優しい思い出
あの人と初めて会ったのは、雨の日だった。
おっちょこちょいで、目先の事しか考えてなくて、何度お母さんに言われても、その日の朝が晴れていれば、天気予報なんて聞きもしないで出かけてしまう私は、昼過ぎから降り出した雨に困り果てていた。
「あ~あ、どうしようかなぁ……」
そうして土砂降りの雨を見ながら、廊下で途方にくれていた時だった。
「ね、君。 傘がないんでしょ?」
「え?」
突然、かけられた声にびっくりしながら振り返ると、あの人がいた。
「これ、貸してあげる」
そう言ってあの人は、真っ黒の、如何にもおとこもの、って感じの傘を私に差し出した。
私が戸惑いながらも、その傘を手に取ると、あの人は、少しの間私を見つめていたけれど、すぐに踵を返すと走っていってしまった。
それがあの人との出会いだった。
その後、次第に膨らんでいく想いを感じ、あの人の特別な一人になりたい、何度そう願ったことか知れないけど、あの人にとって私は背景の一つに過ぎないんだろう、そう思えた。
あの傘だって、返すきっかけを作れずにずっと持っているのに、あの人は私の事に気が付きもしない様だった。
傘を差し出した時の、あの人の、真っ直ぐな瞳を、それでいて、戸惑っている様な、困ったかの様な視線の揺れを、今もはっきりと思い出すことが出来る。そして、その戸惑いを私の好いように考えようとしていた私を……。
それでも、何の勇気も出せなかった私は、何も言う事も出来ず、そうこうするうちに、結局あの傘は全然別の友達に見つかって、その友達経由であの人に返却されてしまった。
そうして話しかける理由を失ってしまった私は、何のきっかけも接点も作れずに、ただ、あの人を遠くから見ることしか出来なかった。
そんな日々を過ごしていたけれど、想いは強くなる一方だった。
それでも何の勇気もない私は、何も言う事も、する事も出来なかった。 そんな時間を過ごすほどに、想いが強くなるのと同時に不安も大きくなっていった。そうするうちに雨の季節は過ぎて行った。
いつの間にか、私は高校三年生になり、気が付いたときには季節は夏になっていた。けど、さらに加速する年月は、あっと言う間に高校三年生としての時間は過ぎてしまった。
それでも、その当時、私のあの人に対する想いは何も変わっていなかった。
卒業式の日、あの人と同じときをすごせる最後の日、咲き始めた桜を見上げながら、悔いを残さないためにも告白しよう。 そう決意した。
いえ、したはずだった……。
それなのに。 いざとなると、最後の一歩を踏み出せず、何も言うことが出来ないままに、その日を終えてしまった。
それは今となっては、多感な頃の、切なく真剣な、それでも幼い想いの思い出だった。
けど、告白できなかった、想いに行き先を与える事が出来なかった。 そのもどかしさは、いつまでも晴らすことが出来ないように感じられた。
カーテン越しに、ちらつく雪を見ながら、そんな高校生の頃を思い出していた。
「おまえ、今度の同窓会、行くのかい?」
夫の、その唐突で、それでいて、たった今思い出していた事に重なるその問いに、私の追想を見抜かれたのだろうか? などと思った。
それでも微笑みながら振り向いた。
「そうね、十年ぶりだしね……。 でも、どうしようかしら……」
「どうせ地元なんだし、行けばいいじゃないか、俺は行こうかな」
「あら、誰かお目当ての人でもいるのかしら?」
「おいおい、なに言ってるんだよ。 おまえ以外にいなかったのは知ってるだろ?」
「ええ? 本当に?」
そんな言葉を発しながらも、私は笑顔だった。
どうしてって、単にじゃれてるだけだったから。そんな風にじゃれあいながら、久しぶりに高校生の頃を思い出して、二人でひとしきり話し込んだ。 そして私たちは二人揃って同窓会に行く事にした。
同窓会当日、久しぶりに会った高校の同級生は、みんな変わっている部分は十分にあったけど、それでも変わってない部分を感じることが出来た。 とにかく懐かしかった。
それでも……。
いえ、だからこそ、私は密かに怖かった。
あの人に出会うのが、そして、出会ってしまった時に私が何を思うのか、が…。
そんな私の想いを知ってか知らずか、夫は何故か含みのある様な、それでいて、どこまでも優しい微笑を私に向けていた。
そして、私は恐れていたその人を見つけてしまった。 十年ぶりに見るあの人は、やはり変わっていた。それでも、はっきりとあの人だと分かった。
あろう事か、あの人は私を見つめているようだった。
私と目が合うと、あの人は穏やかな笑みを浮かべ、私に向かって近付いてきた。
「久しぶり、だね。 って僕のことを覚えてる?」
「ええ、覚えてるわ……。 高校二年の時、突然の雨の日に、傘を貸してくれたわよね?」
「良かった。 覚えていてくれたんだ……」
「ふふ。 すごく助かったもの、忘れた事はないわ?」
そう話しながら、まともに会話するのは初めてだと気がついた。
「僕もさ。 で、今さら、だけど。 あの頃、僕はきみが好きだったんだよ」
その突然の告白に、私は微笑む事が出来た。
「あら。 ホントに今さらね、でも、おしかったわね」
「え? どういうこと?」
「私も、あなたの事が好きだったのよ」
続く数秒の間、私とあの人は、お互いの瞳を覗き込んでいた。 けど、十年前のあの雨の日に感じた戸惑いも、揺れも感じられなかった。
私の心には、ただ懐かしい光景が浮かんでいた。かつてその光景と一緒に感じていたはずの強い想いは、もどかしさは、今は淡く、優しい記憶となっている様だった。
そして私は、はっきりと感じる事が出来た。
この人を想って過ごした時間は、貴重な、手放す事など出来ない私の一部だけど、私の一番大事な時間は、夫と共に過ごした時間だ、と。
あの卒業式の日、とうとう私は何も出来なかったけど、夫は私に交際を申し込んでくれた。
あの人の事が心の大部分を占めていたけど、友達からでいいから、という夫の言葉と、私を包み込むような笑顔に、何かにすがりたかった私は、卒業後も連絡しあう事にした。
その時から積み重ねてきた時間こそが、今の私にとっては、一番大事な時間だった。そして、その時間をこれからも積み重ねていくことが私の願い。それをはっきりと感じた。
「じゃぁ、またね」
「えぇ、元気でね」
そう言葉を交わすと、私は振り返った。
そこには夫がいた。私を真っ直ぐに見つめて、優しく微笑む一番大事な人がいた。私も微笑むと、夫に向かって歩き始めた。
寄り添うために、微笑みあうために、時には喧嘩もするけれど。
ずっとずっと、一緒に歩むために……。
何だか、微妙なお話のような気もしますが、それでも、優しいお話に出来たかな、と思っています。昔を懐かしみ、昇華できていないかも知れない、恋の想いに怯える、それは、今の想いが大事だから、それを感じている時点で、以前の想いは昇華されているのだけれど…。 それを実感できていなかった彼女は、今の幸せを壊してしまう想いを抱えているのではないか?という幻に怯えています。 そして…。
多分、よくあるお話だとは思います。
感想等頂ければ、たいへん幸せです。 よろしくお願いいたします。