美術館の腕と欲
「おはようござ……うわぁへぇっ!?」
挨拶と同時に職場のバックヤードに一歩踏み込むやいなや、刻和は驚いて素っ頓狂な声を上げ、腰を抜かしそうになった。
床という床が、
「う……腕……?」
大量の人間の腕で覆い尽くされていたのだ。
一体何人の人間の肩からもぎ取ればこんな数になるのだろうか。足の踏み場もないとはまさにこのことで、気色悪さから反射的に目を逸らしてしまう。
「な、なんだってんだよ」
身震いするくらい寒い外とは対照的に室内は気だるい程温かいが、そんな中にいてなお背筋の凍る心地がする。
「はあ……」
既にいるであろう「先客」を入口に立ったまま探してみるが、どんなに辺りを見回しても影も形も見当たらない。というかそもそも刻和の他には人っこ一人いない。
(この職場に初めて来てから半年経つっていうのに、未だに慣れないな、この部屋にだけは)
学校の教室くらいの面積を有するこの場所を二言で言い表わすならば「混沌と虚空」に違いない。
ところ構わず埃まみれなうえ、部屋の隅には壁が見えないくらい夥しい数のがらくたが置かれている。
がらくたは大きさ形状共に千差万別。一目見て何か分かる物の方が珍しいくらいで、ほとんどが名状しがたい物体だ。それらが無秩序に積まれたり散らばったりしている。
何も知らない人が見たら確実に、一分の疑いもなくゴミ屋敷に認定されてしまう、それくらいに言うなれば汚らしいところである。特番を企画したテレビ局が興味本位でタレントを派遣しそうである。
雑然とした壁ぎわとは対をなすように、部屋の真ん中はこざっぱりしており、何の障壁もなく見通し良好だ。汚れを防ぐために床一面に敷かれたブルーシートがまるで海原のように見える。
だが、しかし、刻和が現在目の当たりにしているのは、海なんて閑かなものと対極に位置している代物だった。無論、そこに散らばるは老若男女の無数の腕である。
木の幹程の太さの屈強な腕もあれば、針金のようにか細い腕もある。刻和の足の指先に乗っかっている腕なんか、張りも艶もなく皺だらけだ。
とはいえこれでも一応出勤先だし、なんとかして入っていかねばならないが、さてどうしたものかと立ちすくんでいると、
「おいーす、おはよう。トキ」
刻和が入ってきたのとは別の、突き当たりの扉から女性が現れた。
「今度は何の芸術なんですか、館長」
刻和をトキと呼び、代わりに刻和から館長と呼ばれたこの女性は、芸術家然とした外見だった。あらゆる色で汚れて元の模様が分からなくなったエプロンを着用して、髪をアップでまとめ、タレ目が特徴的だ。童顔で幼く見えるが、館長という立場から察するに、おそらく刻和より年上だろう。本人曰く年齢は「自分の寿命を三で割り、そこに小学生程度の年齢を誤差として付け足すか差し引いた歳」だそうだ。要するに公式で年齢不詳である。
「何の芸術か、と訊かれたら……そう、強いて言えば生命創造、かな」
「よく見ればこの腕、全部蝋細工ですよね。蝋人形でも作っているんですか」
館長の言葉を無視して、刻和はネタの割れた老いた腕を拾い上げる。
本物と寸分違わず精巧なそれは、しかし予想以上に白く重く無機質で、どう考えても生身の人の両肩に付いているものとは程遠かった。
「びっくりしたろ?」
「脅かすために作ったんですか?」
生命創造と館長が言う割に部屋は連続バラバラ殺人事件チックなシチュエーションになっているが、変な物が湧くのは今に始まったことではない。だから驚くといっても最初の一瞬に限るし、いいところ出オチなだけだ。今となっては何も怖くない。
「無から有を生む生命創造と、有るはずの無い物が急に現れて驚くことに親和性を見出だしたなら当たらずも遠からず、だな」
「開館まであと三十分しかないんですから準備して下さいよ」
「そういうトキも大概じゃないか。三十分前に重役出勤とは」
「その理論だと、僕以外にスタッフのいないここを辞めない限り、僕は、ここが自宅兼仕事場な館長に毎日重役呼ばわりされることになりますが」
「おお、自分のことを棚に上げてそうのたまうとは恐れ入ったものだ」
「どうせ開館直後に客が来るはずなんてないんだから構わないじゃないですか」
説明するのが遅れたが、二人がいるのは館長が個人で開いている小さな美術館のスタッフルームである。
県内の芸術大学を卒業した後実家に戻り、親の跡を継いで館長になった彼女自身の作品はもちろん、先代の館長及び副館長を務め、共に芸術家である彼女の両親の作品も展示されている。
「ミーのサンクチュアリをディスるつもりか?」
「いやそんなつもりは……」
「冗談だ」
「ですよね。一部ルー語でしたし」
「確かにこんな山奥だと来る客も来ないっていうものだ」
館長は並み居る腕の模型を蹴散らすようにして窓に歩み寄り、少し隙間を空けて外を眺める。
途端に木々の緑とせせらぎの水音が知覚される。
暖房の効いた部屋に年末の凶悪な寒気が細く忍び込み、離れた場所に立つ刻和の頬を妖しく撫でた。
「ちゃんと宣伝してますか? ただでさえ人が来ない立地ですからしっかりブログとかでPRしないといけませんよ」
県下随一の企業城下町を貫く巨大な国道をひたすら東へ突っ走った先、都市化が一切されずにひっそりと点在する農地と集落を、谷川に沿うようにしていくつも抜けたところ。道路の車線が上りと下りの別もなくたった一本だけの、ド田舎を通り越してひと気なんてあるはずのない、ただの山林。アウトドアスポーツやドライブの機会でもない限り普通の人はまず来ない、そんな土地に美術館は建っている。
いずれにせよ、ここを知っている人は余程の物好きだと言ってもいい。
「別にいいじゃないか。誰も来なくたって」
「そんなことで今日びどうやって食べていくんですか?」
「トキでも食べればいいだろう、性的に」
「……」
「……」
「……冗談……ですよね?」
「八割方本気なのだが?」
「恥ずかしくないんですか?」
「知らないのかトキ。女だって男と一緒で周期的にムラムラするんだぞ」
「いやいやいや、だからといって……」
そんな出会い系サイトの謳い文句みたいなセリフをさらっと言われても困るというもの。いくらなんでもデリカシーがなさすぎだろう。
俗世間を離れた田舎暮らしが板に付くとこんな風になってしまうのかと思うと、あと半年もここに通わなければならない刻和もどうにかなりそうでぞっとしない。
「まあどうにかなってしまったら、その時はその時で共にただれた性活でもしよまい」
「平然と地の文を拾わないで下さい。あとやっぱり館長は人前には出せないくらい変態です」
「こうなったのはトキのせいだぞ。責任を取ってくれ」
「初対面で破廉恥発言をされた僕にバレバレの嘘つかないで下さい」
「それよりもトキ、開館の前に一杯の楽しみをしようではないか。あれがないと今日一日が始まる気がしないのだ」
「たまには自分で準備して下さいよ。ホットミルクくらい」
「思いの外蝋細工に精が出てしまってな。両手が筋肉痛になってしまったのだよ。これではいつものようには温められん」
「鍋に火をかけるだけじゃないですか」
「トキの作ったできたて熱々の白い液体が飲みたいのだよ」
「軽くセクハラですよ」
「万更でもないっていう顔してるぞ」
「根も葉もないこと言わないで下さい」
むしろ辟易している。まともに相手をしていると精神がごりごり削られる。
駄弁を切り上げて、刻和は部屋の隅でがらくたに埋もれた冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、その隣で物体の山の起こした表層雪崩に遭っているガスコンロを発掘した。ここまでで二つほど山を平らにしたため、この部屋に地形図があるなら即刻書き直す必要がありそうだ。
「あんまり作品の配置を変えないでくれ。マッピングは結構骨の折れる作業なんだから」
「ホントにマッピングしてたんですか館長」
調理の末に完成したホットミルク入りのマグカップを、テーブルで待機している館長の前に置いてやる。
「いい加減館長と呼ぶのをやめてくれないか。虫酸が走るのだよ、親の肩書きに自分が収まることは」
「じゃあ何て呼べばいいんですか」
「グレートエミポンマークII」
「ロボットみたいですね。というかエミポンとは何ぞ」
「マークIIというのは館長二世という意味でだな――」
「絵美さんさっきの生命創造がどうたらこうたらってどういうことなんですか?」
いつものように適当なことを抜かす館長もとい絵美をツッコミアンドスルーして刻和は気になったことを訊く。
「それを説明するにはだな……トキよ、先日君はあるカップルの話をしていたな」
「ええ。確かそんなことを言いました」
刻和は、知り合いに付き合っている人がいるというトピックを、先週辺り絵美に漏らしたのを思い出す。
「それが何か?」
「その二人――○○○○と●●●●だっけ? それと同名の男女が登場する小説を昨日読んでたらな、そのオチがgooooooal!!」
いきなり席を立ったと思うと、絵美は喝采と同時に膝から床に滑り込んだ。よくサッカー選手がやるあの動作である。
「……話が見えないんですが」
「最終章で結婚したのだよその二人が」
オーバーアクションを終えて席に戻る絵美の両膝がすり傷で出血しているけれど、大丈夫なのだろうか。破傷風にならないといいが。
「いいことじゃないですか。現実の二人の行く末を暗示しているみたいで」
「何を言う。小説に出た二人は姉弟だぞ」
「十八禁小説かよ。絵美さんが読んだの」
「そこでわたしは悟った。『真に幸せな結婚は姉弟でしかなしえない』と」
「そんなムチャクチャな」
論理的に、そして倫理的におかしい。
「かのカレーうどんの女芸人も言っていた『結婚は人生の墓場』と」
「まあ……そう言う人もいますね」
「結婚していいことなんて一つもなかった、と父も言っていた。夫婦で勤しんだ共同作業は、後にも先にも夜のアレだけだったとも言っていた」
「絵美さん多分父親似ですね」下ネタ発言をさらりとする辺りとか一致しているかもしれない。
半年前に最後に会った時、彼は寡黙な頑固ジジイだったはずだが、素性は変態なのだろうか。想像したくない。
「顔はむしろ母に瓜二つなのだが?」
「分からないならもういいです」
「で、だ。結婚についてだがな、これから家族になろうという二人が、自分達の家族が自分のことを知る以上に深く互いを知り合うには、カップルが出会ってから結婚するまでの期間では到底無理だと思うのだが、その辺りトキはどう考える?」
「……はい?」
「一度で分からないなら何度も読み返せ」
「そんなメタな」
「付き合って精々数年の恋人なんかよりも、少なくともその倍以上の期間寝食を共にした家族の方が断然伴侶にふさわしくはないか?」
「それで、結婚は姉弟に限るという結論に至ったと?」
刻和の確認に厳かに頷いてから、絵美はミルクを啜った。
分かりにくいが、絵美の主張をまとめると……
何かがきっかけで、独身の絵美は夫婦の在り方に疑問を抱いて、
その原因は夫婦が互いのすべてを知っていないからだと思って、
ならばいっそのこと、すべてを知り合っている姉弟での結婚が理想的なのではないかという理論。
「いやメチャクチャでしよその理論」
「どこがだ? 素晴らしいじゃないか姉弟愛。背徳感といい親密感といい、他の恋愛には全然ないぞ」
「だったら兄妹にだってあるんじゃないですかそういうの?」
「確かに妹は兄に対して絶対的な恋慕の想いを持っているのかもしれない。だが姉の母性愛はそれに勝る」
「今更だけど絵美さん誰目線で語っているんですか?」
絵美の目線が、少なくとも世間一般女性のそれとは異なることは刻和でも分かる。
「とにかく、普通の結婚は嫌なのだよ」
「もう……どうでもいいです」
「諦めんなよ!」
「諦めさせんなよ!」
「とにかく、わたしはそういう訳で結婚については諦めたのだ。だが性欲はどうにも治まらん。人の子を生みたくなってしまう」
「そんなの知りませんよ」
ただの痴女発言だった。今更なのだが。
「この手で人を生み出したいというこの熱意、そして創意。まさに性欲は創造欲に直結しているのだ」
「だから蝋の腕をこんなに作っていたんですか」
「わたしは人型を造形するときはいつも腕からと決めているのだ。でも今日はそれがどうしても上手くいかん。今回は失敗作だらけだ」
「また別の機会にしたらどうですか」
「……一理あるな」
「そろそろ開館の時間ですし、膝の手当てをして準備を始めて下さいよ」
刻和は部屋の隅から古ぼけて色あせた救急箱を持ってきて絵美に促す。
「……」
「……」
「……どうしたんですか」
「やはり創造欲は性欲に戻した方が吉か」
ちらりとこちらを一目見て、絵美はそんなことをつぶやく。
(なんか狙われてる……!?)
山奥の小美術館で働くのもあと半年。理性がもたなくなるのが早いか、変態館長の餌食になるのが早いか。
いろいろと問題はあった。