譚之弐 忌譚 その壱
あの日の夜、正確には真夜中の午前二時頃だったろうか、僕は自分の腕を見つめていた。
いや、より正確に言うのならばそこに生まれた顔を…。そいつはくけくけと耳障りな笑い声を立てて僕の目を否応なしに覚ました。
母がその異常な声に飛んできた。
夜遅くに新聞記者の父がいないのは日常の事だった。
「拓磨っ、なんなのっ!」
寝ぼけ眼で怒ったように尋ねる母に僕は黙って自分の腕に生まれた顔を見せた。
妙に冷静な自分が無性にお可笑かった。
「くけけっ、知っているかいばばぁ、いつもいつもこいつは通りを歩く女共を犯し殺したいと思っていた。自分のことを省みてはくれない父をその手でくびり殺したいと日々考えていた。憎い憎いクラスメートの死を強く強く願いもした」
下卑た男のようなねちっこい声で顔はそう言った。
「違うっ!、嘘だっ!!」
そう叫んだ瞬間、僕は言葉の脆弱さを知った。
母が僕に背を向け走りだそうとして、その動きがふいに止まる、いや止められていた。僕の左腕に、
「違うっ、僕じゃない!」あわてて僕の意思を伝えなくなったその腕を必死に押さえつけ、次の瞬間には、僕は悲鳴をあげていた。左腕を押さえていた掌につけられた奴の歯形から血がにじみ出していた。
どうやら 奴に噛みつかれたらしかった。
その僕のものでなくなりつつある僕自身の腕に、不意にライターの炎が押しつけられて僕は再度悲鳴をあげた。
そして僕の手は母から離れ 母は夜の町へと飛び出していった。
僕を置き去りにして。
焼かれた腕は、その持ち主に痛みだけは残してくれたようだった。
「くけくけっ、見捨てられたな、しかしたいした女だな、この俺様が反射神経だけは支配できないのを知っていやがったのかな、あの阿魔っ、しかしそれでも愛する息子の腕を焼いたという事実は変わらねぇがねぇ、くけけけけっ」
沈黙するだけの僕につまらなさを覚えたのか奴は得意気に様々なことを喋りはじめ、僕はそれを聞くともなしにただ黙って聞いていた。
誰からも必要とされなくなった時、人はそれでも人であり続けられるのだろうか? 走馬灯のように僕の頭の中を今まで知り合った人達の顔が走り去り、そのうちの二つの声が灯りの残滓のように部屋の中に響いた。




