第10章:大老戒導者の講義
天界――そこはかつて私が在った場所。
天界は光に満ちている。
だがその光は祝福ではなく、縛りそのものになっている。
高天原の奥、無数の階層が折り重なる空の中心。
白と金に満たされた静寂の宮。
だが、静寂の奥では無数の記録音声が交錯していた。
祈りの声、命令の声、懺悔の声。
その中央で、光の壁にもたれかかる影が一つあった。
退屈そうに指先で光をいじりながら、まるで授業の始業ベルを待っているようだった。
――大老戒導者。
まだ完全な形をしていない。
無数の光が束ねられ、まるで権威そのものが意思を持って立ち上がったようだった。
先ほど市場で消えた第2戒導者の残滓が、糸のように天界へ引き込まれていく。
「……収束完了。記憶領域、統合。」
機械とも神託ともつかぬ声が響いた。
残滓の光が揺れ、第2戒導者の形を一瞬だけ再現し、そして大老の身体に吸い込まれていく。
「また、不完全体。」
その声は、淡々としながらもどこかに悲観が混ざっていた。
もはや誰のためではない。
己が存在のために、戒導者たちを喰らっている。
私は直感した。残滓はただの帰還ではないことを。大老の糧となっている。
「……ハル」
「ん?」
「第2のは、大老に吸収されたようだ」
「へえ。」
ハルは、少し飽きている様子で話した。
「じゃあ次は黒幕の出番ってわけか。……ほんとさ、物語的にはここ、祝勝会ターンなんだよな。俺、屋台で焼き魚とハイボールいく気満々だったのに。」
「だが、次は休息を許さない相手だ」
「うん、それが分かってるから余計に腹立つんだよ」
ハルは飴玉を空に放り、口でキャッチしようとしたが失敗した。
転がった飴は、地面で小さく光を放ち、まもなく静止する。
静止したはずの飴玉が、空気とともに震える。
「来るぞ。」
私が一言を発するときには、すでに市場の空が裂けていた。
音はなかった。けれど、鼓膜の内側が破れるような圧が走る。
空間の継ぎ目が剥がされ、光が裏側から滲み出す。
世界という布地が、裁断ばさみで切り裂かれていくようだった。
それは、神でも人でもない。だが声だけは、これまでの戒導者と比べ妙に生きていた。
「久しぶりだな、シン。地上は楽しかったか。」
低く、しかしどこか楽しげな声音。
空の裂け目から、白と金が流れ込み、形作る。
光の格子は衣となり、皺を刻んだ顔を覆う。
穏やかで、理知的。が目の奥には、狂気があった。
取り憑かれた光、それが大老戒導者の瞳だった。
「大老」
名を口にすると、空気が硬くなる。
「君はユグのお目付け役であったはずだ。他の戒導者とは異なる立場だった。なぜ己の役を捨て、導きを歪めた。」
大老は、教師が“いい質問だ”と言うときの微笑を浮かべた。
「役、か。確かに私はそのために君に作られた。君がユグを正しく育てるために置いた、教育の枷だ。だがな、シン。私は気づいてしまったのだよ。」
その声は穏やかだ。だからこそ、寒い。
「現在の神、ユグは不完全だった。不完全な神を導くなど、果てしない徒労だ。私の理想の教育とは、完成に至らせること。だがユグは、いつまで経っても理想に至らなかった。」
「卒業試験を出す側が、試験そのものを壊していいのかい、“おっさん”。」
ハルが軽く笑いながら言った。大老はわずかに眉を動かす。
「衡者の君には分かるまい。百点合格の試験に、九九点しか取れぬ生徒を永遠に送り出す私の苦悩など。」
空の裂け目から滲み出る白と金の格子は、あたりに広がり始めていた。
その格子の中に、ひときわ太い円柱が一柱だけ立っていたが、それは私たちの目の前で大老の手によって砕かれた。
砕ける瞬間、そこには目を瞑った現神ユグの姿があった。しかしこちらが気づくころには、その姿は光へと変わり、大老の身体を彩る装飾品となっていく。
大老の装飾品は、いずれも神しか纏えないはずの光を、かすかに帯びていた。
私が第2戒導者の時の違和感を理解したのは、この時であった。
「シン、私は決めた。不完全を正す。今までを終わらせる。ユグそして神々を利用し、私がこの世界を書き換えようと。」
天の光が垂直に降り、市場の街路樹の葉が一斉に裏返った。
轟音をともなう風が吹き上がり、世界が圧縮されていく。
「つまり先生、教壇を降りて、生徒として合格を目指したくなったんだね。青春だねぇ」
ハルがまたも、冗談を言う。
大老の瞳が、冷たくハルをさす。
「先ほどから、知能の足りない声がするな。衡者。まだ残っていたのか。」
「まだ?他の衡者も見たことあんの?なかなかレア体験だね。」
「消した。あるいは、理解の足りない君には吸収と呼んだ方が通じるか。」
ハルの表情から、苦笑いですら消えた。だが、すぐに戻る。
「へえ。じゃあ俺、“おっさん”のおかげで絶滅危惧種ってやつだな。レア物コレクションに追加される前に逃げるよ。」
「案ずるな、衡者。君の価値も、ここで終わる。」
視界の中で、地上と天界、過去と現在が縫い合わされる。
昼の市場が、瞬きのうちに一変した。
聖火が燃え、舞い上がった瓦礫は、白い羽に姿を変えて宙を泳ぐ。
世界の重心がひっくり返った。
「それでは、シン。」
大老が手を広げる。
「君が遅すぎた代償を、ここで払わせてあげよう」
私は拳を握る。
ハルは飴玉の包みをぐしゃりと握りつぶし、口角を上げた。
「なあシン、ちょっとは力になるよ」
「ああ、頼まれてくれ。」
「あとで一杯おごるのが条件で」
光と影がねじれ、天界の格子が、組まれていく。
大老の声が、どこまでも冷静に響く。
「第一時限、矛盾について講義を始めよう。」
ハルが小さく口を開く。
「なぁ、シン。“おっさん”、講義って言ったよな?これ、講義ってレベルじゃねぇぞ。」
「講義というより、現象そのものだな。」
「だよな。世界が困ってるよ。」
空一面を覆う光の粒子が、まるで記憶の断片のように浮かんでいた。
砂漠、雪原、海底、戦場。それぞれの光の中に、異なる現実が映っている。
この場所そのものが、あらゆる現象の集合点となっていた。
「矛盾とは、曖昧さの温床だ。」
大老の声は、静かに空気を震わせた。
「矛盾を排除し、全てを一つの正解に導く。それが、私の問う完全だ。」
ハルはその声に向かって、鼻で笑った。
「完全ねぇ。じゃあまず、人の恋愛見てみろよ。好きなのに連絡しねぇ。連絡来たら冷める。はい、どう完全にすんの?論理的に答えてみ?」
「くだらぬ問いだな。」
大老の声は静かだったが、圧力だけが押し寄せた。
空気が落ち着くころには、ハルの立つ足場は反転していた。
「おっととと!……足元の空がすごいキレイ!」
ハルが浮き上がり、反転した天へ落ちていく。
私は反射的に腕を伸ばし、ハルの手を掴んだ。
風が爆ぜて二人とも吹き飛ばされる。
「君は、いつも通りすぎだ。」
「助けるのが早すぎるんだよ!面白くてアトラクションみたいじゃん。」
互いに言い合いながらも、私たちは地に立った。
だが、足元の地は既に定義を失っていた。
土と氷と雲が同時に存在する。重なりあう世界。
大老は、その混沌を指先で払うように見下ろした。
「君たちには、まだ理解できぬか。完全な世界の前では、抗っても無駄になるというのに。」
私は天を仰ぎ、静かに言った。
「完全な世界は、息を止めてしまう。」
「息など必要ない。それが完全なら、それでよい。」
「だが、完全は死と紙一重だ。」
ハルが立ち上がり、指を鳴らした。
「“おっさん”、悪いけどな。俺は不完全な世界で迷ってナンボだと思ってる。焦って、間違って、落ち込んで、笑って、それでも飯はうまい。それが俺の完全な答え。」
「衡者、君は神ではない。ゆえに、君の考えはいらない。」
「いやいや、わかってないな。神が作る完璧なフルコースより、食べるか迷った寝る前のプリンのほうがうまいんだよ。」
大老は一歩前に出た。
光の格子が再び形を変え、刃の群れとなって降り注ぐ。
私は片手で、光の刃を捻じ曲げながらハルを庇った。
「急に慌ただしくなったな、ハル。」
「おう。“おっさん”もプリン好きだな。ってのは冗談で、“おっさん”が、ちょっとムッとしたのかな」
「……講義が終わる気配はないな。」
「だな。それじゃあ、こっちから無理やりにでも課題提出してみようか。」
ハルが笑った――けれど、その笑みの奥で、何かが確かに削れていくのを感じた。
ハルの輪郭が、微かに波打つ。
衣が風にたなびくように、身体の端から光が漏れ始めている。
それは単なる消耗ではなかった。矛盾・不完全そのものを、ハル自身の内部から抽出している。
「ハル……君は、何をしている」
「偉そうな“おっさん”の完全の中に、少しだけ俺の学びをおすそ分け。」
大老の瞳が動く。
「衡者、何を……貴様――不完全なものが!」
その声が響く時には、すでに光の格子が狂い始めていた。
ハルの光が流れ込み、天界に張り巡らされた大老の意識に誤差が生じる。
完璧だったはずの空間構造は、千分の一秒単位でずれていく。
天の基礎そのものが、呼吸するように波打った。
「良くわからぬな、衡者!自らを犠牲にして何を得るというのだ!」
「バランス、だよ。」
短く言って、真面目な顔からすぐに微笑を浮かべてはいた。
私はその光景の中で、ハルの身体がますます薄くなっていくのを見ていた。輪郭が、崩壊と再生を繰り返している。
「やめろ、ハル。君が……」
「いいって。どうせ俺の役目は、均衡を保つこと。ここでの均衡は、揺らがせることだっただけ。俺が珍しく仕事しているだけ。」
声が霞む。
ハルは肩で息をしながら言った。
「“おっさん”。講義は、終わりか?」
「いや。まだ始まったばかりではないか。そう急ぐな。」
「マジかよ。単位も命も落とすかもな……」
ハルの冗談に、私はわずかに口元が緩んでいた。
大老の影が遠く立っていた。ハルの行動に異常性を感じ、距離をとっていた。
しかし、大老はまた静かになり、先ほどの動揺を感じさせない素振り、何一つ崩れていないという空気だ。
だが、確かに最初の揺れが芽吹いた。
「第二時限、模倣と救済。」
その声が、始まりの合図になる。
崩れかけた完全な天界は再び、組み合わせを探し始めていた。
大老戒導者の周囲に光の格子が展開され、無数の映像が滲み出る。
列車のホーム、古戦場、溶岩の平原、恐竜が歩く太古の森。
世界の記憶が、歪んだ万華鏡のように重なっていく。
「模倣とは、創造の証明。世界が一度でも創り出したものを、シンに借りた力で私は再び作ることができる。再現性のゲームだ。君の創った完全な世界を繰り返そう。」
足場が金属に変わった。鉄路が浮き上がり、無人の列車が滑り込む。
光が車輪に変わり、空気の中を疾走する。
「また、朝の通勤地獄か。天界に来てまでラッシュかよ!」
ハルが軽口を言いながら列車へ飛び乗り、どこかの空間へ列車によって連れていかれた
私の足元には、土壌が浮かび上がる。
槍を構えたファランクスが一斉に進軍を始めた。
さらにその背後からは、戦国の弓矢隊と鉄砲隊が現れ、すでに空を覆い尽くすほどに矢は放たれていた。
「時代を混ぜた模倣、完全な策略といったところか。」
私が呟くと、大老の声が笑った。
「できる限り、君の創りだしたもので遊んであげよう。」
「終わりがない。」
ハルとの合流を優先し、最小限での戦闘対応を余儀なくされていた。
「お待たせしました。列車のデリバリーです」
ハルの運転する列車が、空間の裂け目から現れ、兵をめがけて横転していく。
「シン、やっぱり俺がいないとダメだね。」
ハルは横転した列車を背に笑っていた。
その言葉とともに、一瞬の眩い光が視界を遮る。
大老の姿が、霞のように掻き消え次にその存在を感じたのは、ハルの真後ろだった。
「っ――!」
反応する間もなく、左腕を一閃の光の輪が断ち切った。
灼けるような熱気と共に、血ではなく光の粒が噴き出す。
「ハル!」
私が叫ぶより早く、大老の空間がハルの左脇腹に叩き込まれた。
空気が歪み、天界の地が砕ける。
ハルの身体は弾き飛ばされ、奥の崩れた柱へ叩きつけられる。
柱は、崩れ落ちながらハルを押し潰した。
光と塵が混ざりあたりに四散していく。
私は駆け寄った。間に合っていれば、瓦礫の衝撃は逃れているはず。
崩壊した瓦礫の中で、ハルの身体は私の光のベールに包まれていた。
しかし、左腕は消え、腹部は貫かれ、それでもまだ笑っていた。
「油断は、してなかったんだけどな。スーツが台無しだ。そこらへんに、俺の左腕、ではなくて時計がないかな。あれは特注なんだ。」冗談を言っているが、言葉を発するたび光が多く漏れ出ていく。
「喋るな。」
「たぶん、あと少しで、俺はここからリタイアだな。」
ハルが、弱音のような言葉を吐いている
私は息を吸い、右手を掲げた。
掌の中に、細い光の糸が生まれる。
ハルを包むベールに向けて、そっと垂らした。
「何をしているんだ、シン。」
「君を固定する。時の流れを遅らせる。今は救うことはできない。だが、形を保つことはできる。」
光の糸がハルの身体に絡み、静かに広がる。
やがて、ベールは繭のような高濃度の光になっていた。
まるで眠るように穏やかな表情のまま。
「……シン、また勝手に難しいことをやってんな。」
ハルの声が、遠く霞む。
私は拳を握った。
「終わらせてくる。」
ハルは目を閉じた。
ベールの中で、ハルの時間がゆっくり止まる。
それは、あの頃の静けさだった。
「やはり、騒がしいほうが良いな。」
背後で、大老の声が再び響く。
「これが衡者にとっての救済だ。救済を受け入れ、消え果るがよい。」
私は振り返らずに言った。
「形がある限り、希望は消えない。」
ベールの内側から、ハルの声が微かに聞こえた。
「シン、負けんなよ。」




