天の川
撫でるように吹く風、蛍の光、天の川の淡い光の帯、そしてあなたの掌。優しさなどこの世界にはどこにだって溢れている。だけど僕は、母親の優しさを忘れた。幼い頃からつい最近までの母親の記憶がない。
お金という権力を振りかざす父親と存在感のない母親、それが僕の家族の姿。そこには僕はいない。無論僕はいたのだ。そう、両親のストレスの発散の場という役割を背負って存在していた。ただ僕は、心の中で一人泣いていた。声など出せるわけない。そんなことしたらまた殴られるに決まっている。僕の心は色を失くした。どんな状況にも何も感じないように努めた。それが、僕が自分を守るために覚えた最初の術だった。目は充血し、虚ろだったと思う。あまりよく眠れていなかったから。僕はその家庭という拷問の場所から逃げることもできず、優しさを知らず大人になった。
僕は、高校を卒業するとこの街を出た。あてなんかない。そんなものはいらなかった。空腹も寒さも両親から受ける仕打ちと比べたらたいしたことない。もっとも、何も食べずに生きていくことはできないから、ホームレスの列に混じって配給を待った。
それから、何度も日が昇り沈み、夜が来て、朝がまた来た。その日もまだ彷徨い続けていた。こうやって終わっていくのなら、それもまた面白い話だなと自分に冷たい視線を浴びせ、うすら笑いを浮かべたりする。まったく自分はしょうもない壊れ物だなと思った。
そんな壊れ物でも手を差し伸べてくれる人はいるものだ。僕は、公園のベンチに座り、鳩にパン屋で貰ったパンくずをぼんやりあげていた。いつも捨てられた雑誌を集めているおじいさんが、今日スケッチブックを拾ったという。まだ新しかった。そして、使いかけの短くなった鉛筆を僕に差し出す。
「おれはこう見えても絵描きだったんだ。売れなかったが、好きで描いているのだからそれでもいいと思ってやっていた。そしたらこのざまだよ。だけど、絵を描くっていうのは悪くない。おれはもう描けないけれど、お前にはまだ将来がある。そのままでいいんだ。お前のそのままの姿を描けばいいんだ。」
そう言って半ば強引にスケッチブックと鉛筆を渡す。僕は少し考えたあと、それを受け取った。
そして今僕は生まれた街に戻って絵を描いている。色彩はないが、これが僕の姿だからそれでいいと思っている。黒と白、悲しいことだが僕にはこの二色で十分なのだ。この街に戻ったのは、自分から逃げないため。いや、これが精一杯の両親に対する復讐なのかもしれない。
ただ、一枚だけ僕の描いた絵の中に色彩のあるものがある。胎児をモチーフに描いた絵。生まれ来る世界を前に母親の胎内で、静かに眠る子供。その中は光などない。ただ、母親の拍動と血液が流れる音が響くその海の中で、光を待つ。
僕の心はいつも白と黒の間。夕闇にも色彩はあるが、僕の中にはその色はモノクロにしか映らない。今日も僕は絵を描く。スケッチブックと鉛筆を貰ったあの日からずっと後になって知ったことだが、あのおじいさんも母親の記憶がない。優しさなどこの世界に溢れている。それを感じられない僕は、まだ色彩を保っている場所を探して絵を描く。
母親の死を知らせる電話が昨夜僕にも届いた。そのとき僕は心の中で一人泣いた。初めて自分以外の人を想って泣いた。夜空を見上げると淡い色彩を放つ天の川が広がっていた。心の奥深くから微かに色彩が戻ってくるのを感じた。