別離
詩が書けなくなって長らく久しい。とはいえ、僕の頭の中はいつもイマージュでいっぱいだ。山を抜ける道を通って大学に行く時には、きまって風を感じて海に近い春の街にいるような気分になり、やがて、このまま進んでもあるのは世界の果てだけだ、といった想念に取り憑かれる。寒い日には寂寥を感じ、凍った湖の上で、雪に包まれて静止した白鳥のすがたが脳裏をかすめる。そして詩人が「街」と言った時には、確かに街が創造されるのだと感じる。だけど、それが詩に結びつくことは無い。書こうとすると突然、僕の想像力は影をひそめ、凡庸なイメージ、あるいは単なる模倣に終始してしまう。とはいえ、詩を作る時に僕が模倣をしなかったことは一度もなかった。いつもランボー、あるいはマラルメの詩句が頭の中でうごめいていて、その影響から脱することはじっさい不可能だった。だけど、昔はそれなりのオリジナリティーを確保できたと自負できる作品を書けた。今は全然だ。僕に才能が無いのは明らかだった。真剣に詩を書いていた頃の自分を思うとなんだか笑えてきた。僕は自分の過去を清算する必要があった。記憶を見納めする旅に出て、それを終えたら全くの別人として生まれ変わる……。そう、ランボーみたいに。そのために僕は最後の詩を書こうと思った。だけど、相変わらず僕の中の詩想は死に絶えている。誰かに助けを求める必要があった。だけど誰に? 中学時代を除いて、僕は詩を書いていることを誰にも言わなかった。そう、中学時代のあの少女。彼女に会えれば何か見つかるかもしれない。
***
彼女と会うことが出来た。それは全くの偶然だった。彼女も記憶をめぐる旅をしていて、僕を探していたのだった。夕暮れ時、僕と彼女は昔住んでいた所に近い、雑木林の傍でばたりと出会った。僕も彼女も、一瞬で互いを認識した。だけどお互い言葉に詰まって、しばらく沈黙が続いた。やがて、彼女は無言でポケットから紙片を取り出して言った。
「これ、君が書いたの?」
見覚えのない詩だった。マラルメの『賽の一振り』のような、視覚的な効果を狙った断片。たいしたことない詩かもしれなかったけど、そのときの僕はそこに、才能の欠片を感じた。
「いいや、でも面白いね」
「なんだか懐かしくならない?」
「確かに」
「でも君じゃないとすると……」
「心当たりがあるのか」
「高校の時の友達」
そう、彼女は高校でも詩を書いていたのだ。友達と一緒に。
「その人、会ってみたいな」
僕の言葉はあまりに突然のものだったかもしれなかった。だけどそれを言うなら彼女の出会いがしらの言葉も唐突だ。思えば中学時代、彼女とはこんなふうに傍から見てるとぎこちない会話をしていた。だけど本人からするとそれは全くの自然体で、お互い何の負い目も感じていなかった。
「そうね。私も一回君と彼を会わせてみたかったし」彼女は乗り気だった。
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その彼は彼女が高校を卒業して別れて以来、行方がつかめていなかった。彼女の別の高校時代の友達(そう、彼女にはたくさん友達がいたのだ)に聞いてみても、その消息を知る者は誰もいなかった。彼女から彼の話を聞かされた。いつも死にたい、って言っていて、マラルメに相当入れ込んでいた。もしかして本当に自殺しちゃったのかも……。
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彼の消息は未だ掴めず。いつの間にか彼女と会うことも少なくなってきているし、最近の彼女は何となくよそよそしい。もしかしたら彼女は僕より先に自分の過去を断ち切ったのかもしれなかった。
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結局彼の居場所を突き止めることもなく、彼女と会うことも無くなってしまった。これで僕の望みは完全に断たれた、というわけだ。
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彼女の友達から電話が来た。彼女が死んだ。
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彼女の部屋から製本された手書き詩集が見つかる。そこにはあの紙片の詩が含まれていた。
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彼は、自分の詩集を編み上げた後に自ら命を絶ったのだった。彼女もそれに従った。僕は今でもこのことを直視することができずにいる。
あとがきの代わりに作品の経緯のようなものを少々。
ラノベ風の文体の第一部は、主人公がヒロインの家にお見舞いに行って少し仲良くなったところで突然終わるが、これはこの文体でこのまま物語を続けてもつまらないと思ったからだ。そこで、第二部は文体と語り手とシチュエーションを変えて物語を展開した。第二部を半分ほど書いた辺りで、一章ごとに語り手と文体を変えるという新しい構想を思いついたが、それは私の手に余るプランだし、何よりこの小説の執筆に面白さを感じなくなったので、結果的に第三部で物語は唐突な終焉を迎えることになった。