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第5章:寄り道の作法

「そういえばさ、シン。最近ちょっといいバーを見つけたんだ。」

 ハルが夜風を切りながら、わざとらしく声を潜める。

「二十四時間営業。しかも、行くたびに同じバーテンダーが無言でその人に必要な一杯を提供してくる。メニューはなく、注文は要らない。知る人ぞ知る場所ってやつ。」


「二十四時間営業で一人とは。労働基準という概念は、適用されているのか。」

「そこはほら、“人”に限らないから。ね?」

 ハルが片目をつむる。


 雑居ビルの階段を降りると、地下の空気はひんやりと頬を撫でた。

 扉には小さな真鍮のプレート ――〈Miki〉。

 手をかけると、鈴のようなやわらかな音が、どこからともなく鳴った。


 カウンターの奥には、確かにバーテンダーがいた。

 痩せた輪郭、落ち着いた黒のベスト。

 バーテンダーは言葉ひとつ発さず、まずハルの前に琥珀色(こはくいろ)を滑らせる。オールドファッションに似た何か。

 次いで、私の前には色のない透明なグラス。冷たさだけがそのグラスを形作っていた。

 水面には、ごく細い氷の欠片が星のように浮いていた。


「必要なもの、って感じでしょ?」

 ハルがグラスを掲げる。

「乾杯は?」

「儀礼は嫌いではない。学ぶための手続きとしては合理的だ」

「ほらそういうところ!せーの!」


 グラスが小さく触れ合い、カウンターを照らしている光が波紋のように揺れる。


「で、だ。シン。」

 ハルは氷をカラリと鳴らし、わざと軽い声で続ける。

「寄り道しよ。夜の下町を散歩がてら、便利屋の延長戦。夜は観察対象が昼とは全く違って面白いと思うよ。」

「夜は、人が世界から距離を取る時間だ。静けさに乗って、心の内側が表面化する。」

「でも、ひとつ注意。あまり目立つことはやめておこう。地上での学びをユグにサプライズで届けるためにね。」


 ユグか。名前が落ちるだけで、その場の空気が少しだけ硬く感じられた。

 私はグラスの縁を指でなで、無色の液体を一口飲む。


「ハル、君が知りたがっていた、現在の神ユグについて、少し語ってあげよう。口数の多い君への仕返しと、このバーを見つけて、おごってくれるお礼だ。」

「『待ってました』と言いたいとこだけど、まだおごる話はしてない気が。」


 私の冗談を拾ってくれたハルに敬意を払い、少し緩まっている口はいつもより開きやすくなっていた。


「ユグは私の後任として、あの役割に就けた。私が長いあいだ背負ってきたものを、ようやく託せたと思っている。」


「全知全能の役割ね。あの玉座、やたらでかいくせに全然座りやすそうじゃなかったけど。」


「玉座というより、重しだ。全方向から引っ張られ、締めつけられる中で、極地の安定を保たねばならない。息をすることすら、制御の一部になる」


「うわ、天界なのに職場環境ブラックじゃん。」


「長いあいだ、私はそこにひとりでいた。…長い、と言ってもおそらく誰の尺度にも測れないほどに。」


「うん、そこだけは素直に尊敬してる。あと、ちょっと怖い。」


 バーテンダーが氷を割る。微かな裂け目の音が、話の継ぎ目にぴたりとはまる。

 彼はやはり沈黙のまま、必要を見極める手だけが正確に動く。注文はない。ハルに必要だけが運ばれてくる。


「だからこそ、ユグには支えをつけた。戒導者たちだ。」


「知ってるよ。あのちょっと薄気味悪い感じのやつらね。」


「彼らは教育係であり、目付け役でもある。ユグの負荷を分担し、視点を調整するのが主な目的だ。そして、私が地上で学び終えるまでの間だけ、私に似た力を与えている。」


 ハルが少しだけ声を落とす。

戒導者(かいどうしゃ)たち、信用できる?」

「任せられると判断した。彼ら自身が望んだ役目でもある。」


「へぇー、信頼してるんだな。」


「当然だ。彼ら自身が望んでその役を引き受けた。私は知っている。あの重さをひとりで抱えることの孤独を。だから、分け合える形にしたかった。」


「へぇ。シン、そういうところ人間くさいね。」


「かもしれない。地上での学びで気づいた。かつての私は秩序と完全ばかりを追いすぎていた。だが、それだけでは息が詰まる。寄り道や誤差にも意味があると、つくづく考えている。」


「寄り道しない直線は、最短で終わりへ行く感じだよね?」


「あぁ、そうだな。効率は美しい。だが、あれだけでは呼吸ができない。人を見て学んだ。笑いも偶然も、計画の外側が生を支えている。」


 ハルはグラスを傾けながら、目を細めた。

「うん。そういうの、神が言うと妙に沁みるね。」


 ハルは氷を再び鳴らし、片眉を上げる。

「で、シンは地上に教材収集に来たってわけよね?」


「教材という言い方は味気ないな。私は型ではなく、地上の手触りを持ち帰るつもりだ。ユグが自ら結びつけやすい形で。」


「へぇ。つまり、ユグの人生ガイドブックを書いてる途中ってこと?」

「人生、という語を神に適用できるかは疑問だが。私は、生きやすい孤独を教えておきたい。」


「孤独の指南役。神様もキャリアチェンジ大変だね。」


 バーテンダーが、沈黙のまま小皿をそっと置く。

 細いライムピールが、稲妻のように一切れ。

 必要な香りだけが、静かに満ちる。


 ハルはその香りを指で摘み、軽く口を開く。

「でもさ、シンはずっと抱えてたんでしょ。数えきれない時を。」

「数えるのをやめて久しい。時間の概念ができる前でもあり、測るのが虚しくなるほどにな。」

「うわ……俺、地上で2時間残業している人を見てるだけで世界の終わりみたいな顔してるから、かわいそうに思うのに。」

「人はそうやって、終わりを日常で練習しているのかもしれない。」

「名言っぽく言っても、ブラックなのは事実だよ。」


 私はグラスを傾けながら、話を続けた。

「数えきれない時、ずっと静寂の中に私はいた。音が一つもない世界で、秩序だけを見つめ続けた。」


「あの頃は、一番静かだったと思う。音という概念がまだ存在しなかった頃だ。流れも、心臓も、ましてや名を持つものもいなかった。ただ、静寂が自分自身を主張していた。」


「それ、音のスタート地点みたいな話だね」

「かもしれない。私はそこで、“初めての声”を発してみた。」

「シンの最初の仕事が『静寂に声を足す』って、妙に神的だな。」

「結果として、世界がうるさくなった。」

「責任感じてる?」

「君の隣にいると、少しだけ責任を重く感じているよ。」


 バーテンダーが思わず口角を動かした気がした。


「ともあれ、私はあの時間を経て、少しだけ人を羨ましく思った。」

「羨ましい?人が?」

「彼らは限りがある。それゆえに選ぶという行為が生まれる。全知全能のままでは、選ぶことすら意味を持たない。」


「なるほどね。だから地上で、迷う練習をしてるわけだ。」

「迷うことが、寄り道の第一歩と感じられた。」


 ハルは琥珀を喉へ通す。

「つまり、迷いの実践も一つのテーマだね。」

「過度に目立たない範囲でだな。」

「了解、先生。俺、迷うことなら赤点取らない気がする。よく、プリンにするか、コーヒーゼリーにするか迷うし。」


「期待しておこう。」


 グラスが少し揺れ、波紋がカウンターの光をゆっくり飲み込んでいった。

 バーテンダーは相変わらず何も言わず、ただ必要な次の一杯を準備していた。


「ところで。」

 ハルがウィンクする。

「この店、バーテンダーはどっち側だと思う?」

「判断材料が足りないな。」

「そうか、ならそれでいいや。世界は、わからないままのほうが面白い。」


 私のグラスは、まだ半分ほど冷たさを残していた。

 透明の底に、夜の色が落ちてくる。


 バーを出ると、夜は受け入れやすく柔らかな印象であった。

 シャッターが下りた店に、提灯と街灯だけが残る。

 アスファルトは昼の熱をすでに失い、風は重く、音が速い。


「人は夜を恐れつつ、集る。光のある場所へ寄り合って、賑やかにする」

「暗闇を分け合うんだよ。ひとりで抱え込むには広すぎるから。」

「理解しているようで、体験ではない言葉だな。」

「そりゃそうだろ。俺は人を見てきただけ。」

 ハルがポケットに手を突っ込み、鼻歌まじりに歩く。

「ほら、あそこのベンチ。昼間は誰も座らないのに、夜はカップルで満席。正しく矛盾してる。」


「矛盾に、人間のらしさがある。」

 目の前で女性がベンチから足早に遠のき、男性がその後ろを追う。

「明日には忘れてそう。」

「忘れることもまた、救いだろう。」

「うん、でも恋人たちはその忘れるとかいうセリフを聞いたら確実にケンカするね。」


 路地の角で、猫がこちらを振り返った。

 鈴のない首で、ゆっくりまばたき。

 人のいない時間を、人より上手に楽しんでいる。


「夜限定の困りごとって多いから。便利屋の仕事にも深みがあるはず。」

「そうだな。」


 最初の依頼は、薄明るい路地の突き当たりにあった。

 木戸の家。ガラス格子越しの明かり。

 呼び鈴を押すと、年配の男が顔を出す。


「すまんねえ、これ、使えなくなっちゃって。深夜にラジオと寝酒するのが生きがいだから、困ってるんだよ。」

 差し出されたのは、角のすり減ったトランジスタラジオ。

 ダイヤルは艶を失い、スピーカー部分には埃がたまっている。

 私は裏板を外して覗き込む。中には埃はなく、状態が良い。


「接触の不良。一部分の傷が主因だ。」

「つまり?」

「多少なりと部品の入れ替えは必要であるが、掃除すれば直る。」


 私は店先の工具を借り、端子を磨いた。

 配線を整え、軽く電流をあてる。

 途切れていた音が、少しずつ戻ってくる。


 ザザ……ザァ……。最初は雑音が大きかったが、調整を図った。


「おー、戻った戻った!」

 男は子どものように手を叩いた。


 その瞬間、ハルが悪戯っぽくニヤリ。

 彼はさりげなく指をひとひねりし、ツマミが勝手に回るように、微かな風を通す。

 ラジオが、雑音の先で、なにかを拾った。


『……聞こえるか。今、これを聴いているあなた。深呼吸を。焦げる匂いがしていないかい?』


 店先の奥から、台所の老婆の声が上がった。

「あ!スルメ!」

 ぱたぱたと走る足音、慌てる様子がうかがえた。

 男は目を丸くして、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。


「神さまの声だなあ、こりゃ!」

「ラジオは時々、奇妙なことも拾う。」

 ハルが真面目を装う。

 私は端子の最後の一点を磨き、蓋を閉じた。


「料金は?」

「いらないさ。」

 男は手ぬぐいで額を拭き、何度も頭を下げた。

 笑いの余韻と、ラジオから漏れる微かなノイズが背中を押す。


 路地を抜けると、まだ赤提灯がちらほらと並んでいた。

 深夜を過ぎ、明け方に差しかかる時間にもなる。

 もうほとんどの店は閉まり、開いているのは数軒だけ。

 そのうちの一軒だけが、まるで時間から取り残されたように、ほのかな明かりを灯していた。


 暖簾(のれん)の向こうからは、笑い声と盃の音。

 肩を組んで歌う者、声を張り上げる者。

 炭火の煙と甘辛いタレの匂いが、夜気にまだらに漂っている。

 そこだけが切り取られた幸福の塊のようで、周囲の静けさと奇妙に隔たっていた。


「幸福そうだな。」

 私が観察のように口にすると、ハルは口角を上げた。


「幸福ねぇ。ああいうのを見ると、思い出すんだよ“上のお偉いさん方”を。」

「神々のことか」

「そう。あいつらも似たような顔で永遠の遊びに酔ってる。自分たちは堕ちないと思ってるけど、アルコールと違って酔いが抜けないだけさ。」

「永遠の酔い、か」

「うん。酔っぱらいと神の違いってね、明日が来ないかどうかだけだよ」

「つまり、神は酔いから醒めれないと。」

「そう。で、衡者(こうじゃ)の俺が、そのバランスを見張ってる。まあ、見張りながら笑ってるけどね。酔って倒れたら、地に付く音までちゃんと聞こえるように。」

「あまり好ましい趣味とは言えないな。」

「でも公平だよ?転んだ神も人も、落ちる音は同じというのがまた何とも言えない。」


 ハルは、提灯の明かりを顎で指した。

「見てみなよ。あの赤い光の下で、人は地上を楽しんでる。神々もああやって永遠を消費してる。どっちが正しいかなんて、天秤になれている俺でもわからないさ。」


「君は衡者(こうじゃ)だろう」

「そう。だからこそ笑うんだよ、どっちの傾きも見えてるから。」


 私は盃を掲げて笑う男たちを見る。

「それでも、彼らは今を肯定している。」

「そうそう。人の方が、はるかに誠実だ。酔いも後悔も、ちゃんと終わらせることができるからね。」


「君も、彼らを愛おしいと感じるのか。」

「愛おしいとは違う気がするけど。終わりを持つ存在にしか、均衡は生まれないと思うから。だから俺は見てるだけ。」


 ハルは軽く息をつき、わざとらしく伸びをした。

「ま、神々がどれだけ酔ってようが、俺の管轄(かんかつ)じゃないし。ただ、酔って転んだ跡地の後始末、いつもシンがやってるよね。」

「そうだな。」

「ほんと、働き者の元全知全能様だよね。」

「皮肉だな。」

「心からの感謝だよ、たぶん。」


 暖簾(のれん)から漏れ出た笑い声が、またひとつ、夜空に溶けていった。


 次は神社に足を運んでいた。

 境内の掃除という名目で便利屋依頼が組まれ、呼ばれたらしい。以前ここで求人を出していたが人が集まらなかった、というのが理由だ。

 鳥居の朱は夜に溶け、石段の一部がぬれて光っている。

 灯籠(とうろう)がひとつだけ、草の匂いを撫でるように淡く灯っていた。


 拝殿(はいでん)の前で、小さな背中がひとつ震えている。

 迷子の男の子であった。袖で目をこすり、鼻をすすっていた。

 何のために、ここまで来たのだろう。

 明け方にもなる時間帯だ。どれほどの間、ひとりでここにうずくまっていたのか。


「名前は?」

 私は膝を折り、目線を合わせる。


「タ…タロウ」

「うわー、タタロウに(たた)られる。」ハルが後ろで騒いでいる。


「タロウ。君は迷子だね」

 タロウは思うところはある様子であるが、うなずいた。


「君は誰と一緒にきたんだい?」


「お母さん…」


「君のお母さんは、どんな声をしている?」


「えっと……やさしい。」


「じゃあ、やさしい声を探すだけでよいな」


 その横で、ハルがおみくじの筒をころころ転がした。


「大吉、大吉、あ、出た。『会うべき人、すぐそば』。ほら、神さまもそう言ってる」


「操作したな。」


「演出だよ。夜は演出がよく似合う。本当だよ。」


 私は境内の縁から意識をのばす。石段を少し下ったところにある交番の方角

 そこに人の気配を探った。

 すぐに、切羽詰まった声が耳に届く。


「まだ見つかりませんか?」

「いや、探してはいるのですが、まだ…」


 私はタロウを連れて声のする方へ歩いた。

「こちらに」呼びかけると、若い女性が振り返る。

 目が合った瞬間、タロウは駆け出し、女性に抱きついた。


 泣き声まじり音がほどけ、安堵の温かさと少しの笑いに変わる。


「よかった。」

 私が小さく言うと、ハルに肩をたたかれた。

「ほらね、すぐそば。」


 女性は何度も深く頭を下げ、タロウの手を強く握った。


 私たちが境内に戻ると、石段の上で鈴がひとつだけ、風もないのに鳴った。


 拝殿(はいでん)の柱にもたれて、ひと息つく。

 ハルがポケットから飴を取り出し、勝手に私の手に乗せる。

「甘いものは不要だ。」

「必要。俺には。」

「学習しないのか。」

「学習した結果、必要だと結論した。」


 境内の隅に、小さな社がある。

 木の札には、〈御神酒ノみきのもり神社〉と墨が走っていた。

 私はしばらくそれを眺めた。


「ここには、神はいないようだ。」

「へぇ、なんでまた。」

「祀られてはいるが、座していない気配だ。ただ、社の番はいる」

「番?」

「目に見えないところで、必要を見極めて供する役目だ。注文は受けず、必要だけを置いていく。」


 ハルがふっと笑った。

「いいね、それ。どこかで会ったことがある気がする」


 鈴が、またひとふり鳴った。

 風は、やはり吹いていなかった。


 御神酒ノ杜(みきのもり)の鳥居を背に、私たちは石畳の細い通りへと戻った。

 明け方の手前、街は寝息をひそめている。提灯はほとんど落ち、開いたままの数軒が、名残の光を水たまりのように路面へこぼしていた。

 ハルが欠伸(あくび)を噛み殺し、その拍子に飴をかみ砕いていた。

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