譚の壱 紅葉旅館より その壱
そこをお歩きの皆々様方、あなた様がどのような気まぐれからこの世界に立ち寄られましたか、その経緯についはとんと存じあげませんが、それはさておき、そのついでに ちょいとこんなお譚などは如何ですかな、あなたと同じように ちょいとした潜みに埋もれていたきっかけに背中を押された一人の青年の物語などは……
―あやかし―
人の奥底に闇が眠るといふ
その名を 人は妖しと呼ぶ
―譚之壱 紅葉旅館より その壱―
略地図と道とを確かめながら歩く僕の前に、人外の者の気配が現われ、瞬間 迫り来る黄色い物体をナップサックを楯に、自意識過剰、被害妄想だとかいう自身の声を無視しながら 用心して受け止めた。と、目の前の右に折れた路地から小さな人影が恐る恐るといった感じで下から覗き込み、僕と受け止められた黄色いゴム毬とをしばし交互にじっと見つめると、思いつめたような眼差しで
「返して…、それ あたしの…」とただそれだけをおずおずと告げた。
典型的なおかっぱ頭に人形の赤い和服を着て冗談のようにでかい目で不安そうに自分を見上げる童女が、人形そのものであるということに気づくとともに同じ顔をした人形がもう一人―生命を持つ人形を果たして人形と、そう呼んでいいのだろうか―ひょいっと言った感じで顔をだし
「ねぇねぇ一見姉どっち、どっちぃ、当たったぁ?外れたぁ?」と騒々しい足音を響かせて、僕と受け止められたゴム毬とに気づくと、さも残念そうな表情で「なぁんだ なぁんだっ!つまんない、だめだよっ!!お兄ちゃんっ!!受け止めるなんて!そんなつまんない事しちゃっ!! あーあせっかく午後のお茶菓子賭けてたのにっ、これじゃ引き分けじゃないっ、どーしてくれんのよっ!!」と一人 勝手な事をわめきたてるもう一人を僕は無視する事にした。それから同じ顔で未だ僕をじっと見つめる子に受け止めたゴム毬を転がしてやった。片方がゴム毬を拾うと二人は現れたときと 同じく、ひょいっ、と路地に消えた。かとおもっていたら今度は二つの同じ顔がかどから、ひょいひょいっと瞳を好奇心という色で染めあげて、
「わたし 一見。お兄ちゃん、何処行くの?」と、まだおどおどといった感じのぬけない一人がそれでも好奇心には勝てない様子でそう 尋いてきた。
「鈍いねー、お兄ちゃん。お兄ちゃんのこと気に入ったから案内してあげるって言ってそう言ってんのよっ!ああっ、この春の陽射しのように移ろい易い乙女心が分からないなんて、こーの朴念仁っ」
それに僕が答えようと唇を動かす前にもう一人がそう言って悪戯っぽく笑った。
「あ、そいから私が二見ねっ」さらに答えようとする僕に委細かまわずマイペースで自己紹介を終えて、ようやく彼女達はよく動く瞳達を僕に向けてくれた。
どうやらこの二人の”人間ではない者達”に敵意のないことに気づく。あんな事があった後でも彼女達の存在とこの状況をそう抵抗もなく受け入れている自分に苦笑しつつ、
「紅葉旅館ってとこ知ってる?」と彼女達の最初の問いに僕は答える。と、二対の瞳はさらに輝きを増した。
「なぁーんだぁ、わたしの新しい召使いって お兄ちゃんのことだったのぉ、そういうことはもっと早めに言ってくんなくっちゃあね、そうと知ってればもっと歓迎してあげたのにっ! ねぇ お兄ちゃん、やっぱゴム毬一個じゃ派手さにかけけるよねぇ、そう思うでしょ、ねぇねぇってばっ!!」
「二見っ! 行こっ、お兄ちゃん、私達 そこに居るの」言って物静かな方が僕のあいてる方の手を引っ張り始める。ともう一人の方も「あっずるーいっ一人だけ甘えてっ、私もっ私もっ!」と叫んでもう一方の手に強引にぶら下がった。さすがに軽いなとか思いながらも僕は二人ともが僕を賭けのだしにしたという事実を忘れてはいなかった。