譚の伍 嵐の前夜 その四
「あのっ、えーっとぉ…、ああっ!! あなたでしたかぁ、ここ最近私達の事を嗅ぎまわっている鼠がいるって、お爺さまが言っていらっしやったのはぁ…」困惑から、驚きへと表情を入れ替えて彼女は彼の顔をまじまじと興味深げにながめた。
「いや、まぁ、否定はしないがそういうセリフは本人を前にしてそのままいうのは問題あると思うぞ」苦笑しつつ彼は言った。「はぁ、そうですよねぇ、よく言われるんですよねぇ…、それにしても、よく無事でいらっしゃいますねぇ、お祖父様のお屋敷には気性の荒い番犬達がたくさん住んでますのに、その道の専門家の方ですかぁ?」鈴のような笑い声をたてて彼女は言った。
「そういうわけじゃないんですが、いやぁ、その節は番犬達にたいへんお世話になりましてねぇ あれはすぐに人に噛みつこうとしてよくないですよ なんでしたら拓磨の爺様にでも調教してもらったらどうですかねぇ。よければご紹介いたしますが。幸い僕は逃げ足だけが自慢でして 事無きをえましたがね」
二人は和やかに談笑していた。
『僕のじいさん!? ってことは番犬って妖怪がらみの話なのか!?って、ちょい待て、それがお茶菓子をつまみながら談笑する話かぁ』
「さて、といった所で”妖し の翁”からの伝言を伝えるのは君の役目だな」
再び真顔に戻って彼は彼女を真剣な眼差しで見つめた。
「そう、ですね…」 一つ頷いてようやく彼女は喋り始めた。”妖し の翁”からの伝言を、彼女の話が続く間、僕は僕の中の鬼を今すぐ解き放ちたい衝動に何度も駆られた。
*
眠れなかった。”妖し の翁”、そして雀に鴉、僕という人間を弄んだ者達。なんとなくこのまま闇の中に自分の意識を預けた瞬間、自分が鬼となって暴れ出しそうだった。しかし決着をつけるのは明日だ、本当はこのまま怒りに身を任せて奴らの所に殴りこみたかったが、 青瀬に「生きるために戦うのなら、今日一日は頭を冷やせ」と殴られた。その痛みのおかげで僕はまだ人間でいられる。
あのまま怒りに身を任せていたら、僕はあの場で鬼と化していただろう…、事実、あの時僕は鬼になりかけていた。彼のくれた痛みがなければ、今ここに僕は、すでに存在していなかっただろう。
勇気のある男だ、なぜ彼が命の危険を犯してまで、僕を助けてくれるのかわからないが ただありがたかった。
おかげで僕はまだ一人じゃないと実感できる。
『…!?』
闇の中で気配が動いた。影はこの旅館の人の気配に紛れるようにしてこの部屋を動いた。気配の主は天井で息を殺して、僕の様子をうがう、僕は目をつむって気配が部屋の風を荒らすのを待った。
ヒュンッ!
影が僕の真上に落ちてきた。僕はすばやく布団の中からすり抜け、体を入れ替えて彼女を布団の上に押さえつけた。「拓磨ぁ 今宵も夜這いにきたよんっ♪」闇を固めたような漆黒の女は組み伏せられたまま、悪びれもせずに明るくそう言った。僕は 毎夜とは違って、いつまでたっても乙音を捕まえているその手を放さなかった。
「なんで…、逃げない」別に僕は力一杯彼女を組伏せているわけじゃ ない。ただ彼女を捕えたその手を放すのを拒んでいるだけ、僕の力は彼女がその気さえあればすぐにでも振りほどける、その程度のものだった。