表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

第9章:不気味な空白

 人混みのざわめきの中に、不自然な穴があった。

 そこだけ、売り声も笑い声も届かない。太陽の下であるのに、霧でもかかっているような視界の悪さだ。


 目を集中させると、そこに人影が立っていた。いや、人影と呼ぶのも違う。


 顔の輪郭はある。だが、目を凝らした瞬間に忘れる。

 姿形を見たはずなのに、瞬きをしたらもう思い出せない。

 容姿を追ったはずなのに、記憶から消えていく。


「ぼやけている?」

 思わず声が漏れる。

「違うよ、シン」

 ハルが低く答える。

「見えてるのに、忘れさせられてる。」

「第2の戒導者だな。」


 人影は、こちらへ歩み出した。

 一歩踏み出す度に、市場の人々は人影にぶつかられている。だが、誰も気づかない。接触をしていても、まるで存在しなかったかのように。

 重複した声が響いた。


「シン。記憶、初期化。実行可能。」

 その一言とともに、通りの喧騒が遠のいていく。

 誰かが売り声を上げていたはずなのに、その言葉をもはや思い出せない。

 自分が何を考えていたのかさえ、霧の中へ沈んでいく。


「これは、…」

 言葉を発した途端、その続きを忘れそうになる。舌が、自分の役割を思い出せないように、重く感じる。


 ハルは苦笑いを作ったが、手がわずかに震えている。

「おいおい……これはやべぇな。シン、こいつの力、考えたことから消してくるわ。」

「攻撃方法を、…」

 言いかけた私の言葉は途中で霧散した。何をしようとしていたのか、一歩踏み出した理由は何だったのか。掴もうとした意図が指の間から砂のようにこぼれ落ちる。


「攻撃の意図が、消えている。」

 拳の緊張で、ようやくそれだけを絞り出した。


「つまり、攻撃するって意識を持ったときには忘れる。だから、当たらないってわけだ。」

 ハルの声に、かすかにいつもの調子が戻りかける。だが、眉の端はまだ引きつっていた。


 戒導者はさらに近づく。

 魚屋の老夫婦は、木箱を並べながら「あれ、何してたんだっけ?」と首をかしげる。


「市場全体に干渉している。」私の声は誰にも届かない。


 ハルが肩をすくめようとしたその途中で、動きが止まった。

「でもまぁ……俺たちはまだ大丈……ぶっ」息が詰まるような音。ハルは口を押さえ、目を見開く。


 口を開いたまま、何度も空気を吸おうとして、だが吸えない。

「はっ、は……?」

 喉がひゅっと鳴る。呼吸の仕方を忘れさせられていた。


「ハル、立てるか。」

 私は駆け寄る。ハルは苦悶の表情で笑おうとし、掠れた声で言う。

「これ……は……さすがに……笑え……ん……っ!」


「呼吸の意識まで…」

 私は理解する。戒導者の忘却は、防御であり攻撃であると。相手の生存手順すら、たやすく消すのだ。


 再び、声が響く。

「記憶削除実行中。」

 辺りは、さらに霧に沈む。私がここにいる理由さえ、飲み込まれそうになる。私は拳を握りしめるが、拳を振るう理由が、すでに霧の中に消えかけていた。


「ちょっと待て、これ本格的にマズいな」

 ハルが喉を押さえつつ、それでも軽口を放つ。

「息苦しい展開ってやつを物理でやられるとは……しゃれにならん。」


 私は一歩前へ出た。

 攻撃を脳裏にあった構えが、薄れる。だが、そこで気づいた。


「行動そのものは、消えていない。」


 戒導者は攻撃への意識を削ぐ。だが筋肉に残った反射、地面に刻まれた足跡、そうした痕跡までは消せていない。

 私は意図的に蹴りを入れ、石畳に靴跡を深く刻んだ。歩幅を乱し、軌跡が残るように大きく動く。戒導者の真横で、拳を振りかぶる。だが、その目的は届く前に霧散する。それでも、足跡と拳の軌道だけは市場に痕跡として残った。


「なるほどな。」

 かすかな息を吐き、私は言った。

「ハル、これに気づけ。」「…」

 次に言おうとした言葉は消えた。だが、ハルは私を見据えていた。


 ハルは呼吸を取り戻すために顔をしかめつつも、私の残した靴跡を見つめる。

 しばらくして、ぎこちなくも笑みが滲んだ。


「気づけって言われてもさ。大事な記念日でもシンの誕生日でも忘れてるわけじゃないし、何か忘れたのかって気分だよな。」

 彼は冗談めかして言うが、その声には真剣さが混じっている。


 戒導者の灰色の無機質な瞳が私へ向けられる。光のような腕が閃き、直線的な打撃が走った。反応はできているが、防御の意識ができずにいた。力に和えきれず、肩をかすめられる。その攻撃の軌跡は、石畳を豆腐のように裂いていく。


「そういうことか。シン、わざと痕跡を残したのか。」

「攻撃の意図を消されても、痕跡で未来を示す。なかなか洒落た芸当だな。」


 未来の行動。

 私は拳を振り抜く。瞬間、目的は消える。しかし拳が描いた道筋は確かに残っている。ハルはその道筋を追い、私の代わりに動いた。


「なるほど、なるほど。この足跡、この線を辿れば、ここに立てばいいってわけだ」

 ハルは、戒導者の一撃を紙一重でかわし、私の残した位置に立つ。そこは妙に無駄のない場所だった。防御が不要で、攻撃に集中できる最適地点。まるで私が未来から教えたかのように正確であった。


 ハルは息を整えながら、小さく呟いた。

「シン、あんた本当に化け物だな。」


 その言葉とともに、ハルの脳裏にはこれまでの戦いが一気に蘇った。

 ――第1戒導者。光の輪に縛られながらも、シンは回避と攻撃を同時に重ねて突破した。

 ――そして今。攻撃の意識すら奪われながら、なお痕跡で未来を指し示す。


「やっぱ、普通じゃないな。」

 ハルは目を細める。

「俺が見てるのは、ただの足跡じゃないらしい。未来に置かれた道標。攻撃の意思を消されても、敵の軌道を読んで、『ここだ』と伝える。人どころか、普通の神々でも処理落ちするだろ、こんなの。もう神業って言葉が安く聞こえるな。」


 私の拳は、すでに意味を失っていた。

 攻撃するという意識が消えた瞬間、それはただの腕と手の動きに変わる。


 だが、そのただの動きが、ハルの位置取りの対角線で重なっていた。

 戒導者が踏み込んだ瞬間、

「そこだ!」ハルが叫ぶ。


 戒導者はハルの攻撃を避けていたつもりなのだろうが、対角線に位置取られた私の拳に、頭部が吸い寄せられている。

 ただの拳が一瞬の緊張を帯び、クリーンヒットしている。


 鈍い衝撃と共に、戒導者を構成する輪郭が崩れる。

 光が砕け、忘却の力が市場から剥がれていく。


 その中で違和感を感じたのは私自身だけであった。

 とても深い胸の奥で、何か目的を一つ失うような、悟ってしまった自らを悔やむという感情を学ばされた。


 人々の表情が、一斉に戻った。

「おや、何してたっけね。」

「魚の値段、いくらだったかしら。」

「あら、もうこんな時間なの!早く帰らなくちゃ。」


 誰も戒導者の存在を覚えてはいない。


 ただ、ハルと私だけが、その場に残った異様な静寂を知っていた。


「消えたな」

 私は拳を握り直し、なぜ当たったかもわからないのに拳を見つめていた。

 拳には力の余波が残っていた。


 ハルがふうっと息を吐き、ポケットの中を探っている様子であったが、

 ニヤリと笑いこちらを向く。

 戦闘で話足りなかったから、これから『しゃべるぞ』の合図のようだ。


「いやあー、やっぱすげえよ、シン。」


「何がだ」


「最後の拳が、当たったのは偶然に見えたでしょ。でも違うのよ。攻撃意思を消されてなお、敵の動きを読んで、自分の痕跡だけ残して、しかも俺に託してきた。意思がないただの動きを、未来の俺に拾わせるって芸当、普通はできない。処理速度も胆力も、誰も追いつけないレベル。」


 私は黙っていた。拳を振るった事実さえ、今もかすかに霞んでいる。

 だが確かに、ハルが拾ってくれなければあの完璧な一撃は成立しなかった。


「私一人では無理だった。」

 ようやく言葉にすると、ハルは笑う。


「そりゃそうさ。俺がいなきゃ、君はとっくに削除済みだよ。」

「……」

「だから、感謝しろ。“お兄さん”。」


「“お兄さん”呼びを許容した覚えはないが。」

「あれ、さっき戦闘中に許可を得たけど。忘れちゃったんじゃない。」

「君は、忘却を利用して好き勝手言ってるな」

「だって今なら、シンが忘れたことにしておけばお菓子も買ってもらえそうじゃん。」

「性格が悪い」


「知ってる。でも、シンがまだ俺を覚えていてくれたのは、ちょっと嬉しいけどな。」

「忘れようとしても、忘れられん。戦闘中もうるさくてかなわない。」

「わざとですよ。」


 太陽の反射に紛れて、まだ光の残滓(ざんさい)が震えていた。

 第2戒導者の砕けたはずの光は霧のように散らばったが、一本の筋に収束していく。

 まるで、見えない糸で天へ引き上げられるかのように。


「吸われている?」

 私が呟くと、ハルは肩をすくめた。


「だろうな。どこ行くんだろうねえ。まさかね、おおよそ察しはつくけど。」

「どっかで上司が、ログ確認してんだろ。仕事熱心で何よりだ。」


 視界の端で、光が一度だけ脈動した。

 その鼓動と同時に、私の脳裏へ他の夢が流れ込む。


 暗い。光はあるのに、暗い。

 白と金の広間。静寂は保たれている。祈り、命令、懺悔、情報、そのすべて光文字にされ、柱状の光として天井へ刺さっている。


 玉座の近く。そこに、若い神が座っている。頬はこけ、視線は焦点を結ばない。

 ユグは自らの名前を忘れている。自分が“現神”だという事実も忘れている。

 玉座を中心に刻まれた細い光文字だけが、規律のようにユグを動かしていた。


 《命令:あなたは、ここで世界を保つこと。》

 《命令:あなたは、欠損を補うこと。》

 《命令:あなたは、感傷を起動しないこと。》


 情報が無数に差し込まれる。耳からではない。

 命令の形改ざんされた一文が、夢の中心に釘のように打ち込まれる。

 《追記:シンは来ない。あなたを置いて、地上へ降りた》


 ユグは、それを事実として飲み込む。胸の奥で何かが砕けた音がするのに、涙は許されない。

 涙腺は封じられ、代わりに光がこぼれた。白い雫は空気に触れると文字へ変わり、床に吸収された。

 《実行:役割継続》

 《実行:一部記憶の削除》


 誰かが、名を呼んだ気がした。

 だがすぐに、削除された。ユグは静かに呼吸をする。


 ふっと、視界がぼやける。玉座の背後、格子状の光が淡く脈打っていた。

「状況、維持。欠損、補填。教育、継続。」

 機械とも神託ともつかない低い声が、夢の縁をなぞっていく。

 ユグは小さく首を振る。振った理由を、次の瞬間には忘れていた。


 また視界がぼやけると、目の前にはすでに天界の光はなく、ただただ神々が苦しむ暗闇の中でユグ自身の光は失われて横たわっていた。

 形と自我を感じることもできない様子がうかがえた。

 ――そこで夢は途切れた。


「シン、大丈夫か?おーい。」

 ハルの声で我に返る。喉が痛いほど乾いていた。

「むやみに第2戒導者の残滓(ざんさい)に触れちゃだめだよ。記憶が消えるかもしれないよ。」


「ユグの記憶を見た。」

「どうだった。元気そうだった?」

「ユグは、記憶をいじられている。何者かの闇の中で、もはや見る影もない。」


 ハルは長く息を吐いた。

「……はぁー。間に合わなかったか。“現神”だからと思ったけど、嫌な予感はしてた。」


 一本に束ねられた光の残滓(ざんさい)は、もう手の届かぬ高さへと昇っていた。

 私たちの背中には、市場の喧騒、魚と氷の反射、売り声。そのすべてが、確かに流れ込む。

 私たちは振り返らない。やるべき順序を理解し、ただ前を向くしかなかった。痕跡は、天へのびている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ