第2章:仕事探し
私たちは降りる駅を決めていなかったが、ハルに導かれ、流れに乗るように改札を抜けた。
人の波をすり抜けながら、私は街の喧騒をくぐりぬけていく。
ビルの隙間から差す陽光がガラスに反射し、通り全体が光を帯びていた。
信号待ちの交差点。
少年が母親の手を振り払い、飛び出しかけた。
周囲の大人は一瞬凍りつき、母親だけが反射的に腕を掴んだ。
少年は不満げに靴先を蹴り、母親は顔をしかめて何かを言っている。
私は、その光景をただ傍観していた。
感情が動くことはない。
ただ、母親だけが“ためらわずに動けた”という事実だけが、妙に印象に残った。
「ねえ、シン。」
ハルが横目で窺うようにこちらを見て言った。
「今、何を考えてた?」
「……あの母親は、考えるより先に動いた。その事実が、少し気になっただけだ。」
「気になった、ね。」
ハルは口の端を上げ、少し足踏みをした。
「その気づきは面白いよ。シンたちお偉い神は、数えきれない思考の上で、母親が動くと考えて動かないことを正解にしてきた。でも、あの場面を見ていた大人たちは、思考せずとも動けなかった。」
「結果として、同じだな。」
「そう。同じ動かないでも、意味が違う。神は思考の果てに止まる。人は、ただ思考せずに止まっていたと思うのよ。恐怖とかはあったと思うけど。でもあの母親は、どちらでもなく、ためらわずに動いた。そこに、俺はちょっとした面白さを感じたんだ。」
「それをあの一瞬で考えていた君も、よくわからない存在だな。」
ハルは小さく笑った。
「よくわからない存在ね。」
「君は、なにを楽しんでいるのか。」
「生きるっていうことかな。だから絶賛お楽しみ中。」
「生きる、か。」
「俺らも今、生きてるよ。シンなんて、わざわざ全知全能の神である立場を捨てて、地上で呼吸して、歩いて。全部、天界で観てるよりずっと難しくて面白いはずだよね。」
私はハルを見た。
彼の温かそうな瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、冷たい計算が覗いた。
だが次の瞬間には、いつもの軽薄な笑みに戻っていた。
「君は、何を見ている?」
「なんだろうな、言葉では言い表せない。というか、もったいない。」
「?」
「シンが人間を見て、心を少しでも動かすたびに、この世界がほんの少し良くも悪くも傾くわけで。俺はその傾きを感じ取るのが好きなんだ。」
「よくわからない存在ではなかったな、君は“衡者”らしいな。」
「そう。いつでも神側でも人側でもないのが、“衡者”。例えば、天秤の針はいつも中立に見えて、実際はほんの少しどっちかに寄っていてもおかしくない。だから、それを正すのが俺の役目のはずなんだけど。」
「のはず?」
「最近は、正すのがもったいないと思うこともある。」ハルは少し笑って、風に顔を向けた。
「だって、そういうのって、時々すげぇ綺麗なんだよね。」
ハルはやはり、よくわからない存在であった。
沈黙で彼の言葉を流した。
交差点の信号が青に変わり、人の波が動き出す。
ハルの靴音だけが、そのざわめきの上に浮いていた。
一歩一歩を楽しんでいるのだろう。
「そうこうしているうちに昼だ。カフェに入るか。」
「賛成。俺は甘いものが食べたいしな。」
ガラスに手書き風の文字で“珈琲”とある、小さな店。
扉の鈴が軽く鳴った。
混んでいたが、私の周囲だけ不自然に空間が空く。
店員は一瞬戸惑い、しかし職業的な笑顔で「どうぞ」と角の二人席を案内した。
メニューを開く。ブラック、ラテ、モカ。
ハルは迷わず季節限定の甘いものを頼み、私はホットコーヒーを選んだ。
「さて」
ハルはテーブルに広げたフリーペーパーを私の前に寄せる。
『アルバイト特集』『未経験歓迎』『交通費支給』『シフト自由』
目への刺激性は高いが、情報は薄い。
「“未経験歓迎”は、シン向きの言葉だと思う。なんせ、人としてはド未経験だからね。生まれたての赤ちゃんと同じ。」
「学びのための手段として最適と判断する。」
「皮肉も少しずつ勉強だね。メモメモ。それじゃあ、ざっと目を通していきますか。」
ハルは生クリームに添えられた果実を食べ、少し微笑んでいた。
「にしてもさ。」
「なんだ。」
「地上に降りてから、まだ数時間だろ。それで働こうって選択がでてくるあたり、神様ってほんと真面目だよね。」
「まずは観察だが、観察だけでは学びが浅いといえる。人は関与によって変化を起こす。私は、その構造を地上で理解したい。」
「構造ねぇ。ああ、そういうとこ、好きだわ。理屈っぽいのに誠実。」
ハルは頬杖をつきながら、先ほどの果実の種を口で遊ばせていた。
「でもさ、職場って理屈が通らない場所でもあるよ?たとえば、無意味な会議とか、誰も読まない報告書とか。」
「それでも、誰かがその無意味を支えているのだろう。それが人間社会の、奇妙で学びたいところでもある。」
「やっぱりシンは、地上に向いてるかもね。」
「どういうことだ。皮肉というものか。」
「むしろ、その逆。ほめ言葉だよ。」
店内の音を拾う。
スーツの男二人が資料を叩きながら「この数字は無視で」と低く言う。
レジ前で子どもが「おまけは?」と訊き、母親が微笑んで頭をなでる。
隅の席では、誰かが泣かないように声を押し殺す。
笑い、苛立ち、安心、微小な感情と呼ばれる波がテーブルまで届く。
「これがカフェの喧騒か。」
「うん。でも、その喧騒にもリズムがある。ほら、子どもが笑って、次にカップが置かれて、奥で誰かがため息をつく。それが全部、一つの音楽みたいに重なってる。」
「音楽か。確かに少し似ているかもしれない。」
「わかるの?でしょ?でもあれだね、シンの耳には“騒音交響曲第0番”に聞こえてそう。」
「考え方次第では、騒音ではなくなる。」
ハルは笑いながら、スプーンで生クリームをひとすくいした。
「でもあまり、最初から吸い込みすぎないほうが良いよ。」
ハルが小声で言う。
「フィルターを通して。じゃないと頭が痛くなる。」
「問題ない。」
「問題はあるよ。人は同時に全部を見聞きしないから、この情報量の中でも生き延びていけている。シンは全部を見聞きしようとしているだろ。それだと、この情報量では現実がバグって見えてくるよ。」
私のカップから蒸気が上がる。
苦味はこの空間を落ち着かせてくれる。
味覚は、情報を適度に鈍らせる。ありがたい。
ハルが甘いものを好むのは、これも一つの理由なのだろう。
「それで、君のいう人“未経験”の私に、おすすめの仕事はみつけているのか?」
「急に来ました。お問い合わせありがとうございます。」
「先ほども言ったが、周囲から学ぶにはこちらから関わるのが速い。」
「速いけど、難易度はあるよ。たとえばこのイベント会場の搬入は、体力と段取りが試される。シンは段取りが完璧でも、存在が避けられるから、指示がすり抜ける可能性が高い。」
「現象の補正は、必要なら最小限だけ行う。問題はないはずだ。」
「最小限、ね。俺が好きな言葉だよ」
ハルがページをめくる。
『街頭サンプリングスタッフ募集 ティッシュ配布 時給』『笑顔で渡せる方歓迎!』
指が止まる。ハルが少し微笑みながらこちらを見る。
「これ、どう?笑顔が素敵なシンにうってつけでは!」
「表情筋、口角すべて再現できているから、練習は必要だと思っていた。」
「なんだそれ?」
「学習には向いている。短時間で多くの接触がある。君の提案を受け入れよう。」
「やっぱりシンは合理的だね。じゃあ、これに電話するか。」
「電話か?その通信機器は、昔よりずいぶんと便利になったのだな」
「便利っていうより、人の勇気試しみたいなものだよ」
ハルは言葉を続けた。
「ボタンひとつ押すだけなのに、緊張したりもする代物。相手が出るか、出ないか。何を言うか、言われるか。どう思われるか。結果は分からないけど、それでも話してみるかって思う。それが人っぽい。」
私は、わずかにうなずく
「なるほど。確かに、結果がわからないのに、自ら選択して身を投じるとは、感慨深い。」
「でしょ?それが電話ってやつの面白さなのよ。おっと、もしもし……」
レジ脇の掲示板にも、同じ会社の小さなビラが貼ってあった。
『本日、午後シフト 若干名』
「これは、天からの思し召しかな?今から行ける?シン。」
「行ける。まずは人の真似から行おう。観察、模倣、失敗、修正。順序が大事だ。」
「ビビビッ、リョウカイ……シタ……。」
「何か言いたいのか?」
「いいや。最高だよ。」
ハルはにやりと笑い、立ち上がる。
出口のベルが軽く鳴った。
「じゃ、いってみようか。初仕事ってやつに。」




