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第1章:元神の静かなる降臨

 東京空港の到着ロビーは、朝から人の波であふれていた。

 スーツケースを押す観光客、スマホを耳に当てて早口で話すビジネスマン、周りとは異なる言語体系で機械端末を指さす旅行客。

 すれ違うたびに、香水と衣類の柔らかな匂いが入り混じり、天井のスピーカーからは絶え間ないアナウンスが降り注ぐ。

 キャスターの転がる軽快な音と、革靴の硬い足音が重なり、巨大な空間に人間のリズムを刻んでいた。


 その流れの中で、私の周囲だけが妙に空いていた。

 ぶつかりそうな人間は、一歩手前で進路を変える。

 まるで見えない壁でも立ちはだかっているかのように。

 いや、避けられているわけではない。ただ、そうなってしまう。

 視線はかすかに合う。けれど、その瞬間に人間は目を逸らす。

 まるで、触れてはいけないという本能的な合図を、誰もが無意識に受け取っているようだった。


「シン、こっちー!」


 空港の到着ゲート前で、やけに軽い声が響く。

 片手を大きく振っているのは、スーツ姿の男――ハル。


 一見きっちりしているが、手首には場違いなほど上質な時計が光っている。

 時間を気にする必要などないのに、あえてそれを身につけるのが彼らしい。

 両手で抱えたネームボードには「元神(もとかみ)」と書いてある。


 私が歩み寄ると、ハルは口角を上げた。


「よく来ましたね、“元”神様。天界の片隅から、ようこそ現世へ。」


「迎えのわりに、軽いな。」


「堅苦しいのは似合わないでしょ。それに、地上の歓迎っていうのはこういうもんだよ。空気に溶け込まないと。」


 ターミナルのガラス壁に、私とハルが薄く映る。

 見慣れた人間の顔をしているはずだ。

 だが、周囲の視線はやはり私から逸れていく。

 人々は、見る前に見過ごすことを決めているのだろう。

 そういうふうに、私は自分をこの世界においたのだった。干渉しないためにも。


 電車は空港を離れ、モノクロの群れを連れて走った。

 窓の外では、倉庫が住宅地に変わり、高架の網目が次々と交錯する。


「ねえ、現神(げんしん)ユグの話なんだけどさ。」

「その話は今は必要ない。」

「必要ないけど、避けても通れないよね?シン、いちおう“家出中”なんだし。」


 ハルの声は軽い。だが、その眼差しは横目でこちらを測るようだった。

「天界からの“家出”、か。君らしい表現だな。」


「俺は言葉のセンスだけでここまで来たから。それに、事実だと思うよ。現在の神の教育材料を収集するためって名目はあっても、本音はユグから距離を置いてる、でしょ?」


 ハルの軽口に、私は小さく息をついた。

 車輪が話のテンポに合わせ、継ぎ目で音を鳴らす。私の言葉の逃げ場を塞ぐようだった。


「……距離を置いたのではない。準備をしている。」


「準備?」


「私は人間の世界で学ぶ。人間は弱く、不完全であり、だからこそ完全を模倣する。その過程が、神が忘れてしまった何かを映す鏡といえる。私は地上で実際に観て、自分の中に刻み、ユグに伝えるつもりだ。」


「へぇ、教育というより、先に自分が体験って感じか。」


「そうだ。私はユグを、ただ神としてではなく、存在として成熟させたい。そのためにまず、私自身が人間の世界を通して学ぶ必要があった。」


 ハルは指先で窓に線を描きながら、横目で私を見た。

「じゃあ、ユグは今、誰が見てるんだい?」


戒導者(かいどうしゃ)が傍にいる。私が信頼して任せた者たちだ。」


戒導者(かいどうしゃ)……。」ハルの眉がかすかに動く。

「その響き、いかにも厳格なガイドって感じだな。」


「厳格だが、必要だ。私が戻るまでに、きっとユグはもっと成長しているだろう。」


 言葉にすると、胸の奥に微かな温度が生まれた。期待とも祈りともつかない感情。

 それをハルは、半ば冗談めかして受け取った。


「なるほど。現神(げんしん)強化教育プログラムか。シン先生、がんばってね。」


「先生ではない。」


「じゃあ、お母さん?」


「からかうな。」


 ハルは笑って肩をすくめる。

 その笑顔の奥で、一瞬だけ真剣な光が揺れた。

「でもまぁ、導く側がちゃんと学ぼうとしてるのは、悪くない話だと思ってる。」


 ハルは片目をつぶり、窓を指先でコツコツと叩いた。

 アナウンスが駅名を告げる。聞き慣れない音の連なりが、車内に波紋のように広がる。

 列車が減速し、ドアが開くと、乗客が一斉に流れ込んできた。


 だが、私の周囲だけはやはり壁があるように空いていた。

 人々は、私の半径数十センチを無意識に避け、座席すら誰も隣に座らない。

 この密度でそれは異常なはずなのに、誰も気づかない。

 干渉しないことそのものが、この世界の秩序として機能しているようだった。


「これさ、混雑時には便利だよ?」

 ハルが笑い、吊り革を指で揺らした。

「俺らだけの安全地帯、って感じ。ほら、地上で少し前に流行になってたソーシャルディスタンスってやつ。体験できるなんて。」


「だが人との距離は、永遠に縮まらないということだ。」


「おお、随分と積極的な姿勢を見せようとしてくれるじゃん。」

「事実だ。私は今は存在していても、関与できないことになってしまっている。」


「それでも、まず見ることはできるよね。それってたぶん、学習の基本だよ。」


 私は窓に映る街並みを見つめた。

 反射に揺れる自分の輪郭はいまだに曖昧で、まるでこの世界に完全には馴染んでいない幽影(ゆうえい)のようだった。


 ハルは口笛を吹くようにして、目線を向けた。

「ま、取り急ぎのテーマは会話と観察だし。ちょうどいい実践場ってことで。」


 電車内も窓の外も、情報の洪水だった。

 ビルの壁面から光が溢れ、電子チラシが目を奪う。

 “おトク”“期間限定”“人気No.1”。

 文字が踊り、色が脈打ち、脳に直接訴えかけてくる。


「シンは情報の波って、慣れないでしょ。」

「情報ではない。ノイズが多すぎるだけだ。」


「でも、ほら見て」

 ハルの指さす方には、電車内のラッピングを見ているベビーカーに乗った子供がいた。

「ノイズの中でも笑ってる子供がいたりする。そういうところが、悪くないと思えるのよ。」

 私にはまだ、その情景の意味を理解はできていても感じることはできていなかった。

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