譚の伍 嵐の前夜 その伍
「土壇場になって逃げるほど安い女だとでも思ってた?」
乙音はちょっとスネた顔をした。
「いいや、逃げだしたいのは僕さ」必死で言い訳を探す、逃げだそうとすればするほど、彼女の存在を間近に感じる。そんな僕の戸惑いを見透かすかのように彼女の指が僕の指に絡みつく。
「逃げて欲しい?」悪戯っぽく彼女が微笑んだ。
「今の僕は、たぶん普通じゃない。不安なんだ明日が来るのが…、目の前に”死”という言葉がちらついて離れないんだ」
なお言い訳を探す、今度は自分を正当化する 為に…、つくづく自分は弱い人間だと思った、自分はもっと強いと思っていた。そしてそうあろうと努力してきたつもりだった。
しかしその結果は…、このザマだ。
「アタシがほしい? 女の温もりを肌で感じていたい?」猫のように表情をくるくると入れ替えて彼女は僕を誘う。
「君じゃなくてもいいのかもしれない…」卑怯な台詞だ。
「言ってくれるじゃん、こんな美人を目の前にしてさ」彼女はちょっとだけ目を伏せた。
「でも今は君の温もりが欲しい」さらに卑怯な台詞を、僕は重ねた。
「いいよそれで。今夜だけは何も考えないでアタシを愛して、受け入れてあげるあなたの弱さを、それであなたが生き延びようと思うのなら。好きになるのはそれからでもいい…」
そっと僕の手を自分の首筋に導き彼女は艶然と微笑んだ。
とくん、とくん、とくん。
首筋から彼女の鼓動が伝わってきた。後は何も考えなかった。そして僕は彼女の仄かな灯りに浮かぶ紅の唇に自分の唇を重ねた。
*
闇の中の片隅で蠢く光達が囁いていた。
オレタチヲコロシニヤッテクル
スクイガヤッテクル
コロサレニヤッテクル
ココニハヒカリガナイ
OhHUOOOOOOUOOOOOOOOO
GSYA GISYA
さらにその闇とは別の場所で呟く者達がいた。
「来るでしょうか」
「来てもらわなくてな、特に俺の翼を汚してくれたアイツにはな」
「来るじゃろう、何せ他に選択肢はない」
三日目の月は全てに等しく降り注いでいた。