存知の通り昨今、海に出た漁師たちは不漁続きでその原因は依然と知れません」
「その川ではこれまで不思議にも魚どころかカエルやアメンボだのといった生き物がまったく見られませんでした。底まで見えるほどのきれいな川にも関わらずです。あるいはきれいすぎるのがよくないのかもしれません。しかし、現に猫が何かを狙っている。もしも魚がとれるなら国の者たちに久しぶりに魚を食べさせてやりたいと王子は思ったのです。しかし、気が逸り過ぎたか王子は態勢を崩して川に落ちてしまいました」
「私たち御付の者は慌てて馬から降りて川岸に駆け付けましたところ、反対の岸に弟王子がおられるのに気付きました。弟王子も驚いた様子で兄王子の姿を認めますと上着を脱ぎ捨てて川に飛び込まれました。ああ、この惨たらしい結末を陛下にお話するのは何と心苦しいことでしょう。私も跡取り息子を持つ身。心が引き裂かれるようでございます。しかし、忠臣としてお話しないわけには参りません」
「ええ、つまり、亡くなられた王妃様の分まで陛下が愛情を注いでまいりましたお世継ぎたちは、川に流されてふたりとも二度と上がってくることはなかったのです。そのうえ、私たちが失ったのは次代の王ばかりではありません。国民を憂う優しい心と兄を想う強い絆。これら宝石よりも輝かしく尊いものを失ったのでございます」
そう言い終えると右大臣は床にしかと額をつけて動かなくなりました。
石のように平伏する臣下の前で、王はまるで力ない老人のようによろよろと立ち上がろうとして、結局立ち上がれずに玉座の上に尻を落としました。
喉から絞り出されたのはしわがれた吐息だけで、王は額に両手をついて皺の濃くなった顔にさめざめと涙を流すばかりでした。
さてこれは一大事です。
お世継ぎの王子がふたりとも死に、王妃もすでに亡いとなれば、一刻も早く新しい王妃を迎えねばなりません。
しかし、明日食うにも困るほど落ちぶれた国にお嫁に来てくれる高貴な女性はそうそうありません。
王は国の外れの森に住む≪影の国の魔女≫に助力を乞うため小姓を使いにやることにしました。
小姓が昼でも薄暗い森を奥へ奥へと進んでまいりますと、先のほうに白い光を放っているところがありました。
近づいて木の陰からそろりと覗くと光の真ん中には美しい乙女が立っていました。
乙女の周りではきれいな色の小鳥たちがさえずり、足元には美しい花々が咲き、どこからともなく馥郁たる香りが漂ってきます。
小姓は我を忘れてふらふらと光の中に進み出ました。
乙女が振り返りました。
「あなたはだあれ?」
その声のまた愛らしいこと!
小姓はうっとりしながら答えました。
「私は≪星の国≫の王に仕える小姓です」
「何だか少し元気がないようね?」
「ええ、≪星の国≫はかつては豊かな国だったのですが今はとても貧しくてお城でもパンなんてめったに食卓に上がらないんです」
「それはそれはお可哀想に。好きなだけお食べになって」
そう言って乙女が右手を差し出すと小姓の前に白いふわふわのパンが現れました。
小姓が口をあんぐり開けているとまた乙女が言いました。
「チーズとハムものせてあげましょう。飲み物も必要ね。果物も食べる?」
そう言って乙女は何もない所から望むものをなんでも取り出して見せるのです。
小姓の継ぎあてだらけの服も「変えて差し上げるわ」と人差し指をひと振り、一瞬で新品の上等な服にしてしまいました。
まったく素晴らしい光景でした。
久しぶりの柔らかいパンを頬張り、葡萄酒を飲みながら、小姓は考えました。
こんな素晴らしいお方が王妃様であったらどんなにか素敵だろう。
王様はその美しさを喜ばれるだろうし、国は王妃様の魔法で潤い、国民も幸せになるだろうに。
そう、≪影の国の魔女≫なんて陰気な者に頼るよりきっといいに違いない。
小姓は乙女を連れて城へ戻りました。
王に乙女を引き合わせた小姓は乙女にもらったパンや葡萄酒や服を見せながら得意気に彼女の素晴らしさを語りました。
「陛下、私は陛下のご命令で森へ行き、この乙女を見つけました。これは運命に違いありません。この乙女ほど陛下のお妃さまに相応しい方はおるまいと私は思うのです。結婚のパレードは盛大にしましょう。道々花を敷いて、お祝いの酒を振る舞って! 国中の民が喜びますよ! この国はまた豊かな国に戻るのです!」
乙女は王の前では口を聞かず、かしこまって、口元に笑みを浮かべるだけでした。それがまたスズランのような慎ましさいじらしさを感じさせ、王はすっかり乙女を気に入りました。
王子たちが川で溺れ死んだあの日以来、王の心も川の底に打ち沈んで冷たくなっていましたが、久しぶりに温かい気持ちになりました。
大臣たちも同じです。
もうこの国には左大臣と財務大臣の二人しか残っていませんでしたが、この夢のような女性が王妃になられたらそれはそれは素晴らしい未来が訪れるだろうと思いました。
王は部屋を用意するので乙女にこのまま城に泊まってもらうように小姓に言いました。
しかし、乙女は「また明後日参ります」と言っていずことも知れぬ場所へ帰って行きました。
それでも王は気を悪くすることなく久しぶりに心地よい眠りにつき、二人だけの大臣は早速結婚式の準備に走りました。
次の日の朝、お城に珍しい客がありました。
それは立派な上下の服を身に着けた猫でした。
猫は二本足で器用に歩き、王の前に出ると帽子を取って慇懃にあいさつしました。
「私は猫王子といいます。かつてご縁があってこの≪星の国≫へ参りましたおり、大変なご恩を受けました。王妃、王子がお亡くなりになり、国の危機であると聞き及んで猫の私めでも何か役に立てればと思い、本日ここに参上つかまつりました」
王は猫王子の来訪をとても喜びました。
今朝は寝覚めも良く、もうすっかり豊かな国に戻ったような良い気分でした。そうなると誰かに親切にしたい気持ちが湧いてきますが、お城には二人の大臣とお小姓しかおりません。そこにこの珍妙な訪問者がやってきたので、どうぞどうぞと招き入れました。
「これはこれは、ありがたい。これほど礼儀正しく、義理堅い猫がこの世にいることをわしはまったく知らなんだ。なんと微笑ましいことよ。猫王子殿、ありがとう」
王は「はて、猫を助けたことなどあったかな?」と考えましたが微笑んでお礼を言いました。
しかし、猫王子は黄金の鋭い瞳を向けて言いました。
「王よ、あのような者を決して城に入れてはなりませんぞ」
王は訝しんで「あのような者とは?」と聞きました。
「あなたの小姓が連れてきた、白い肌に輝くような金髪のあの乙女にございます」
「いったいそれはどういうわけなのだ?」
困惑しながら王が尋ねますと猫王子はこれまでの控えめな態度から一転して、さも愚かな分からず屋に言い聞かせるように片手を腰に当ててもう片手で王を指さしました。指の先にはむきっと鋭い爪が光っております。
「あの草原の川をご存知でしょう。ええ、あなたの王子をふたりも飲みこんだあの川です。あの川はとても澄んでいてせせらぎは心地よく、流れもまたいい塩梅で、その美しいことまことに国いちばんの川のように見えます。しかし、それはまったく見当違いの話でございます。あれは恐ろしい命を吸う川なのです。あなたのお子たちの運命がその証拠です」
「あの乙女の美しさ妖しさも同じこと。あれほどの美しさと若さと、そのうえに摩訶不思議な力を兼ね備えた娘がいったいなぜ妻子に先立たれた年老いた王に自ら嫁ごうというのです。いえ、確かに王妃として下々の者に采配を振るうのを歓びに感じる者もありましょう。しかし、この国の惨状を御覧なさい! 大臣は夜っぴてよその国に返済する金を数えて疲れ切っているし、国民は毎日萎びた根を齧り、畑仕事をする力ももう残っておりません。こんな国を手に入れて何になります?」
己の不甲斐なさを思い知らされて王は言葉もありません。
昨日からのいい気分はどこへやら。現実が思い出されて舞い上がっていた心はまたぶくぶくと沈みました。
王の傍らに侍っていた小姓は怒って言いました。
「あのお方の美しさを目の当たりにしただけで大臣たちは生気を取り戻し、日々の勤めに励んでおります! 国民も魔法のパンで腹を満たせば元気を取り戻して、国はまた活気に満ち溢れるはずです!」
猫王子はくるりと細い瞳を回してお小姓を見ました。
「して、その魔法はいったいどこから来ているのだと思うね、きみ?」
鋭い瞳はまた王を見ました。
「何もないところから何かを生み出すなんてそれはまったく神の技だとは思いませぬか? いったいそれはどんな神でありましょうぞ? 神には供物が必要です。タダで与える神などどの国にもどの時代にもおりません。あなたは王になったその日から毎日欠かさず神殿に礼拝に行き、お供えをしました。ええ、王子たちが亡くなられた日の朝にもあなたは祭壇に酒と食べ物を備えて神に感謝を述べたのではありませんか。その結果がこれです! 神はあなたの感謝と供物だけでは足りず、王子ふたりの命もお取りになった! さて、あの美しい乙女は国を潤す代わりに何を望みますやら。王はどれほどの代償を払うことになりましょうか? あなたと運命を共にする国民たちは?」
これには王も小姓も恐れ戦いて閉口してしまいました。
同じ人間である魔法使いならカネで話を付けられますが、神となるといったいぜんたいどんな要求をされるやら。考えるだに恐ろしい話です。
小姓がおずおずと口を挟みました。
「で、では、猫王子、あなたは何を受け取るのです? あなたの見返りは? あなたがこうして王を助けようとされる理由は何ですか?」
猫王子はスンと顎を上げて小姓を見たあと、また取り繕ったように王に向き直りました。
「私はもちろん何も受け取りません。なぜなら私は魔法使いでもなければ神でもありません。ただの猫です。ただの猫とて恩義は忘れませぬ。もし、この答えでは納得いかぬというなら、猫である私が欲しいのはただ雨をしのぐ庇と静かな眠りだけでございます」
小姓がまた口を挟みました。
「あなたが受けた恩義とはいったいなんですか?」
猫王子はムッとして黙りました。
小姓は王に話を向けました。
「陛下はもちろんご存知なのでしょう?」
「いやそれは……」
王が口を開こうとすると猫王子は急き込んで言いました。
「王よ、私の名誉のためにそれをここで暴露することはしてほしくないのです。けれど私は陛下へのご恩を一夜と忘れたこともなければ、国の一大事にいまこそご恩をお返しするときと、こう思って畜生の身でありながら失礼を承知で王の御前へ馳せ参じたわけでありますれば、今ここで私に辱めを与えることはご容赦願いたく存じまする」
「ひらにひらに。私はただの忠義者の猫なのです」と猫王子は両耳をぺたりと後ろに垂れて言いました。
その様子があまりにも哀れっぽいのに王も同情して「いや分かっておる。ここでは言うまい」と約束すると猫王子は大変に感謝して「また明後日参ります」と言ってさっさと城を後にしました。
「あのような獣の言うことを信じてよいのでしょうか……?」
猫王子が出て行ってしまうと小姓は不安げに王に尋ねました。
それから少し考えたあと、意を決したように小姓は言いました。
「陛下、正直にお話します。私は陛下に≪影の国の魔女≫から助言を頂くようにと言われて森へ行った途中で、あの乙女と出合いました。それはそれは不思議な力と美しさとで、私はすっかり魅了されてしまいました。こんな方がお城へいらしたなら王妃様がご存命であったころのような、笑いの絶えない楽しい時間を取り戻せるに違いないと思ったのです。陛下のため、お国のためと言いながら、結局は私自身のためだったのです。もし乙女が見返りを要求したなら私がこの身を差し出します。それで足りなければ私の妹と弟も。妹は病気で弟はまだ幼く、ふたりとも私がいなくなれば食べて行けずに飢え死にするほかありませんから。すべては私の身から出た錆……」
よよと面を伏した小姓に王は言いました。
「いいのだよ、いいのだよ。おまえがおまえのために行動することは悪いことではないのだよ。自分自身のために行動を起こせるものは自分自身しかいないのだからね。そもそも私にもっと甲斐性があればこんなことにはならなかったのだ。しかし、いったいどうしたものか……。ここはやはり≪影の国の魔女≫に頼むしか……」
小姓は身を乗り出して言いました。
「私に任せてください! 今度こそ助言を頂いて参ります!」
こうして小姓は再び国の端っこにある森へ魔女を訪ねて行くことになりました。