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第8章:人間観察にて

 短い月日が流れた最初の朝。

 街の活気は夜を引きはがし、新しい色をそえる。

 市場の通りはすでに人で埋まり、野菜や魚の匂い、呼び声が入り混じる。


「ふあぁー…、やっぱり朝の市場はいいな」

 ハルが背伸びをしながら大きく息を吸い込む。

「夜は人の裏が出るけど、朝は表。商店街と同じで生活そのものって感じだよね。」


「情報の密度が、今日も高くて良い。」

 私は歩きながら観察を口にした。

「価格交渉、在庫の移動、声の調子、全部がここで生きている証だ。」


「シン、それ毎回言うつもり?観察が癖になってんじゃない?」

「癖ではない。観察は学習の基礎だ。」

「出た、学習。元神様だからって真面目すぎるんだよな。」


 通りの角にふと目を落とすと、犬と猫が残飯を奪い合っていた。

 吠え声と唸り声。尻尾が立ち、背中の毛が逆立つ。

 人々は「またやってる」と笑いながら避けていく。


「畜生、って感じだな」

 ハルがぼそりと呟いた。


「衝動に従っているだけだな。」

「まあ、そういうこと。けど、正直なもんだよ。腹減ったら噛みつく。それを抑えられないのが生き物ってやつ。」

「それもまた、生の一部だ。」

「そういう真面目コメントが、朝の空気に似合わねぇ。」


 少し先では、母親にむりやり連れてこられたであろう少年が、スマホを凝視したまま人とぶつかり、舌打ちを受けている。

 だが本人は気づかない。画面から目を離さず、必死に指を動かし続ける。


「あちらさんも、ずっと飢えてるな。」

 ハルが小声で皮肉りはじめる。

「食欲じゃなく、情報に。」

「渇望というもの形を変えても、同じ本質を持つ。」

「うわ、でた。情報もカロリーってやつ?」

「そういうものだ。摂取過多にも飢餓にもなる。」

「まじで、今日も相変わらず先生くさいな。」


 市場の真ん中では、威勢のいい声が飛び交っていた。

「今日はイワシが安いよ!脂がのってるよ!」

「アジも見てって!さっぱりしてておいしいよ!」

 氷を敷き詰めた木箱の上で、魚たちがきらきらと光を跳ね返していた。


 その喧騒の中に、腰の曲がった老夫婦がいた。

 二人で大きな木箱を持ち上げようとしているが、重さに負けて少しよろけている。


「おい、重いって。持ち上がらん。」

「でも並べなきゃ売れないわよ。」

 声は必死だが、腕は震えていた。


「シン。」

 ハルが顎をしゃくった。

「出番なんじゃないの。」


 私は頷き、近づく。

「手伝おう。」

 短い言葉と共に、木箱の端を担ぎ上げた。

 ずしりと重い感覚はある。だが、問題にはならない。

 氷の冷気が腕に流れ込み、鱗の輝きが目に映る。


 木箱を軽々と台の上へ乗せると、夫婦の表情が一気に和らいだ。


「ありがとうねえぇ」

 そして、ふと私の顔を見上げて、こう言った。


「助かったよ。お兄さん。」


 ――お兄さん。

 胸の奥に、ざわめきが走る。

 私は地上に降りたころ避けられる存在だった。輪郭を見過ごされ、視線を外される。

 だが今、確かに呼ばれた。


「思えば、ティシュ配りに始まり、少しずつ人間に認識されている?」

 声は心の中だけで響いた。


 横でハルが、にやりと口元を吊り上げた。

「おお、シン。“お兄さん”だってさ。人間社会で様になってきた感じかな。」

「からかうな。」

「からかってないって。記念日だよ。“お兄さん記念日”。市場の祝日だ。」

「祝う価値はない。」

「あるある。俺、今後は敬意をこめて“兄さん”って呼ぼうかな。」

「やめろ。」

「“兄さん、今日の魚どうっすか”とか。似合うなー」

「君の語彙力が下がっていると思うのだが。」

「いやいや、言葉のセンスは一段と上がってるよ。地上学習のおかげで。」


 夫婦はそんなやり取りを不思議そうに見ていたが、すぐに笑みをこぼした。


 木箱を並べ終えると、再び市場の喧騒が押し寄せてきた。

 だが、心の奥の波紋と比べると喧騒が小さく感じられた。


「で、感想は?」

 人波を抜けながら、ハルがひょいと私の顔を覗き込む。


「妙という表現が正しいのか。」

「妙?」

「これまでの私は、誰からも見過ごされていた。そうさせていた。だが今は、呼ばれた。」

「それってつまり?」

「存在が、人に届いている。」

「おー、進歩じゃん。ついに人様に認められたのかな。見られる神なんて、珍しくない?」


 私は答えられなかった。

 進歩なのか、誤差なのか、自分でも判断できない。


 ハルはそんな私を見て、わざとらしくため息をついた。

「まあ、心配すんな。人は見てるようで見てない。呼んでるようで呼んでない。でも、その一瞬があるだけで、生き物ってやつは報われる。だから、その一瞬を大事にするのよ。」

「一瞬か。」

 私はその言葉を小さく反芻した。

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