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第3章:ティシュ配り

 店を出ると、空の白さが増していた。

 ビル風が首元を通り、看板が揺れる。

 交差点で、背中にギターケースを背負った青年が、信号を見上げて立っていた。

 彼は私たちを一見すると、なんでもない顔で視線を戻す。

 見過ごすの、さらに上手いやり方だ。


「うまいな。」

「何が?」

「自分の視界を、都合の良い形に切るのが。」


 ハルは肩をすくめて笑う。

「まあ、見て見ぬふりの熟練者が多いからね。人の生存スキルだよ。」


 ハルは話しながら、ピッとスマホで地図を示す。


「この先、右。集合場所はビルの前。今日のティッシュ配布は駅前らしい。シンの空間の空きがどう効くか、ちょっと興味あるなぁ。」

「非接触効率は上がるが、配布効率は下がる」

「うん、そこだよ。どうやって受け取りたい気持ちを作るか。実験開始だね。」

「受け取りたい気持ち、か。物理的に相手の手に転送するか。」

「やめなさい、押し売りだ、それ。」

 集合場所は、グレーの柱の影だった。

 オレンジのジャンパーを着たリーダー格の女性が、クリップボードを持って立っている。

「初めまして。今日、入ってくれるお二人?」

「はい!よろしくお願いします。」

 ハルが一歩前に出る。

 私はおのずと半歩だけ下がる結果となった。

 女性の視線は自然とハルに向かい、会話の窓口を決めた。


「じゃあ、簡単に説明ね。笑顔で“どうぞー”って渡すだけ。受け取ってもらえなくても、気にしないで流してね。あと、道の邪魔にならないように。」


「了解です。笑顔、がんばります。」

「うん、いい返事。そっちの方も、よろしくね?」

 女性は私のほうに目をやり、少し首を傾げたが、すぐに笑顔に戻った。

「ジャンパー着てね。サイズ合うかしら?」


 受け取ったジャンパーのジッパーを上げる。

 鏡面のように磨かれたビルの窓に、私が小さく映る。

 オレンジ色が、私の輪郭をはっきりさせた。

 人々の視線が、ほんのわずかに当たる感覚があった。

「これは面白い。」

「どうした?」

「服が、存在を補正している。まるで人認識フィルターの一部だ。」

「それをファッションって言うんだよ。文明の作用に感謝。」


 女性が笑いながら言った。

「お話、仲良くていいわね。じゃ、準備できたら駅前行きましょう。今日は人が多いからたくさん配るわよ。」


 女性の声に続き、私たちは歩き出す。


 駅へ向かう途中、ハルが小声でつぶやいた。

「シン。渡すとき、あんまり真正面から目を合わせないようにね。」

「なぜだ?」

「シンの目、人が見ると本能でビクッとするんだよ。魂の奥まで見透かされる感じっていうか、説教する前提の目っていうか。」

「失礼だな。」

「いやいや、褒めてるって。カリスマ性があるから、そういうのを好む人には受けが良いと思う。」

「どういう意味だ?」

「まあいいや。とりあえず、人にはまず安心感を与えるって基本ルール、覚えとこう。」

「初耳だ。」

「覚えといて。これ、今日の地上ルール第一条ね。」


「あと、最初の一枚は、俺がやってみるね。まあっ、そこで見てて。」


 角を曲がるたび、風が顔を撫で、チラシをめくる。

 街のざわめきの中、私たちのオレンジが馴染み始めていた。


 駅前は、女性リーダーの言う通り、午後の濁流だった。

 階段を上がる人、降りる人。待ち合わせの人、走る人。

 すべてが急ぎ、すべてが立ち止まっている。

 矛盾の中に秩序があり、無秩序の中にも規則がある。

 人というのは、ほんとうに器用な生き物だ。


「はいはい、じゃ俺、先発で。」

 ハルが流れの縁に立ち、軽やかに声を出す。

「どうぞー!」


 一歩。視線。ティシュが手から手へ移る。

 受け取った人は小さく会釈し、そのまま歩いていく。


「どうぞー。」

 また、すっとティシュが減る。手の角度、声の柔らかさ、渡すタイミング。

 どれもさりげないのに、全部が計算されていた。


「はい交代、天界の新人さん。」

「分析中だったが?」

「それじゃあ、観察だけで1世紀終わっちゃうよ。現場では観察したらすぐに実践でしょ!ほらほら、やってみよー。」


 私は一歩前に出る。

「どうぞ。」


 柔らかく言ったつもりだった。が、前を通った人は肩をビクッとさせて、半歩退く。


「あれ?」

「はい、魂の定期点検はしなくていいから。」

「点検などしていない。」

「いや、してるの。声だけでスキャン入ってる。」


 ティシュはひとつも減らなかった。


 次の人も、こちらを見ない方を全力で選ぶ。

 また次。

 そのまた次。


 十人目で、まだ紙は私の手を離れていなかった。


「お兄さん、笑顔でー!」

 女性リーダーの声に私は頷いた。が、その頷きすら通行人の視界をすり抜け、存在は見えているのに意図的に避けられるという現象が続いた。


「なあ、ハル。人が明確に私を避けている。」

「うん、正解。つまり百点満点の大失敗。」

「指摘が直球すぎるな。」

「だってさ、正確すぎる視線って、人からすると尋問されている感じがするのよ。シンの目がみんなの心臓を正座させている様子が目に浮かんだ。」

「どんな様子だそれは。」

「とにかく、通りかかる人を心筋梗塞にする前に、コツを考えよう。」


「では、どうすればいい?」

「うーん、少しズレよっか。」

「ズレ?」

「そう、人の誤差を再現する。たとえば、目を少し外して、笑顔を0.3秒遅らせて、声をちょっとだけ雑にする」

「雑?」

「そう。声帯を再現できて、いい声を響かせたいのはわかるけど、ここでは完璧な声を崩す。崩れた瞬間にね、人って『あ、この人ひょっとして怖くない』って思うこともある。」


 私はハルのアドバイスを飲み込むと同時に深く息を吸い、吐いた。

 視線をほんの少し外す。

 相手の肩か、耳の上、あるいは空気の一点へ。

「どうぞ。」

 その声は、先ほどよりも人らしさを持っていた。

 空気が、わずかに緩む。流れが、変わった。


 紙が手から手へ三つ、四つ。

 遅いが、確かに動いていた。


「いいね。次は間。早すぎると押し付け、遅すぎると機会損失。」

「私は速い傾向がある。」

「おっ、やはり指摘は不要だよね。知っているのだから、半拍、遅らせてみて。」


 私は頷き、呼吸を合わせるように半拍ずらす。

 紙が、自然に受け取られるようになっていく。

 受け取ったのは、買い物袋を二つ持った穏やかな老婆であった。

 老婆は小さく笑い、私のジャンパーの胸元にある会社ロゴをちら、と見た。

 現実に、紐づける。


 私は、胸元のロゴを一度見下ろした。

 たったそれだけで、天界では不必要なはずのものが、ここでは確かに役に立っていた。

 衣装は、確かに便利だ。


 そのころ、少し離れたハルの周囲には列ができていた。

「どうぞー! 本日限定、ご加護付きティッシュでーす!」

 通行人からは「えっ、加護?」「限定だって!」など、せわしなく聞こえてきた。


「はい、今なら軽めの幸運が無料でついてきまーす!」


 ハルは完全にノリノリだった。

 渡すたびに人が笑い、冗談半分で手を伸ばす。

 中には拍手まで起きている。


「……ハル、神聖な加護を販促素材に使うなよ。」

「シンの周りにある余剰分だから!ちょっと漏れてるだけ!」

「漏れてるで済む話ではない。」

「副作用で幸福度上がるとか、いい商品じゃん?」

「倫理観を落とした商売人か、君は。」

「ほめられた気しかしないな。」


 実際、ハルの渡したティッシュを受け取った人々には、ほんの小さな幸運が起きていた。


 落ちた子どもの帽子が風に乗って戻る。

 電車にギリギリ間に合った多くの会社員が、電車内でティシュを握りしめる。

 誰の人生にも影響を与えないほどの、さざ波の奇跡。


「やれやれ、完全にイベント会場だな」

「いやぁ、俺、営業向いてる気がするんだよね。次は開運セミナーでもやる?」

「はぁ…」

 ハルの軽口は、雑踏に吸い込まれた。


 一時間もすれば、額に汗が滲む。

 いや、正確には、滲むように演出していた。

 汗をかくほどの熱はないが、働いている風景に合わせるのも、地上のマナーらしい。


 人の流れは、密度を維持したまま、方向を変え続ける。

 私は、少しずつ誤差を理解できてきた。


 視線の外し方。声の柔らかさ。手の角度。


 うまく行くたびに、ハルが小さく親指を立てる。

 うまく行かないときは、「惜しい」と唇を動かす。

 言葉はいらなかった。

 その僅かな仕草すら、彼を人らしく見させた。


「っと」

 人の流れから一人、急に飛び出してきた。


 スーツ姿の青年。

 スマホを見ながら、完全に周囲を見ていない。

 その向かう先には、衝突が確定されていた。


 ハルは半歩引く。

 それでもティシュの入ったかごが肩に当たり、ティッシュの束が宙を舞った。

 チラシの白い紙も、辺りへ散る。


「おっと!」

 ハルが手を伸ばすが間に合わない。


 地面に落ちるティッシュとチラシ。

 青年が顔を上げた。眉間にしわを寄せて。

 一瞬、険しい空気が走る。


「いやー、すみません。」

 ハルが先に謝り、手を自分の頭にもっていき照れて見せた。


 青年はきょとんとしたあと、ふっと息を抜いた。

「いえ、こちらこそ。見てませんでした。」


 そして、二人がしゃがみ込み、散ったティッシュを拾い始めた。


 その光景を見ていた子どもが、真似をするようにしゃがんだ。

 母親は、自分の子どもの優しさに見とれている様子であった。

 花びらのような白が、かごの中に戻っていく。


 そして通りかかった見知らぬ人々も少しだけ歩みを緩め、

 この駅前のその場だけ、時間が静かにゆっくり感じられた。


「ありがとう。」

 ハルが微笑みながら手伝っていた子どもに言う。


 子どもが、満面の笑みで頷いた。

 正面から受け止め、ただ喜んでいた。

「はい、どうぞ。良いことあるといいね。」

 ハルは、子どもに一つ渡す。

 子どもがそれを受け取り、母親を見上げる。母親が笑う。

 青年も何か心の中でほぐれるように、鼻からふっと息が抜けていた。


 ほんのわずかだが、世界のリズムが一拍だけ柔らかくなった気がした。


「ところで、今の良かったと思わない。」

 ハルがこちらに近づきながら言う。

「偶然が生んだ奇跡でしょ!」


「いい時があると見せてくれたのか。」


 女性リーダーが駆け寄ってきた。

「大丈夫?二人ともケガしてない?」

「問題ないです。」

 ハルが軽く頭を下げる。

「ちょっと紙を派手にまき散らしただけで。」


 リーダーは安堵の表情を浮かべ、私の胸元のロゴを見た。

「ティッシュもこんなに配れて。ほんと、今日は助かってるわ。」


 ハルは笑いながら肩をすくめる。

「まあ、与えるのは相方が得意なんですよ。ちょっとだけ神スキルで。」

「ハル」

「冗談冗談。」「でもほら、彼もすごいんです。覚えるのが速くて。」


 リーダーは私を見て、優しく笑った。

「そうね、まじめで固い方かなと思ってたけど。でも、近づいてみると優しい目をしてるわね。」


 ――目が、優しい。


 その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。

 誰かにそう言われたのは、どれくらいぶりだろう。いや、かつて、誰かに言われたことなどあったのだろうか。

 神の名を持っていても、優しいと形容されることはなかった。


「それじゃあ、このペースでね。無理しないで。」

 リーダーはそう言って、再び人の波に戻っていく。


 ハルがその背中を見送りながら、肩を軽く叩いた。

「聞いた?優しい目だって。元神様にしては進歩だね。」

「評価として、悪くない。」

「うん。地上デビュー、一歩前進。」


 ティシュ配布の時間が終わるころ、空の淵に光は追いやられ、薄暗い紺が表情をのぞかせていた。

 ビルのガラスにわずかな夕日の赤が残る。街の喧騒も、少しだけ丸くなっていった。


 ハルが自販機に小銭を入れ、ボタンを押す。

「水でいいよね?」

「構わない。」

 彼は一本を放り投げる。

 私は軽く受け取り、キャップを回す。


 喉を通る冷たさは、情報ではなく、事実だった。その感覚を味わうたびに、何かが私のなかで更新される気がする。


「ね、シン。」

「何だ。」

「今さ、楽しい顔してたよ。」

「……そうか。」

「うん。やっと、バイトの喜びに目覚めた神。」

「神を労働者にするな。」

「いやぁ、労働は神聖だよ? なにかを創造するのも仕事みたいなもんでしょ。」

「その理屈は強引すぎる。」


 ハルは笑い、水を一口飲んだ。

「ま、でもいい顔だったよ。世界がちょっと面白いって顔。俺、それを見るためなら頑張れる気がする。」


 私は答えず、空を見た。

 ガラスに反射した赤は、まだ消えていない。


「次は?」

「次はね…」


 ハルがポケットから、しわになったフリーペーパーを取り出す。

 チラシ配布の求人の隣に、小さく並ぶ文字たち。

『カフェスタッフ募集』『商店街の便利屋・手伝い募集』『倉庫仕分け』

 指が止まる。


『夜間、神社の清掃アルバイト ※静かな作業が得意な方歓迎』


「夜の神社、似合うねぇ。絶好の職場じゃん。」

「勤務経験はあるが、再就職する気はない。」

「神社は別の家みたいなところ、あるからね。他の家の掃除は、メイドかなと思う。」

「神のメイドだな。」

八百万(やおよろず)清掃代行サービスという名前でいきますか。」

「君の発想力は時々、神罰ものだな。」

「でもウケるでしょ、八百万(やおよろず)万屋(よろずや)をかけてるところが傑作。天界なら今頃大うけ。」

「笑いの基準が天界は違う。」


 ハルが冗談を言うなかで、私も話を続けた。

「静かな作業も悪くないが、もう少し話すことを続けたい。」

「おっ、社交界への道?」

「学習の一環だ。」

「了解。じゃあ、このあとまたカフェに戻ろっか。データ整理と、君の笑顔の筋トレ。あと、甘いものを少々。」


「甘いものは不要だ。」

「必要。俺には、あと3口分ぐらいは欲しい。」

「君は糖で動くのか。」

「ほぼ、お砂糖でできてますから。」


 ハルは笑い、先に歩き出す。私も続く。

 アスファルトに伸びる影が、少しだけ寄り添った。


 私は道行く中で、人の流れに混じりながら、静かに人の足音に合わせていた。


 ――神であるとは、孤独だと思っていた。

 ――けれど、人は、孤独の輪郭を指でなぞり、互いに“ここにいる”と確かめ合う生き物らしい。


 夕日は姿を消し、暗闇は街を包み込んでいた。


 カチャリ。カフェのドアベルが鳴った。

 私は窓の外を見る。空は黒く、星ひとつ見えない。

「日が変わるころ合いだろう。」


「おー、徹夜デビューだね?人の基本スキルだよ。」

 ハルが無駄に胸を張る。

「そういうものなのか?」

「そうそう。テスト勉強、恋バナ、ブラック労働、ゲームのやりすぎ。人間は寝ないことをイベントにする生き物だよ。」

「有限の時間を、あたかも無限と錯覚して削る。それが徹夜という祭式か」

「祭式?!やめて、そんな崇高な響き!ただの寝不足とノリだから!」


 ハルが笑いながら、手元のスプーンを握りなおした。


 私の手元ではコーヒーの香りが漂う。

 微細な泡が静かに弾け、やがて夜のように音を失っていく。


「ねえ、シン。人の夜ってさ、よく思うのが終わりの時間じゃなくて、始まりの準備なんだよ。」

「準備?」

「うん。みんな寝るけど、心のどっかでは明日、何か変わるかもって思ってる。だから、夜って、実は期待の時間なんだ。」

「期待か。」

「そう。だから、悪くないでしょ?この期待に包まれた静けさ。」


 コーヒーの表面が、室内の灯をゆらりと映す。

 店内の時計は夜更けであることを印象づけてきていた。

 外の通りにはもう人影はなく、タクシーのライトが行き来していた。


「悪くない。」

 私はそう呟き、カップを傾ける。苦味が舌の奥に広がり、どこかで本心が混じった。


「な?地上、案外いいとこでしょ。」

「静かなのが、いい。」

「おっ、それ褒め言葉? 地球、今ほめられた?」

「どうだろうな。“静か”というのを撤回することになるかしれないな。」


 ハルは中身のない苦笑いをこぼし、夜に沈んでいくようだった。


「でも、ハル。」

「ん?」

「期待の時間というのは悪くない表現ではあった。珍しく。」

「だろ?」

「だが、君の評価はいつも甘すぎる。」

「甘党ですから。」

「知っている。」


 私のカップが静かに触れ、ハルはパフェを食べ終わりスプーンをグラスの中にそっと投げ入れた。

 悪くない夜が、まだ少し続くことをグラスの音は知らせるように響いていた。

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