譚の参 春の嵐 その四
いい気になっていた、
まぬけな話だ。目の前の妖しに気を取られて大事なことを見落としていたなんて、奴は おとなしくしているんじゃなかった。おとな しくさせられているんだった…。奴が自分を押さえつけている力の一部が消えたという隙を見逃すはずはなかったのだ。
たとえそれがほんの少しの綻びでさえ、奴にはそれで充分だったのだ。
*
「見ぃつけたっ♪」
何とか奴を押さえつけた僕の頭上から軽快な 女の声が響いた(ふってきた)。
「富井 拓磨っ! 鬼を内包する者よっ!!」言っ て彼女は木上からその漆黒の身を踊らせ、音も無く両の足で地面に這いつくばっていた僕の眼前に降り立った。
半立ちの姿勢からの彼女のその動きはさながら豹か猫の様を思わせた。漆黒で身をかためた女は、つつっ、と大地に四肢を踏ん張り、未だあえぎつづける僕の顎先にそのしなやかな指先を触れさせ、つ、 と上向かせた。
昼日中には目立ちすぎる彼女の漆黒の服と流れるような黒墨のような光沢のない髪は、鈴音と名乗った猫又の瞳以外の色素を失くした姿と奇妙なコントラストを成していた。
しばし、彼女は僕の瞳を、正確にはその奥に潜むものを物色するかのように見つめ、「やっぱ、見ただけじゃあわかんないねっ♪」の声と同時、不意に僕の唇は温かなものでふさがれた。
『こらっ、舌を入れるんじゃあない』彼女が僕の内部を文字通りまさぐるようにしたとき、僕の中のものが恐怖に身じろぎしたような気がした、何者だこいつ…
「うんっうんっ いいお味っ♪ これならまるごと喰ってもいいわね、あんた私と交わんなよ、優秀な”狩人”を産む為にさ、交換条件はた だ一つ、あんたが鬼になったらあたしが殺しくて喰らってあげるよ あたしはそれを実行するだけの能力がある、悪い話しじゃあないと思うんだけどなぁ♪」 笑顔で言い、両の手で頬を包み込みさらにこやかな微笑みを浮かべて彼女は僕の顔を下から見上げた。