追憶
小さい頃、私はよく男の子と遊んだものだった。公園で鬼ごっこやかくれんぼしたり、川で泳いだり、ちょっとした雑木林に入ってみたり。女の子達としゃべったりするより彼らと冒険する方が刺激に満ちていて楽しかった。……そういった記憶の中に出てくる彼らの名前はもう分からない。けれどもそれがどこでのことなのかははっきりと覚えている。もっともそういった場所のほとんどは、今はもう痕も形もないのだけれど。
秋空の下、私はひとりきりで、小学校の前に来ていた。そう、ここで私はひとりだった。小学校に入って気付いたのは、私は冒険は好きだけど、運動は苦手だということだった。それに規律やルールも。高学年になるにつれ、女の子たちは自分たちの社会とそのルールをより堅固なものにしていったし、男の子たちは私を避けるようになった。子供たちの騒ぎ声の中で、私はひとり孤立していた。それ以上のことはよく覚えていない。校舎に入れば何か別の明るいディテールが蘇る気もした。だけど、それが何になるだろう。それは遠い昔のことで、今の私とは全然関係ない。じっさい、ひとりきりだったことも私の思い出、というより別の誰かのもののような気がしていた。ここには私に関するものはなにひとつ残ってなかった。
私は立ち止まるのをやめて、もっと小さい頃、それから中学生になってからも度々訪れた公園を目指して歩き出した。中学校の集団生活の中にも、私の居場所は無かった。けれど良いこともあって、男の子の友達ができた。河合昌樹――マサ、と私は呼んでいた――という、蒼白な顔をした男の子で、いつも本を読んでいた。病弱ということで学校をよく休んでいたけれど、じっさいは学校に行くのに気が進まないだけで、そんな時、彼はよく公園に行って、その日差しと静けさの中で詩を読むのだった。
マサを初めて見かけたのはこの公園でだった。日脚が少しずつ短くなっていく十月の午後。いつも彼は屋根つきのベンチに座って本を読んでいた。不思議な雰囲気があった。私はいつも、そんな彼を横目に公園を通り過ぎて家に帰るのだった。彼は私の通学路の風景の一部になっていた。ある日、学校で彼を見かけた。同じ学校の人だとは思っていなかったのでとても驚いたし、人違いじゃないかとも思った。あふれる興味を抑えられなくて、いつの間にか私は彼に話しかけていた。それも何故か丁寧語で。
「いつも、公園で本を読んでますよね」
「……ああ、そうだけど」彼もいささか驚いているようだった。
「どんな本を、読むんです」
「……詩、だよ。象徴主義の」
彼はボードレールやマラルメを何篇か読ませてくれた。それらの詩は悲哀に満ちていた。それも、ちょっと悲しくなったとかそういうレヴェルのものでは全然なくて、もっと徹底していて、人生とか、世界そのものに失望しているような感じだった。そのときの私は少しさびしかったとは思うけど、慣れていたので全然悲しくはなかったし、鬱でもなかった。だけど読んでいると不思議と陶酔感を覚えた。世界の映し鏡を覗いているような気さえした。そうマサに言うと、彼は、それが詩だよ、と言って微笑んだ。別れる前に、私は彼から詩集を借りた。『イリュミナシオン』、ランボーが筆を折る直前に書いた幻想的な散文詩。一晩で読み終えて返しに行ったら、飽きるまで持ってていい、彼はそう言ってくれた。そしてそれは今も私の本棚の中にある……。
それからマサとは毎日のように会話した。学校で、それと公園で。そうやって話しているうちに、彼はしだいにその感性を私に伝染させていった。彼の中にはマラルメのような虚無があった。そして彼はその虚無を受け入れているようだった。一緒に学校をずる休みしたある日、いつもの公園で彼は言った。
「君に、夢はある?」
彼らしくない質問だった。私は何と答えていいのか分からなかった。
「僕にはあるんだ」
詩人になること。そして旅すること。それが彼の夢だった。だけど、夢は、夢でしかなかった。つまり、実現され得ないし、かりに実現されたとしてもその瞬間から夢のその輝きは失われる。もちろん彼はそのことがよく分かっていた。というのも彼はしょっちゅう、そう言っていたから。だから彼の言う詩人とか、旅とかは夢の中、想像の中の中にしか存在しない、雲のようなものだった。そして彼は言っていた。詩だけが、雲をつかめる、と。今になって思えば、彼がマラルメに心酔していたということは明らかだったのだけど、その時の私にはそんな教養は無かった。
公園を通り過ぎても、私はまだ歩き続けた。これも終わったことだ。高校はマサとは違う所に入った。というのは、私は彼より随分頭が悪かったから。予想はしていたけど、高校でも私はクラスに馴染めなかった。マサとも連絡を取ることが無くなってしまってて、詩集だけが友達だった。そうやって半年ぐらいの日々を無為に過ごした頃、唐突に父の転勤が決まって、家族みんなで引っ越しすることになった。転校先でも孤独で、これから一生ひとりきりで生きていくことになるんだろう、と思った。
だけど、そうはならなかった。転校先の学校には、マサと似た顔をした男の子がいた。でも似ているのは顔だけで、性格はマサよりずっと不器用だった。それに友達に囲まれていた。希死念慮があるとか言っていたけど、それはなんとかして生きるための口実で、ほんとうは、死ぬのが怖かったんじゃないかと思う。転校初日に、私はその男の子のグループの輪に入れてもらうことが出来た。それはおそらく、人生ではじめて孤独から完全に解き放たれた瞬間だったと思う。なんだかうれしくなって、その日は寝ることができなかった。だから次の日、私は学校を休んだのだけど、篠崎くんが、知り合ったばかりなのにお見舞いに来てくれた。このことに私は運命を感じずにはいられなかった。私は喜んで彼を家に上がらせた。彼は詩については何も知らなかったので、今度は私がマサみたいに色々なことを教えないといけなかった。彼はすぐにマラルメに興味を示した。やっぱり運命だったのだと思った。
私は彼、篠崎のことをシノ、と呼ぶことにした。彼にとっては死を、私にとっては詩を思い起こさせるそのあだ名は、すぐに彼らのグループの中で定着した。シノはそのグループではもっぱら聞き役だったらしいけど、私が加わってからは、シノは少し積極的になって、私が代わりに聞き役になった。私はそのグループでは、魔女とみなされていて、普段は寡黙だけど、みんなの知らない世界を、別の地平線を開く鍵を持っている存在として一目置かれていた。実際、私はかつてマサから譲り受けた鍵を、シノに与えたのだと思う。というのも私と出会ってから、彼はひたすら詩に没頭していたから。
いま、私のポケットの中には一枚の紙切れが入っている。それは、最近になって私が『マラルメ詩集』をパラパラめくって読み返している時に偶然発見したもので、こう、書かれていた。
夜明け時(紫がかった山際で
炸裂し/電子回路が//
(青空と/
(青空に/
浮遊し、
/(覆われた(世界)/
長めの詩の断片でもない限り、たいしたものとは言えないだろう。それが私の冷静な第一印象だった。だけど同時に昔のことを思い出して、なんだかひどくさびしくなった。そう、その時、私の前にはもうマサもシノもいなかった。それどころか、私を育ててくれた家族すらいなくなっていた。完全にひとりきりだった。それで私はふと、子供時代の記憶をめぐる旅に出ようと思いついたのだった。そして、突き止めようと思った。この詩の断片のようなものを書いた人を。おそらくマサかシノだろう。だって、二冊あったマラルメの詩集に触れていたのは私の知る限り、その二人だけだったから。それか、もしかしたら私が昔それを書いていて、そのことをすっかり忘れているだけかもしれない。いずれにせよ、彼ら、旧友たちに会えば、手掛かりは見つかるはずだった。ところが彼らの足跡すら、今はもう分からなくなっていた。昔の思い出の場所を訪れるのがせいぜいだった。彼らを繋ぎとめる努力をしてこなかった私が悪かったのだと思うけど、それでも、あまりに悲しかった。
坂道を上り切った先に、夕日で黄金色に染まった雑木林が見えた。