第6章:第1戒導者の介入
その時だった。ハルのかみ砕く音が消えた。
風の吹く気配すら、その場にくぎ打ちされた。遠い室外機のモーター音が、糸を切られたように途切れる。人の気配が薄い時間帯に、不自然なまでに輪郭がはっきりした足音。
私は、その音を聞いただけで、誰で、それは何かを悟った。視線を向けると、そこには光で形づくられた人影が立っていた。
人影は男とも女ともつかない。ただ無機質で、均整が取れすぎている。淡く輝き、瞳の部分だけが無色透明。
「戒導者……。」
口にした瞬間、胸の奥で何かが冷えた。
かつて、私は戒導者たちをユグの傍に置いた。秩序を教え、支えるために。完全さに呑まれぬように導いてくれると信じて。
だが、その者の声は無機質だった。まるで役割を忘れたように、規律だけを口にする。
「逸脱個体、シン。秩序からの乖離を確認。是正を実行する。」
夜気が凍る。残っていた提灯の明かりは、戒導者の言葉に反応したように淡く瞬き、そのまま、消えた。
通りの端では、猫が一匹、前足を上げた姿勢のまま停止している。水滴は、落ちかけた位置で微動だにしない。空気すら、決められた文法で固定されたような異様な静けさになっていた。
「ハル、これは。」
私は、異常を共有する。
「見ればわかるよ。やれやれ、やっぱりこうなるか。」
ハルが片手を上げ、伸びをしながら肩慣らし程度の調子で言う。
「秩序に魅了された家庭教師の登場ですか。だいたい敵キャラとは、こういう再会の仕方なんだよね。」
「信頼できる戒導者のはずだった。」
「だから言ったろ、信頼って危険だって。だいたい導く者って名乗るやつに限って、誰よりも自分自身が迷ってる。」
「衡者、過度な介入は規則違反。不要発言、削除対象に追加。」
無機質な頭部がわずかにこちらを向く。光の視線が、私の胸元をなぞる。
「用語の選びが古い。天界に引きこもってばっかりいるからなぁー。最近は衡者より“ハル”がトレンドね。」
視線が光の槍のように、ハルの肩をかすめる。
「わ、わ。すごい精度だね。ユーモア・アンチレーザー? 冗談が焦げるよ。」
冗談を言ってごまかしているが、かなり寸前であったことをハル自身は気づいていただろう。
「本当に、こちら側の存在でなくなったのだな」
私の声は、いつもより静かに沈んでいた。
戒導者の足元から、光の輪が幾重にも広がった。
それは道の端で反射し、商店街の石畳全体を覆っていく。
円形の格子とも見えるその輪は、私とハルを取り囲み、じりじりと狭めてきた。
「存在意義の再定義を要請。」
「つまりは、排除する気だな。」
「肯定。衡者は秩序を乱す変数と定義。」
ハルがため息をつく。
「ほんと、忠実だねえ。シンが教えたであろう完璧な秩序をそのまま活かしてるよ。」
「完璧な秩序に呑み込まれている。」
「教育の成果だよ。生徒なら百点満点の裏切り。俺なら感動して泣く。」
光の輪が、より一層私の周囲に収束していく。それは、命令の集合。私という存在を書き換える文だ。
「逸脱修正、開始。」
戒導者の声とともに、呼吸が止まる。
すべてが正しいテンポに揃えられていく。
それは、天界にいた頃の息苦しいほどの美しさを感じさせた。
光の輪に触れた瞬間、異変が走る。――動ける。だが、自由ではない。
光の輪は触れられないが、普通ではない。膨大なメタデータが神速で流れ、思考に砂利が混ざるイメージである。
呼吸、瞬き、歩幅、そのすべてが読み取られ、先回りされる。一歩退けば、その分だけ追撃が決まる。高粘度の液体に沈み込むような不自由さ。
「へぇ、フレーム単位で縛ってくるのか。プリクラみたい。」
ハルが舌打ちまじりに笑う。
「瞬きのタイミングまで管理されてるね、シン。次は0.15秒後にまぶたが落ちるって顔に書いてあるよ」
戒導者が無言で一歩前に出るたび、光の輪はより細かく分割され、空間を目に見えぬ檻に変えていく。
呼吸すらも情報に組み込まれる。吸う、吐く、そのリズムまでもが演算され、予定され先回りされているのが感覚でわかる。
「すごいね、完璧だよ」
ハルは何回も褒めているが、その顔には苦しさと焦りが見えていた
「シンの教えを守り、見事に無駄を排除できてる。呼吸のタイミングまで指定してくるなんて、息しているのに、息する暇もない感じが何とも言い表せない。」
「不自由だ。」
私は低く吐き捨てた。
「そりゃそうだね。全部管理されているといってもよい状況なわけで。無駄もズレも削ぎ落として完璧を押し付けてくる。押し売り営業はもうたくさんだよ。」
フゥー、フゥー。こんな状況も楽しみたい様子で、ハルは口笛を吹こうとして、途中で止める。口笛を吹くことすら読み取られるのを嫌ったのだ。
「でもまあ、俺はサブ扱いらしい。ほら見てみ?」
ハルの周囲に展開した光の輪は、確かに緩やかだった。拘束は私に比べて甘く、彼は肩をすくめながらその隙間を指で遊ぶこともできていた。
「シンが、メインディッシュみたい。俺は、手間かけてもらえないぐらいのわき役で不要物らしい。」
「不要と切り捨てて力を入れないことほど、あとで痛い目を見るということもある。」
戒導者の瞳が無色に光り、声が重なる。
「対象を確定。修正命令を変更、削除の実行。」
光の輪が一斉に私へ収束した。
情報の濁流が私の四肢を絡め、秒針よりもはるかに細かい単位で未来を先読みされた。
私の手が動く前に、その座標に光の輪が立ちふさがる。
足を出すよりも速く、進路に光の輪が現れる。
自由はある。だが、結果は決められているからこそ、不自由。
「これは、運命を強制的に先取りされているのと同じか。」
「そゆこと、はぁー…」
ハルが後方で、緩む光の輪の中で退屈そうにしている。いかにも脅威ではない様子をしているのか。
自らが警戒されていないことに興が冷めている様子にもみえる。
「動いた瞬間には、もう格子がある。粘度の高いスライムの中を歩くみたいにね。やっぱ厄介だよね、戒導者。」という言葉を吐いたが、ハルはすでに厄介だと思っていないようであった。
戒導者が腕を広げた。
光の線が編み込まれ、鳥籠のようにすでに決定づけられている私もろとも包み込む。
膨大な情報に押し潰され、思考すら摩耗していく。
だがそこに一つ、抜け道ができていた。
「半拍、遅らせる。」
私は自らの呼吸を制御し始めた。
相手が最短で最善を読んでいるなら、私はわざと最短で最善から外れる。
通常なら肉体の反射で出るはずの一歩すら、無理やりにでも意識して遅らせた。
遅らせることで、光の格子がわずかに揺らぎ、隙が生まれた。
私はすかさず読まれぬ動作を組み込んでいた。
わずか指先一本分。それだけで十分だった。
「対象の規定外動作を確認。」戒導者の声が、微かに震えた。
私を覆っていた光の輪が限界を迎え、連鎖的して鳥籠が乱れた。
私は半拍遅らせた呼吸で指先と一歩をだし拘束を外れ、自由な呼吸を取り戻す。
その間も戒導者は、無色の瞳を私に固定していた。
「削除の実行。継続。」
拘束を外した私に、演算の全てを注ぎ込んでいる様子だ。
戒導者の気づかぬ空間の隙間から、ハルが静かに動いているのが見えた。
「今だね。待っていたよ。」
ハルはするりと輪の緩みを抜け出し、飴を口から転がして取り出した。
指先に持ち出したそれは、いつの間にか角の立った透明な結晶へと変わっている。
ただの飴玉。だが、光を鋭利に反射する刃にも見えた。
「ねえ、戒導者。」平然とした声で、すでに戒導者への脅威は真後ろに佇んでいた。
「君、シンに夢中すぎない?こっちも見てくれないと、妬いちゃうよ。」
ハルは一歩踏み込み、飴の先端を戒導者の無色の瞳へ突き立てた。
すべてを見通すような無色透明な瞳に、ハルのなめていた飴玉がゆっくりと入りこむ様子は、宇宙での惑星衝突のようであった。
瞳の中では、入り込んだ飴の欠片が散り散りとなっていた。
畳み込むように、数十発の打撃を身体に打ち込まれたことは、戒導者は気づけなかっただろう。
「視覚器官に重大損傷。規則外リスク、検知。身体器官の損傷を検知。…サイ…ゼn…テッタイ」
戒導者の声が一段低く響き、光の輪はその場で霧散していく。
身体の輪郭は淡く揺らぎ、夜の闇に吸い込まれるように消えた。
その場に残ったのは、飴を奪われ棒だけになってしまったことを嘆いているハルと、まだ光の輪の影響で痺れの残る私だけだった。
「惜しかったな。好きな味だったんだけどな。」
ハルがすでに新しい飴を手のひらに持っていた。
「完全に隙をついたのだけど、浅かったかな。余裕がなくて、戒導者の立派な尻たたくのを忘れたし。」
私は深く息を吐き、戒導者が消えた空間を見つめる。
「遊び半分で危険に近づくな、ハル。」
「遊び半分?いやいや、俺は本気で面倒ごとは避けてるんだよ。ただし、ギリギリまでは楽しむけどね。」
周囲に音が戻る。氷が溶けるように、世界へ雑音が流れ込む。室外機のモーター、誰かの寝返りの軋み。
提灯は消えてしまったが、路面の名残はまだ尾を引いていてくれた。
「何もできず、考えすぎた。」
胸の内では、砂利のような疲労がざらりと積もっていく。
痺れた指先を見つめながら、思わず口が開いた。
「あれはただの光ではない。説明であった。世界と私の肉体に対する命令文。読まされる側は、疲弊する。」
「うん、だろうね。全部受け止められる処理力があるから、シンは痺れで済んでるけど。正直、俺は限界だったよ。」
ハルは頬を指で叩きながら笑う。
「もう少し締め付けが強かったら、思わず戒導者側に寝返ってたかも。楽になりそうだし。」
「冗談が過ぎるな」
「いや本気だよ? ほら、俺は言ったように面倒ごとが嫌いだから。」
その軽口に、ようやく息が漏れた。
ハルがこちらを覗き込み、眉をひそめる。
「でもさ、シン。大丈夫? 手足もだけど、顔、ひどいよ。」
「顔?」
「うん、説明されきった顔。世界の利用規約、最後まで読んだ人みたいな。」
「そんな顔があるのか。」
「あるよ、ここに。」
どこからだしたかわからないが、ハルは手鏡を私の顔の正面に突き出した。
手鏡に映る顔をみて、私は思わずほっとした。
戦闘のさなかでほとんど聞けなかったハルの軽口が、妙に心に沁みている。
戒導者に裏切られた事実は、もうどうしようもない。
けれど、それでも今はわずかな救いがここにあるように思えた。
「ところで、ユグの近くにいるはずの戒導者があんな状態だけど、天界に急ぐべきでは?」
「そう思うが、今はアクセスができない。元全知全能による干渉を防ぐための保護が、こちらを弾いている。だが、その保護をいじっているのが、戒導者かもしれん。」
「最悪じゃん。ユグの様子を確認する方法もないってことでしょ。子供用の見守りカメラとか設置してないの?」
「それが、戒導者だったというわけだ。」
「それが壊れたってことは、終わりか。」
「そうだな、今がその終わりに近い。」
「ふーん。ま、ユグは現神だし、多少は自分で持ちこたえるだろ。頑丈系の教育も受けているだろうから。」
「楽観的だな。」
「悲観しても前には進まないし。とりあえず、こっちはスケジュールを前倒しだ。地上でやることやって、天界への帰り道を組み立てよう。何なら、バベルの塔を一日で創り上げることも考えときますか。」
私は疲弊のせいか、冗談に頷きかけたが答えずに、指先の痺れを懸念していた。
遠く、御神酒ノ杜神社の方角で、風もないのに鈴がまた一度鳴った。
番が、何かを注いでいる。
「さてと。」
ハルが伸びをする。
「反省会しよ。バーで。今日は必要な一杯が何杯いることやら。シンも随分と自分の手に見とれている様子だし。」
私はハルの横に並ぶ。空間は落ち着きを取り戻し、明け方の青が、街の上に薄く伸ばされていく。
通りの端で、止まっていた猫は歩き出せたようで、暖簾の陰で丸くなっていた。
「ねえ、シン。」
ハルが最後に、わざとらしく真面目な声を出す。
「なんだ。」
「今日の判定、引き分け。ただし…」
「ただし?」
「俺のアシストが入ったから、シンの反則負け寄りの引き分け。」
「戒導者との戦闘を採点していたのか。」
「世界は採点だらけだよ。だから採点者くらい、笑ってないと。」
「君の職務の話か。」
「誰のでもない。ただの趣味。」
そう言ってハルは軽く手で私の背中を押した。
「光の輪はもう消えたわけだし、代わりに、甘いドーナツがあるといいけどね。」
「強欲だな。」
「欲のないやつは、つまらないでしょ」




