第4章:商店街の便利屋
「はいっ、本日の作戦会議を始めまーす!」
フリーペーパーが、まるで作戦地図のようにテーブルいっぱいに広げられた。
ハルがメニューを盾のように掲げ、無駄に張り切った声を出す。
「作戦会議?」
私は湯気の立つコーヒーに目を落とした。
「そう!この間の仕事は人との接触の最初の段階だったでしょ?」
「修正の繰り返しだったな。あの誤差理論はまだ検証の余地がある。」
「そうそう。でもシンが笑った。それが最大の収穫!」
「……無意識だ。」
「無意識がいちばん尊いの!」
「そういうものか?」
「そうだよ。人ってね、だいたい無意識とかうっかりで恋に落ちるんだよ。」
「恋?急に何の話をし始めているのか、わからない。だが、その理屈は危険だ。」
「理屈じゃないのよ!恋は。」
「話が脱線しているが、君の話すことは考えが甘いと感じている」
「甘くないよ。ちゃんと酸っぱくも苦くもある。人生はシンの手元のブレンドコーヒーと同じ。」
「……次は普通のストレートコーヒーで頼むよ。」
「でしょうね!もうお替りもらっとくから。」
ハルはフリーペーパーを突然指先で叩き、笑いを抑え真剣な顔を向けた。ふざけている。
「で、次は?昨日の続きだよ。何をやってみたい?」
「……」
私はページをめくる。
『カフェスタッフ募集』『倉庫仕分け』『商店街便利屋スタッフ』――。
「便利屋だな」
「お、きた!その心は?」
「商店街なら人も多く“人間味”が出るはずだ。偶然、感情、笑い……そういうものを受け入れる場所だろう」
「言葉にすると急に堅いんだよなあ、シン」
「……」
「まあいいや。便利屋決定!」
ハルは両手を広げ、まるで大発見でもしたような顔で笑った。
私はため息をつきながら、コーヒーをひと口すする。
「コーヒーが冷めてるでしょ。早く飲んだら。」
「君の話術に聞き入っていたせいだ。熱量の配分を誤った。」
「へえー、嫌味で俺の心も冷めたみたい。会話は双方向の産物なんだけどなー。」
「君の無駄話が長いのが悪い。」
「はいはい、じゃあ、もういっぱいお替りもらっとく。今度はホットコーヒーを氷入りでいいかな。」
ハルが、これでもかというカウンターを放ったように笑う。
私は、冷めたコーヒーを飲み干す。
商店街は、朝からにぎやかだった。
八百屋の店主が「今日はトマト安いよ!」と声を張り上げる。
駄菓子屋の前では子どもたちが騒ぎ、古い喫茶店からは焙煎豆の匂いが漂ってくる。
「情報の密度が高いな。だが人はこれを生活と呼ぶのだろう。」
「うん。あと古き良き商店街とかも呼ぶね。」
「古き良き?」
「好きなんだよ、この雑多な感じ。整理されてないのが人らしさなんだ。」
「秩序の欠如を、好意的に解釈しているのか。」
「そう!このごちゃごちゃを“味”って言い換える才能が、この空間にはあるの!」
「味…。混沌を肯定する方便か。」
「方便って言い方やめて! 情緒って言って!」
「じょうちょ」
「棒読みやめて!」
通りを抜けるたび、声と香りと熱気が重なっていく。
「この通り……密度もそうだが、熱量が高いな」
「うん、人の太陽光発電みたいな感じ。」
「つまり、日が沈めば停止するのか。」
「そうそう。でも夜になると別の人が酒で再稼働するから心配いらない。」
「効率が悪い。」
「それがいいの。人のエネルギーは無駄と気分で動かしていくスタイルよ。」
「……理解の優先順位がわからない。」
「大丈夫、俺も分かってない。」
そんなやり取りをしているとき、通りの向こうから声が飛んだ。
声の方を見ると、腰の曲がった老婆が、重そうに米袋を押している。
「すみませんねえ、この袋、家まで運んでくれないかい?」
「承知した。」老婆は重いものを持つのが流行りのようだ。
私がすぐに肩に担ぐと、老婆は目を丸くした。
「まあまあ、若いのに力持ちだねえ。」
「君より若くないが、重量は問題ない。」
ハルが横で笑う。
「シン、運ぶ姿が妙に板についてるよ。」
「昔も似たようなものを運んでいた」
「へぇ、荷物持ちの仕事経験者?」
「ピラミッドの石だ。」
「……は?」
「最初に積み上げられたものは、角度が二度ほど狂っていたから、少し直した。」
「それ、世界史の教科書に書いてない修正だよ!」
「風向きの都合だった。砂嵐の流れが気に入らなくてな。」
「いやいや、風向きで建築修正しないで!?職人通り越して地形設計士か!」
「ピラミッドだけを動かすと全体の重心がずれる。だから、大陸ごと少し移動させてもらった。」
「いやそっち動かすのかい!」
「結果的に安定した。今のところ問題はないようだな。」
「問題しかねぇよ!」
「だが、当時の人は満足していた。」
「そりゃあ気づかねぇよ!何億人規模で動かされてんだから!」
老婆が笑いながら「まあまあ、仲がいいねぇ」と言った。
私たちは米袋を担いだまま、商店街を抜けていく。
そのときだった。
背後から、けたたましいベルの音が鳴り響く。
チリンチリンチリン!
「どけどけーっ!」
中年の男が自転車で突っ込んでくる。
シャツのボタンは外れ、煙草をくわえ、目はどこか荒んでいる。
商店街の人々が慌てて道を開けた。
「危険だな。」
私が足を止めた瞬間、隣のハルがニヤリと笑った。
彼の指先が、ほんのわずかに空気を切る。
プシューッ。
乾いた音が響き、男の自転車の前輪がしぼんだ。
ハンドルを取られ、よろめいた男は仕方なく降り、自転車を押して舌打ちしながら去っていった。
周囲から安堵の吐息が漏れる。
老婆は「危なかったねえ。」と胸を撫で下ろした。
「ハル。無駄に力を使うな。ましてや悪戯に。」
私が低く言うと、ハルは肩をすくめた。
「へぇ、アフリカ大陸を指先でずらした神に言われるとはね。」
「……あれは誤差の修正だ」
「なるほど。誤差の修正で地形が変わるのか。なら俺のも似たようなもんだね。自転車の空気圧調整と
ちょっとタイヤの寿命を縮めただけさ。シン、あの人も、心のどこかで止まりたがってたんだよ。」
「……」
「それに退屈しのぎには丁度いいだろ?」
彼の笑みは軽く、悪びれる様子はなかった。
私は口を閉ざし、再び米袋を担いだ。
周囲では、何事もなかったように商店街の喧騒が続いていた。
午前の空気は、騒がしくも澄んでいた。
人々の声、売り物の匂い、子どもの笑い声。
荷物を下ろし、老婆に礼を言われる頃には、私はまた一つ人の生活というものを学んでいた。
日差しが商店街を照らす。
通りには、子供たちが持つお菓子の甘いにおいとパン屋の甘い香りが入り混じり、時折、自転車のベルや子どもの笑い声が波のように押し寄せてきた。
「さて、便利屋の本番はこれからだな。」
ハルが腕を組み、わざと偉そうに頷いた。
「本番?」
「うん。荷物運びは準備運動だよ。便利屋はね、いろんなこと頼まれるようになってからだから」
その言葉の通り、荷物運びの様子を見ていた人たちから立て続けに依頼がやってきた。
最初の依頼は、猫探しになった。
「すまんが、うちのタマがいなくなっちまって……」と八百屋の店主が言う。
「任せてくれ。」という感情が少し芽生えた気がした。
猫の習性、生態、行動範囲。神であったからこそ知っている。
瓦屋根の上、陽を浴びながら尻尾を揺らす姿は目に浮かぶ。
だが、すぐに答えをだすのはやめた。今は、人のやり方を学ぶときだとふと思えたからだ。
私は人のように路地を覗き、軒下に耳を澄ませた。「タマ」と呼びながら、わざと探すふりをした。
鳴き声を聞き分ける素振りもしてみた。
「シン、わざとやってるだろ。」
ハルが苦笑する。
「最初から分かってたのに、なんで探すふりを?こういうのは、早めに終わらせてもよい気がするけど」。
「少しずつ学ばせてもらっているからな。人は過程を大事にする」
「おお、成長してる。偉いぞ、シン。」
「子どもに言うような口ぶりだな。」
屋根の上で「にゃあ」と声がする。
私が指差すと、遅れてついてきていた店主は顔を輝かせて駆けていった。
「ありがとよ!やっぱり便利屋さんは頼りになるな!」
「店主よ。良かったな。」
「言い方が完全に他人事すぎる。もっと感情こめて。」
ハルは笑いながら、次の依頼票を指で弾いた。
次は、忘れ物探しだった。依頼票は妙に湿っていた。
依頼の内容を確認していると、駄菓子屋の前で、小学生の男の子が目を腫らして待っていた。
「遅いよ!なんですぐ来てくれなかったの!」
憎悪を向けてくる小学生をハルがさっとなだめる。
「ランドセルに入れたはずの大事なバトルカードがないんだ!」
私はランドセルの中身と周囲を見渡したが、すでにカードは風に飛ばされていると理解できていた。
探せば見つけられる。だがその時、ハルが片眉を上げた。
「シンは、見てて」得意げな声で、男の子へ近づいた。
ハルはわざとポケットを探るふりをしながら、そっと指先を弾いた。
突風が吹き、電柱に何かが突き刺さっていた。
それを男の子が見つけ、「あった!」と駆け寄る。
「偶然ってやつは、演出次第で奇跡になる。」ハルが小声で呟く。
「……だが、操作しすぎではないか。電柱修繕の仕事も増えた」
私は指摘をしながらも、いわゆる人からする奇跡が起こした、子どもの笑顔を観察していた。
午後が近づく頃、最後に頼まれたのは高齢者の荷物運びだった。正直この手の依頼は多い。
古い団地の階段を、重い買い物袋を抱えながら上がる。
「ふぅぅ、助かるよ。」
老婆が息を切らせながら笑った。
私は袋を持ち上げながら口にした。
「ご高齢の方からの荷物運びは多いな。人は弱くなるから、助けが必要になるのか。」
ハルは隣で鼻歌を歌いながら答える。
「弱くなくても助け合うよ。そういう時だってある。」
「……」
「誰かに頼れるのは強さよ、人は案外しぶといんだ。」
老婆が笑って「ありがとうねえ」と頭を下げる。
その笑顔に、私の表情が無意識にもわずかに緩んだ。
無意識な反射が、たぶん地上での変化だと感じていた。
そして。コンビニの前の通りに出ると甲高い泣き声が、夕方の空気を揺らした。
小さな女の子が、地面に座り込み、手にしていたアイスを落として泣いている。
溶けた水色がアスファルトを濡らし、母親が「ほら、やった。もう今日は買ってあげられないよ!」と慰める。
それでも子どもは、首を振って泣き続けた。
私は立ち止まり、じっと見つめた。
「不可逆。失ったものは戻らない。そういうふうに決めておいた方が、世界は簡単に過ごせる。」
小さく呟いたつもりだったが、隣の男にはしっかり届いていた。
ハルが笑う。
「じゃあ、俺が神みたいに逆にしてあげようか。安心しなよ、天地創造までは巻き戻さない。」
彼は嫌味なほど軽く、指先をひょいと動かした。
すると、溶けたアイスがきらきらと舞い上がり、棒の先に形を戻していく。
いや、ただ戻っただけではなかった。
先端には飴細工のような飾りが添えられ、きらりと光を反射していた。
ほんの一瞬で、落とした以上のものになって、子どもの手に収まった。
子どもは目を丸くし、次の瞬間、涙を止めて笑った。
母親も驚きながら深々と頭を下げた。
ハルは、とぼけた顔のまま「どういたしまして」とでも言うように手を振った。
便利屋の仕事を通して、ハルがここまで細かく介入するのは珍しいと思っていた。
それは良いことなのか、悪いことなのか。
答えを出すには、少し時間が必要だ。
私はただ口を閉ざし、彼の背を追った。
黙っている私も見かねて、ハルは急に弁明のように冗談を語り始めた。
「再創造。期間限定サービス」
「……人前で軽々しく使うな」
「え?軽々しくやるからこそ“人間味”があるんでしょ?」
「……君の“人間味”の定義が、だいぶ壊れてきている。人は落ちたアイスを戻せないだろ」
「いいんだよ、落ちて壊れるのは仕方ないなら、戻って作られることもまた仕方ないことにしよう。」
「……哲学っぽいけど、内容がスカスカだな」
「やはや、お褒めの言葉痛み入ります。」
思わず私は息を吐いた。
無意味な奇跡。けれど、涙が一瞬で晴れる光景には、確かに人の熱があった。
ハルは遠ざかる子どもに向かって再び軽く手を振った。
「また落としても大丈夫、たぶん。」
「……それは保証になっていない。」
「奇跡に保証つけたら、それもう保険会社だよ。」
「神は保険を売らない。」
「でも奇跡、月額500円とかで提供したら儲かりそうじゃない?」
「あのアイスの話が、どうして保険セミナーに変わるんだ。最初は説教だったはずだぞ。」
商店街の通りに、ぽつぽつと灯りがともり始める。
焼き鳥の煙が上がり、赤提灯が人を誘う。
昼間の喧騒が沈み、夜のざわめきへと変わっていく。
「いやあ、働いた、働いた」
ハルが大げさに背伸びをする。
「無駄話は置いといて、シン、便利屋どうだった? なかなか“人間味”の見本市だったでしょ」
「無駄話をしていたのは君だけだったが。便利屋は…そうだな。偶然や感情が交錯し、助け合う行為が、互いを繋いでいた。」
「またポエムっぽいなあ。」
「観察だ」
ハルは笑いながら歩き出す。
私はその背を見ながら、提灯の明かりに視線を向けた。
私の視線は、提灯の温かみに引き込まれていく。
“人間味”――それは現神ユグに教えられず、私が地上で求めているもの。
笑い、涙、偶然。
今日一日の仕事は、その断片に触れる時間だった。
ハルはポケットに手を突っ込み、にやりと笑う。
「便利屋、けっこうハマってきたんじゃない?」
「……」
「その顔は、もう次もやる気だな。」
「表情に出ていたか?」
「うん。あと、さっき沈黙が0.5秒短かった。」
「計測するな。」
「統計は大事だよ、いや、言うなれば『観察だ。』。どう、今の完全にシンだったでしょ。」
私は答えなかった。
けれど、足取りはわずかに軽かった。
全知全能を退いた理由も。
それは、こうした小さな日常の中に答えがあると信じていたからだ。
夜風が頬を撫でる。
「ね、シン。こういうのを良い一日って言うんだよ。」ハルがぽつりと呟いた。
「そうか」
「うん。でも、そういう日が……」
ハルは小さく笑ったが、それ以上は彼なりに照れくさいらしく、黙ってしまった。
商店街を抜ける角で、ハルが切り替えるように振り返った。
「じゃ、つぎの作戦会議も楽しみにしていてよ。」
彼の声に、私は多少なりと頷いた。
赤提灯の明かりが遠ざかり、影が静かに並んで歩いていった。




