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『 潮風の三姉妹』

作者: 小川敦人

『 潮風の三姉妹』


## 第一章 船元の娘たち


潮の香りが漂う港町で、三人姉妹は育った。長女の美智子、次女の由香里、そして三女の菜緒子。父の勝男が営む「勝丸水産」は地元でも指折りの船元で、十数隻の漁船を抱え、港の一角に大きな事務所を構えていた。


「菜緒子が男だったらなぁ」


父はいつものように呟きながら、漁から戻った船の水揚げを見守っていた。梅雨の終わりの蒸し暑い夕方、「女の腕まくり」と呼ばれるこの時期の天候は、漁師たちを悩ませる。急に変わる天気に翻弄される海で、菜緒子だけが物怖じせずに船に乗りたがった。


長女の美智子は典型的な長女気質で、責任感が強く、いつも家族のことを第一に考えていた。高校卒業後は地元の銀行に就職し、堅実な道を歩んでいる。几帳面で真面目な性格は、周囲からの信頼も厚い。


次女の由香里は世渡り上手で、人とのコミュニケーションに長けていた。高校時代から人気者で、卒業後は東京の短大に進学。そのまま都内の商社に就職し、華やかな都市生活を送っている。実家への帰省は年に数回程度だが、帰るたびに洗練された雰囲気を纏って現れる。


そして三女の菜緒子は、三人の中で最も海を愛していた。小柄な体格で、一見すると大人しく見える外見だったが、その瞳には他の姉たちにはない芯の強さが宿っていた。幼い頃から漁港は彼女の遊び場で、海は自分の庭のように感じていた。呑気で物事に拘らない性格は、時として周囲を困らせることもあったが、その天真爛漫さと、時折見せる意志の強さは多くの人に印象を与えた。


## 第二章 それぞれの道


美智子が二十五歳の時、地元の公務員と結婚した。相手は町役場の職員で、堅実な人柄が美智子によく似合っていた。新婚生活は順調で、翌年には長男が生まれ、続いて長女も授かった。美智子は母親としての責任感から、家庭を第一に考える生活を送るようになった。


「お父さん、私はもう家庭があるから、家のことはあまり手伝えないの」


美智子の言葉に、勝男は複雑な表情を浮かべた。長女への期待もあったが、孫の顔を見ると何も言えなくなってしまう。


由香里は東京で順調にキャリアを積んでいた。商社での仕事は忙しかったが、やりがいがあった。二十七歳の時、同じ会社の先輩と結婚。相手は将来有望な管理職候補で、由香里の野心とよく合っていた。


「実家の船元?まあ、田舎の小さな漁業よね。私たちは東京で新しい生活を築いていくつもりよ」


由香里の言葉は、決して実家を軽視しているわけではなかったが、自分の人生設計の中に故郷の海は含まれていなかった。


一方、菜緒子は高校卒業後も実家に残り、父の仕事を手伝っていた。といっても、事務的な作業は苦手で、もっぱら現場での作業が中心だった。漁師たちとの関係も良好で、「菜緒ちゃん」と呼ばれて可愛がられていた。


## 第三章 継承への道


勝男が六十歳を迎えた頃、体調に不安を感じるようになった。長年の激務が祟り、医師からは「もう少しペースを落とした方がいい」と忠告されていた。


「美智子も由香里も、それぞれの人生があるしなぁ」


勝男は一人事務所で呟いた。跡継ぎの問題は、彼にとって重い課題だった。伝統ある船元を絶やすわけにはいかない。しかし、娘たちはそれぞれ自分の道を歩んでいる。


そんな時、菜緒子が父の前に現れた。


「お父さん、私がやる」


「何を?」


「船元の仕事。私が継ぐ」


勝男は驚いた。確かに菜緒子は海を愛し、現場の仕事も手伝ってくれていたが、経営となると話は別だった。小柄な娘の体のどこにそんな力があるのだろうか。


「菜緒子、お前に経営ができるのか?どうせ女の腕まくりで、すぐに音を上げるんじゃないか」


父の言葉は厳しかったが、菜緒子は動じなかった。


「お父さん、私は本気よ。『女の腕まくり』じゃない。お父さんが教えてくれれば、必ずやり遂げる」


その時の菜緒子の目は、いつもの呑気な表情とは違っていた。小さな体からは想像できないほど強い意志が、その瞳に宿っていた。父が長年使ってきた「女の腕まくり」という言葉への挑戦でもあった。


## 第四章 苦労の始まり


菜緒子の船元継承は、決して順調ではなかった。まず、取引先との関係構築に苦労した。長年父が培ってきた信頼関係を、若い女性が引き継ぐことへの不安を抱く業者も少なくなかった。


「勝男さんの娘だから信用するが、本当に大丈夫なのか?女の腕まくりで終わるんじゃないか?」


魚市場の仲買人たちの視線は厳しく、菜緒子は毎日が試練の連続だった。小柄な体格の若い女性が、この厳しい業界で生き抜けるのか。父だけでなく、業界全体が女性の経営者を「一時的な気まぐれ」として見ている現実を痛感した。しかし、菜緒子の目だけは決して揺らがなかった。その強い意志は、徐々に周囲にも伝わり始めていた。


経理や事務処理も大きな壁だった。今まで現場仕事ばかりしていた菜緒子にとって、帳簿や契約書の管理は未知の世界だった。夜遅くまで事務所に残り、父に教わりながら必死に覚えていった。


「こんなに大変だったのね」


菜緒子は父の苦労を初めて理解した。海の上での仕事だけでなく、陸上での経営業務も同じくらい重要で困難だった。しかし、ここで諦めれば本当に「女の腕まくり」で終わってしまう。そんな屈辱は絶対に味わいたくなかった。


漁師たちとの関係も微妙だった。「菜緒ちゃん」として親しまれていた時とは立場が違う。経営者として厳しい判断を下さなければならない時もあった。


「菜緒子さん、この不漁続きでは、出漁回数を減らすしかないかもしれません」


ベテラン船長の言葉に、菜緒子は頭を抱えた。減収は避けられないが、漁師たちの生活も考えなければならない。


## 第五章 試練の嵐


菜緒子が継承から三年目の春、これまでとは次元の違う困難が襲いかかった。まず、海洋環境の変化により漁獲高が激減した。温暖化の影響で海水温が上昇し、従来の漁場で獲れていた魚種が姿を消し始めたのだ。


「今年の水揚げ、去年の半分以下です」


ベテラン船長の報告に、菜緒子は愕然とした。これは「女の腕まくり」などという次元の問題ではない。自然環境の変化という、人間の力ではどうしようもない現実だった。


さらに追い打ちをかけるように、その年の夏、最悪の事態が起こった。台風接近の警報が発令される中、主力船「勝丸三号」が緊急出港を余儀なくされた。冷凍庫の故障により、保存していた大量の魚が傷む危険があったのだ。


「危険です、菜緒子さん。今日の出港は見合わせましょう」


船長の制止を振り切り、菜緒子自身も同乗して出港した。小柄な体で荒れる船上に立つ菜緒子の姿は、一見頼りなく見えたが、その目には恐怖を押し殺した強い決意が宿っていた。しかし、予想以上に荒れた海で船体が大きく損傷。辛うじて全員無事に帰港したものの、船の修理費は一千万円を超え、さらに魚も全て海に流してしまった。


「これで終わりか...」


菜緒子は途方に暮れた。これまでの「女の腕まくり」という偏見との闘いなど、この現実の前では些細なことに思えた。


## 第六章 支え合う姉妹


その時、美智子が実家を訪れた。


「菜緒子、大変なことになってるって聞いたけど」


「お姉ちゃん...」


菜緒子は涙ぐんだ。今まで一人で抱え込んでいた重圧が、姉の優しい言葉で一気に溢れ出した。


「私の貯金、使って」


美智子は通帳を取り出した。


「子供たちの教育費に貯めてたお金だけど、菜緒子が頑張ってるのを見てると、放っておけない」


その夜、由香里からも電話があった。


「東京にいても、実家のことは気になってるのよ。私も援助するから」


しかし、姉たちの善意だけでは解決できない規模の損失だった。三姉妹が初めて、真剣に廃業について話し合った夜だった。


「もう限界かもしれない」


菜緒子の言葉に、美智子と由香里は黙り込んだ。これは「女の腕まくり」ではない、本当にどうしようもない現実だった。


## 第七章 真の強さ


翌朝、菜緒子は一人で漁港に立っていた。損傷した「勝丸三号」を見つめながら、これまでの日々を振り返った。


その時、年配の漁師たちが集まってきた。


「菜緒子さん、俺たちで話し合った」


船長の一人が口を開いた。


「この状況は、男でも女でも関係ない。誰がやっても厳しい。でも、あんたはここまで本当によく頑張った。小さな体のどこにそんな力があるのか、俺たちにも分からんが、あんたの目を見てると、絶対に諦めない強さを感じる」


「俺たちの給料、半分でもいい。この船元を守りたい」


「新しい漁法も一緒に考えよう。海が変わったなら、俺たちも変わらなきゃ」


漁師たちの言葉に、菜緒子は驚いた。もはや「女の腕まくり」などという偏見はどこにもなかった。小柄な体格や外見ではなく、困難に立ち向かう一人の人間として、彼らは菜緒子を見ていた。


その後の数か月、菜緒子は漁師たちと共に新しい挑戦を始めた。従来の近海漁業に加え、養殖業への参入、そして海洋環境の変化に対応した新しい漁法の開発。この経験を通じて菜緒子は気づいた。どんな立場にいても、どんな困難な状況に直面しても、それを乗り越える真の力は、その人が持つ人間力と人柄なのだということを。性別も年齢も肩書きも関係ない。人としてどう生きるか、周囲とどう向き合うかが全てを決するのだと。


## 第八章 新たな航路


復活への道のりは長かったが、菜緒子の人間力が周囲を動かし始めた。困難な状況でも決して他人を責めず、常に前向きな解決策を考える姿勢、そして何より、どんな時でも相手を思いやる心。これらの人柄が、次第に多くの人の信頼を得ていった。観光漁業の導入も、当初の「女の腕まくり」への懐疑から、本格的な事業として認められるようになった。


「漁業体験ツアーなんてどうかな?」


菜緒子の提案に、最初は漁師たちも戸惑った。しかし、海難事故を乗り越えた菜緒子の人柄を見てきた彼らは、もう疑うことはしなかった。立場や性別ではなく、その人が持つ人間性こそが信頼の源だということを、彼らも理解していた。都市部からの観光客が実際に参加し、新鮮な魚介類を味わって喜ぶ姿を見ると、「これは本当に新しい可能性だ」と彼らも確信した。


美智子は地元の役場とのパイプを活かし、観光課との連携を図った。由香里は東京での人脈を使って、旅行会社への営業を手伝った。


三姉妹それぞれの特技が、家業の再生に活かされ始めた。しかし何より大きかったのは、菜緒子が示した人間としての真の強さだった。


## 終章 海と共に


十五年後、勝丸水産は地域でも注目される船元になっていた。海洋環境の変化という試練を乗り越え、新しい時代に対応した漁業モデルを確立していた。


菜緒子は四十歳になっても、その小柄な体格は変わらなかったが、船元としての風格が自然と身についていた。地元の造船所の息子と結婚し、海を愛する者同士の結婚は、周囲からも祝福された。


ある日、姉の由香里が久しぶりに東京から帰省し、港の桟橋で二人きりの時間を過ごしていた。


「ねえ、菜緒子…本当は、あの嵐の夜のあと、もう諦めるかと思ってたの。あんな目に遭って、どうしてまた海に戻れたの?」


菜緒子は空を見上げ、少し考えてから、優しく微笑んだ。


「その時ね、ふと思い出したの。好きだった歌の一節…あたしの中では、まるで誰かが語りかけてくれるようだった」


そして、菜緒子は静かに言葉を紡いだ。


"NO RAIN NO RAINBOW"

♪いつかは今の悩みさえも

懐かしく感じる日が来るよ

それまでは泣いたっていい

ここは長い人生の通過点

時に足を止めたっていい

涙洗い流すまで…♪


「ね? 泣いていいし、立ち止まっていいんだって。人生って、思ったより長いの。だから、焦らなくてもいい…って、自分に言い聞かせて、また前を向いたの」


由香里は驚いたように菜緒子の顔を見つめてから、ふっと息をついた。


「…そんな強さ、どこに隠してたのよ、妹なのに」


「強いわけじゃないのよ。ただ、やめたくなかっただけ。海を、船を、父さんの想いを。…そして、あたしたち三姉妹の、この港を」





「お父さんの『菜緒子が男だったらなぁ』って言葉、今でも覚えてる。でも、海難事故の時に分かったの」


菜緒子は父に言った。四十歳になっても変わらない小さな体だが、その目には以前にも増して強い光が宿っていた。


「本当の困難の前では、男も女も、体の大きさも関係ない。人間として、どれだけの力を出せるかなのよ。『女の腕まくり』なんて言葉、もう意味がないって分かった」


勝男は深く頷いた。


「そうだな。お前が見せてくれたのは、性別を超えた人間の強さだった。本当に誇らしい」


梅雨の終わりの夕暮れ、三姉妹は久しぶりに実家の桟橋に並んで座っていた。


「私たち、それぞれ違う道を歩んだけれど」美智子が言った。


「結局、この海につながってるのよね」由香里が続けた。


「うん、私たちの根っこは、やっぱりここにあるんだと思う。そして、本当に大切なのは男とか女とか、立場とか肩書きとかじゃなくて、人間としてどう生きるか、どんな人柄を持っているかなのよね」菜緒子が潮風に髪をなびかせながら答えた。


三人の前に広がる海は、彼女たちの過去も未来も知っているかのように、静かに波を立てていた。父が使っていた「女の腕まくり」という言葉は、もう古い時代の遺物として記憶されることになった。真の困難の前では、性別も立場も関係ない。その人が持つ人間力と人柄こそが全てを決するのだと、菜緒子は身をもって証明した。


呑気で拘らない性格だった菜緒子は、船元として多くのことを学んだ。責任の重さ、人との信頼関係の大切さ、そして何より、どうしようもない困難に直面した時でも、人間としての誠実さと思いやりの心が道を開くということを身につけた。海が教えてくれたのは、潮の満ち引きのように、人生には避けられない試練があるが、それを乗り越える力は、その人が持つ人間性の深さにあるということだった。


そして今、菜緒子は確信していた。自分が選んだ道は正しかったと。海難事故という絶望的な状況を乗り越え、漁師たちと共に新しい道を切り開いた経験が、真の自信を与えてくれた。どんな困難も、人間力と良い人柄があれば必ず乗り越えられる。姉たちの支えがあったからこそ、今の自分があるのだと。


夕日が海に沈む中、三姉妹の笑い声が港町に響いていた。もう誰も彼女たちの力を疑うことはなかった。立場や性別を超えた人間としての真の強さを、菜緒子は十分に証明していたのだから。

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