邂逅
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何も楽しめないし、気を紛らわすために何をやっても無駄で、生きること自体に吐き気がするような気分になったことが君たちにはあるだろうか。俺はけっこうな頻度でそんな気分になる。今もそうだ。起きた時から虚無感が、体の底という底から込み上がってきている。外は晴れているので、〈樹海〉に行くのもいいかもしれない。ここで、「何かつらいことがあるのだろう」、などと同情する読者がいると困るので言っておくが、別に嫌なことは何もない。大切な人が死んだとか、友人に存在を全否定されたとか、すっかり忘却していたトラウマが蘇ったとか、将来が暗すぎるとか、日々重労働を強いられ何をする暇もないとか、そういうのでは全くない。それにもかかわらず、俺は生まれてこのかた十七年間、常に死にたいと思ってきた。もちろん、いつも強く死にたいと思っているわけではない。今日みたいに死にたくてしょうがない、と思う日はむしろ少なく、いつもはなんとなくぼんやりと死にたい、と思っている。
こういう、よく分からないけど死にたい、というのを希死念慮、と言うらしい。対処法を調べてみるとどれを見ても必ず「まずは話しましょう」と書いてあるのだが、生活自体はそれ程苦痛でもない訳だし、面倒事に巻き込まれるのも嫌なので、克服するのはとうの昔に諦めた。とはいえ、友人に暗い人間だとは思われたくはないし、親に話しても面倒なことになるだけなので、俺はこのことをひたすら隠し続け、表面上はおとなしい優等生ということになっていた。
そんなわけで、死にたくなった俺は朝食のパンを食べた後、リュックを背負い、〈樹海〉に出かけることにした。〈樹海〉とはいっても、実際は近所の雑木林なのだが、地面には落ち葉が積もっていて、手入れされているかどうかあやしいし、滅多に人が立ち入らない絶好の自殺場所なので、俺はそれを便宜上〈樹海〉と呼んでいる。
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幸いにも〈樹海〉まで誰とも出会わずにたどり着くことができた。知人と出会うと、「どこに行くの?」とか聞かれて色々詮索さえる危険があるし、仮に向こうに見つからなくても、何となく興ざめな気分になって、死ぬ気が削がれてしまうのだ。これまでに知人を見かけて自殺を断念した回数は数限りない。
〈樹海〉には何度も行っているので別に驚かなかったが、空は快晴なのにもかかわらず中は薄暗く、湿った植物のにおいがした。最も人目に付きにくい〈樹海〉の中心部の木を一通り見回した後、上りやすそうな木を俺は選んだ。軍手を装着してから、上ることにした木の枝から枝へと手足を移動させ、首を吊るロープを結びつけるのに丁度良さそうな高さの枝にまたがった。これで後はロープを結んで飛び降りるだけだ。それだけで、楽に死ぬことが出来る。ごくり、と息を飲んで俺はリュックからロープを取り出そうとした……。ところが、リュックの中をいくらまさぐってもロープは出てこなかった。何てこった、俺は肝心のロープを忘れたのだ。今日も死ねなかったな……。まぁいつものことだが。舌を噛み切る勇気もないので俺はおとなしく家に帰ることにした。
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次の日、強かった希死念慮はすっかり弱まり、ただぼんやりとした空虚感しか感じなくなった俺は仕方なく地元の学校に登校した。この学校の唯一の利点は、丘の上に立地しており、屋上からは町全体を見渡せることで、つまり、そこにいれば一歩も動かずに町中の死に場所を検討することができるのだ。もちろん、今すぐにでも死にたくなった時はそこから飛び降りることもできる。とはいえこのような場所に学校という名はふさわしくないので例に倣って俺はここを〈城〉と呼ぶことにしている。
そんなわけで俺は〈城〉の通路を歩いていたのだが、階段にさしあたった辺りで唐突に後ろから肩をたたかれた。俺の知ってる中でこんなことをするやつは大杉淳しかいない。振り返るとににやけた奴の顔が見えることだろう。身長はやや低めだけど、姿勢と視力と運動神経がやけに良くて、性格はおとなしめ、成績は良くないが物知りな、どこの学校のどこの学年にも一人ぐらいはいそうな奴。運動神経皆無のおとなしくて優等生の俺とは性格が合わないと思うのだが、彼とはなぜか中学時代からの悪友いう関係だ。なぜだろうな、本当に。
「よっ、いつも通り冴えない姿勢だなぁ」
大杉はそう言いながら猫背だった俺の姿勢を直す。
「冴えない姿勢で悪かったな」と俺が言うと、「まぁまぁそう言わずに」と言って、頼んでもないのに、猫背でいると背骨が曲がっていくだけでなく、脳機能も低下することや、セロトニン分泌量と猫背の相関について等、ちょっとネットで調べれば分かる悪い姿勢についての豆知識を俺にむかって披露してきた。ちょっとネットで調べればわかるような知識に関しては俺はいくぶん懐疑的なので、教室に着いて別れるまで大杉の言葉を聞き流した。
教室に入るとともに大男が俺に寄ってきた。藤田毅、スポーツ万能にして成績優秀な俺の悪友その二だ。こいつも俺と性格が合ってる気がしないのだが。
「昨日お前みたいな猫背の男が、リュックサック背負って近所の雑木林に入っていったとかいう噂を聞いたんだけど、まさかお前じゃないよな」
唐突な質問に俺はいささか驚いたが、もちろん俺です、と言うわけにもいかず、
「違う、昨日はずっと家にいたし」と即答した。
「そうか、ならいいんだ。いや、あの中がどうなってるのか知りたくてさ。もし今度行くなら俺も連れて行ってくれよ」
とりあえず俺は「ああ」と答えておいた。
まったく、どう反応すればいいものなのか。
まぁ藤田が雑木林の中に興味津々な理由も分からんでもない。というのは前にも言った通り、あそこは手入れが放棄されてもう長い暗くて不気味な空間で、それ故入っていく者はほとんどいないため、あの中に何かいる、というのが学校の怪談の一つとしても取り上げられているからだ。そもそもあそこ、学校の敷地じゃないんだがな。なんにせよ、今度から〈樹海〉に行くのはやめておこう。
そのあと、藤田と二、三のどーでもいいような言葉を交わしていると、一限目が始まった。
* * *
授業を聞いてて退屈するようなことはあまり無いが、強い虚無感を感じることはよくあるし、静かに死ねるような場所が無い〈城〉にいる今は、そんな強い虚無感を感じたくなかったので朝の四時間のうち二時間はまじめに聞き、現国の時間を睡眠に、数学の時間を妄想に充てて、俺は昼休みを迎えた。
昼食は、俺とさっき紹介した俺の悪友二人に、内布遥、和薬捺希の二人も加えた五人で取るのが慣例になっている。内布遥は生まれつき茶髪気味で、ショートヘアーのおとなしく明るい感じの子で、俺の幼馴染。和薬捺希は黒髪ストレートロングで、明るくやや男勝りなところのある子で、成り行きでクラス委員長をやらされている。ふたりともそれなりに整った目鼻立ちをしていて、身長は標準的だ。あと、内布と和薬はそれぞれ大杉、藤田とかつては恋人同士の関係だったが、今は気の置けない友人のポジションに落ち着いている。
幸いなことに、例の雑木林の話題は出てこなかった。というのも昼休みは捺希がどこかからキャッチしてきた、明日転校生が来る、という話題で持ちきりだったからだ。藤田が「おっ、どんな娘が来るのかな」と言えば大杉が「いや、女子と決まったわけじゃないし」と言い、捺希が「でも転校って大変だよなー。一から友達作んなきゃいけないし」と言うと、遥が「確かにねー」と言い、藤田が「じゃあ、孤立しないように俺たち転校生の友達になってあげようぜ」といったのにみんなが賛成した。賑やかな昼休みだった。こんな時だけ、俺は虚無感を忘れることができる。
* * *
転校生は女子だった。黒板に小さな字で向山莉奈と書き、「趣味は読書です、よろしくお願いします」とその俯き気味の少女は小声で言った。黒い髪に黒い瞳、転校前の学校の黒い制服。そしてそれらと対照的な真白の肌。暗くて、何となく話しかけづらそうな雰囲気があった。彼女は先生に指定された後ろの隅の方の目立たない席に座った。
休み時間になっても誰も彼女に近付こうとしなかった。それを見かねた俺たち、つまり俺と内布、和薬、藤田、大杉がジャンケンをして負けた人から順に彼女に話しかけることになった。誰だって初めに話しかけるのは緊張するものだからな。
実際、彼女はかなり近づきがたいオーラを周囲に放っていたと思う。……あるいは、よそ者を受け入れる余裕のあるグループはクラスの中では俺たちだけで、初めから俺たちがその役割を担わなければならなかっただけだったのかもしれない。
不幸なことに、ジャンケンで負けたのは俺だった。別に話しかけること自体はそんなに嫌ではないのだが、うまく会話できないと捺希たちに失望される恐れがあった。そんなわけで気が進まなかったが、捺希が「さー行った行った」と言うし、他の奴やも「頑張れ」という無言のメッセージを送ってきたので俺は仕方なく勇気を奮い立たせて、彼女の机に近付いた。
「なあ、お前、どこ出身?」こんな話し掛け方しかできない自分が情けなかった。彼女はそっぽを向いたまま答えた。
「……兵庫県」
「兵庫県のどこ?」
「神戸市。西区の明石駅の近く」相変わらず彼女はこちらを向こうとしなかったが、どうやら俺は会話の糸口をつかむことが出来たみたいだった。
「俺も昔そのあたりに住んでたよ。もしかして小学校同じだったかも」俺がそう言うと、やっと彼女はこっちの方を向いた。そして即座に、
「それは無い」と言った。
「かもな。俺もお前の名前はここで初めて聞いた気がするし。あ、俺の名前は篠崎孝太郎な。これから半年間よろしく」
俺の態度は少々強引でぎこちなかったかもしれないが、彼女は「……よろしく」と返事してくれた。うまくいったみたいだった。
直後に捺希が寄ってきた。
「孝太郎、あんた、なかなかやるじゃん」
そして俺が「まぁな」と答えるより前に、彼女は向山の方に向き直って、
「私は孝太郎の連れの和薬捺希、あとあそこにいる三人も私の連れ。何か困ったことがあったら私たちに聞いてくれたらいつでも対応するから、よろしくっ!」
ちょっと待て、いつの間に俺たちはお悩み相談係になったんだ、とか考えている間に捺希は他の三人も連れてきて一人一人に自己紹介させた。まったく強引な奴だった。やれやれ、俺の努力は何だったんだ。
今日の残りの休み時間は強引に俺たちのグループに引き入れられた向山を捺希が質問責めにして、俺たちがそれを周りから見守る、という構図でひたすらしゃべって過ごした。
向山は迷惑そうな顔をしていたが、時々、捺希の不意を突いた冗談に笑ったりもした。いい兆候だった。
* * *
ところが次の日、向山は学校を休んだ。風邪が原因かもしれなかったが、大杉と藤田は捺希のせいだと考えた。実際ちょっと迷惑がっていたし。
捺希は「ぜったい風邪だよ、だからみんなでお見舞いに行こうぜ」と言ったが、藤田が「風邪じゃなかったらどうすんだ、それに知り合いになったばかりの奴に大勢来られるのも迷惑だろ」と言って止めた。それを聞いた内布が「じゃあ、誰かひとり、向山さんがなるべく落ちつけそうな人が行くというのは?」とか言い出して、なぜか俺の方を向いた。そしてそれを補足するように捺希が「確かにあの子、孝太郎によくなついてたね」と頷いて、残りの二人も頷いた。
マジかよ。そんな実感は全くなかったのだが。まぁよく考えてみると、向山は捺希に質問責めされているときも、ちらりと俺の方を向くことがあった気もしたが。なんにしたところで、みんながそう言うのなら行くしかあるまい。それに虚無感を感じてるかもしれないやつのことは何となく放っておけないし。死にたくなるのは俺一人で十分だ、そう強く思う。
そんなわけで、いま、俺は向山の家の前にいる。正確には向山の家の前で逡巡している。既に知り合いになった少女に話しかけるのには大した勇気はいらないが、ひょっとしたらもの凄く厳格で頑固かもしれないその少女の親と会うことになるかもしれないとなると、さすがの俺もかなり緊張する。このことに気づいたのは自宅から割と近かった向山の家の前に到着してからのことで、やすやすとお見舞いを引き受けたのは迂闊だったと俺は後悔した。インターホンを押すのがまさかこんなに勇気のいる行為だったとはな。いまは大して希死念慮が強いわけでもないのだが、死にたい、と強く思った。
こうして合計三十分ほどインターホンの周りを頭を抱えながら巡回していると、不意に玄関の扉が鈴の音を立てて開きかかった。まさか彼女の父親が家の前に不審者がいると思って説教をしに来たのではあるまいな。まぁ実際俺はどう見ても不審者なのだが……。
逃げ出すなら今しか無かった。だが、俺は何を思ったのか踏みとどまってドアが完全に開くのを待った。
意外なことにドアを開けたのはパジャマ姿の莉奈だった。この様子じゃ本当に風邪だったのかもしれない。
「何か用?」とその虚ろな瞳の少女は言った。
「いや、お見舞いに、と思ってさ。今日の授業ノートとか持って来たし」
「入って」
帰って、の聞き間違いじゃないだろうかとも一瞬思ったが、彼女はドアを閉めようともせずじっとそこに立っているので、中に入ることにした。向山の後を追って、木製の階段を上る。
「両親とかは?」
「仕事。九時頃まで帰ってこないと思う」
それを聞いて安心したよ。
「風邪はもう、大丈夫なのか」
「うん、治りかけ」
彼女は階段を上りきったところにあるドアを開けた。飾り気のない木製の椅子と机と箪笥と本棚、それにベッド。それ以外のオブジェは何一つ無い、質素な感じの部屋だった。
「ここがお前の部屋か?」
「……そうだけど」
向山はベッドの上に座った。俺はカバンからビニール袋を取り出して、
「授業ノートのコピーとかお見舞いの品とか全部この袋に入ってるから」
と言って差し出すと、彼女は黙ってそれを受け取った。それから話すことが無くなって三十秒ほど沈黙が続いた。
「じゃ、帰っていいかな」
「待って。ちょっと話がしたい」
「……ああ、いいけど」
そしてまた三十秒ほど沈黙。仕方ない、何か話題を振ってみるか。
「趣味は……読書だったな。どんな本読むんだ?」
すると彼女は恥ずかしそうにこう言った。
「……詩が好きなんだ。……マラルメとか」
「ふうん、どんな詩?」
俺は詩をほとんど読んだことが無かったし面白くないものだと思っていたのでただ、会話を続けるためだけにそう言ったのだった。
「ちょっと待ってて、持ってくる」
彼女は質素な本棚から黄土色と赤の背表紙の本を取り出して、親指と人差し指でページをパラパラと捲った。
「とりあえず、これ読んでみて」
それはこんな四行からはじまっていた。
処女であり、生気にあふれ、美しい、今日という
今日こそ 酔った羽ばたきの一撃で 打ち砕いてくれるのか、
堅く氷って忘れられたこの湖を、湖の氷花の下には
遁れえなかった飛翔の 透明な氷塊が 憑き纏っている。
教科書に載っているようなものとはまるで違う、不思議な感じの詩だった。全体の意味はつかめず、ただ漠然としたイメージだけが頭の中で躍った。
「……よく、分からないけど面白いな」
「でしょ。あとこれとかも読んでみて」
こんな具合で俺は「陽春」「窓」「ベルギー友の思い出」「エロディヤード」などの詩を読んだ。詩の内容はよく理解できなかったが、マラルメは相当な鬱病で、自殺願望があることは分かった。そう、これは危険な詩集だった。自殺する前にはこの詩集を読み込まないといけないような気がした。いつの間にか時刻は八時を回っていた。帰り際に俺は彼女に言った。
「これ、借りてもいいか?」
「うん、いいよ」
「いいのか?大切なものじゃないのか?」
「もう一冊持ってる」
「そうか。じゃ、遠慮なく借りれるな」
結局詩を読んだだけで彼女とは殆ど話さなかったが、彼女は満足げだった。
* * *