表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

B-23

DEAR PRUDENCE

作者: あQ

 私は男の子に興味がなかった、と言えば誤解を与えかねないが、男の子とは縁がなかった。女子校に通っていたせいもある。別に校則で異性間の恋愛が禁止されていた訳ではない。が、女の園である女子校ともなると出会いは限られていた。中には他学校の友達に男の子を紹介してもらったり、バイトで知り合ったりして異性と付き合っている子もいたけど、殆どの子は味気ない青春を過ごしていた。私だって街中で同年代位の男の子に声を掛けられたことぐらいある。だけど、異性への免疫が無く、恐くなってしまって折角のチャンスも逃していた。それに私は練習のきつい吹奏楽部に所属していて、ホルンを四六時中吹いていたら、あっという間に二年半が過ぎ、秋になると今度は大学受験の準備に入る時期になって、男の子のことなんか考える暇はなかった。



放課後、私は図書館で勉強をしていた。英語で分からないところがあったので職員室の先生に聞きに行こうと廊下を渡っていると、アルトサックスの音が聞こえてきた。吹奏楽部の後輩達が楽器別に分かれて教室で自主練習をしているらしく、やたら、音階を練習する音ばかり聞こえた。その中の、とある教室を通り過ぎようとした時、呼び止められた。

 「先輩、」

 薄暗い教室内を覗くとホルンを抱えた志保里が、机の上に座りながらにこにこした様子でこちらを見ていた。その横には他に後輩が二人いて、私と目が合うと疎そうに低く会釈をした。

 (私たちなんかもう邪魔な存在なんだろうな…)

 自分が後輩だった頃は大人になる事への苦痛なんて考えもしなかったのに。

 「あれ、志保里ホルンに移ったの木琴とかじゃなかった?」

 「先輩の後を継いでホルンを吹く事になったんですよー」

 志保里は一年下の後輩だった。数ある後輩の中でも、志保里とは何故か気の合う間柄だった。彼女は癇癪持ちの子供のように思ったことを何でも表現するコで(そのせいでよく人に誤解を与えたりしていたが)、いつも明るく元気で活発だった。私は控え目で落ち着いているとよく人に言わる性格だったから、プラスとマイナスで私たちは波長が合ったのかもしれない。部活練習がない日には二人で街に出かけたり、帰る方向が同じで、よく一緒に帰ったり、お互いの家に泊まりに行った事もあるくらい仲が良かった。

 「先輩達が抜けたから、部活に覇気がなくなっちゃってー」

 「何いってんの、新人戦これからでしょ」

 「私はどうでもいいんですけどね」

 志保里はそう言うと、慌てて隣にいた二人の生徒の方を見た。二人は聞こえないのか、志保里に呆れているのか、黙々とメトロノームに合わせて音階を吹いた。

 「先輩もうすぐ誕生日ですよね?」

 志保里は話題を変えた。

 「よく覚えてたわね」

 「前に先輩から誕生日プレゼント貰ったから、ちゃんとお返ししようと思って。何か欲しい物ありますか?」

 「うーん…特には思いつかないな」

 「じゃあ手編みのマフラーでも作りましょうか?」

 「そういうのって普通男の子にあげるもんでしょ。それに手作り品て、以外と使い勝手悪いしねー」

 「そうですかねー」

 志保里は妙に考え込んだ顔をした。私はプレゼントなんてなんだっていいのに。

 私がその場を去った後、拙いホルンで「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」が鳴った。後ろ側の扉から再度教室内を覗くと、また悪どい笑顔に戻った志保里が、してやったりの顔付きで私を見ていた。

 

図書館も閉館になり学校に締め出されると、十月の強い北風を受け止めながら、私は家に向かって必死に自転車を漕いだ。私はもうすぐ十八歳になる。私は北風に押し戻されたかった。できる事ならば先へは進みたくない。目にみえて大人に近づいていく事が恐いのだ。大人になんかなりたくないのだ。いつまでも、このままでいたい。歳をとること、自立をすること、社会的責任を背負うこと。十八歳とは、あくまでも私が独断で見た大人への境と言ってよい。二十歳も十九歳も、殆ど大人と変わらないのだ。大学に行けば、会社へ行けば、それはそれで楽しいんだと思う。でも私は、この制服が好きだ。この無垢を象徴するような制服の、恥ずかしさが好きだ。しかし、私は北風を掻き分け、前に進まない訳には行かなかった。

 私はいろんなことが面倒臭くなってガムシャラに自転車を走らせた。



それから何日か経った。私は相も変わらず、放課後は図書館で勉強をしていた。

 外はすっかり暗くなり、下校の放送が流れると、図書館も閉館になった。私は英語の参考書をキリのいいところで読み終えると、その後誰もいない教室に戻り、筆箱や辞書を机の中に入れ、家でする勉強道具をバックに詰めた。そして静まり返り、上履きの音が響く廊下を歩き、玄関まで急いだ。受験の辛さが孤独と寒さと共に身に滲みるようだった。

 駐輪場で志保里に会った。彼女は他の子と一緒にいたが、私を見つけると、自転車で駆け寄ってきた。

 「こんな遅くまで何やってたんですか?」

 私は顔を渋くさせ、受験勉強、と一言。

 「久しぶりに一緒に帰りませんか?」

 私は特に断る理由もなかったので、賛同した。志保里と一緒にいた子が気になった。

 「あの子達はいいの?」

 「帰る方向が違うからいいんです。いつも駐輪場までの付き合いなんですよ」

 

 帰り道は、二人で下らないことを熱心に話し合しあった。最近見たテレビ番組のことやタレントのこと、学校の先生のこと。そして私が彼女に勧めて貸してあげたビートルズのこと。

 「あの曲いいですよね。ふふふーん、って曲」

 「『NOWHERE MAN』?」

 「題名、多分それじゃなかったような。ふふふーんですよ。コーラスが綺麗な」

 「ビートルズって殆どコーラス入ってるけど。確か私が貸したのは、『ラバー・ソウル』と『ホワイトアルバム』だから、どっちかに入ってるヤツだよね?」

 「そんなに詳しくないから、専門の言葉使われても分かりませんよ」

 結局、私たちはそれが何かを確かめるべく、全くどうでもいいことなのだが、気晴らしついでに、久しぶりに志保里の家に寄ることとなった。志保里の家族とも何度も顔を会わせていたから、窮屈さはなかったし、志保里のお母さんとも仲が良かった。

 志保里の部屋に入ってMDコンポのスイッチを入れた。流れてきたのは「ドライブ・マイ・カー」で、志保里は、貸りたアルバム二枚はこの一枚のMDの中にまとめて入れてあるから、と言って、順番に曲を吟味しながら、探しだした。曲の順番もよく分からないのならば、それ程聞き込んでいる訳でもないみたいだった。ビートルズ好きの私の為に、無理に会話のテーマを合わせてくれたのだろうか。三曲目で、志保里の手が止まった。

 「あ、これですよ。らららー」

 「なんだ、『YOU WON`T SEE ME』じゃんか」

 「だから、専門の言葉言われても、ビートルズ詳しくないから分かりませんって」

 さっき口ずさんでいた、ふふふーん、とは随分違う気もしたが、志保里は快眠後のような満足そうな顔で、首を動かしてテンポをとった。

 「この曲は、ポールの曲で、ポールが恋人と別れた時に作った歌なんだよ」

 「ポールって誰でしたっけ?私ジョン・レノンしか分からないんですけど」

 「えぇー」

 床に腰掛けながら二人でお喋りをしていると、志保里のお母さんがやって来た。夕ご飯を作るから、一緒に食べようと誘ってくれたのだ。断ろうとも思ったが、お母さんは、これからは受験も忙しくなってうちに来る機会も少なくなるかもしれないし、遠くの大学へ行ったらなかなか会えなくなるから寂しくなる、と強く誘ってくれたので有り難く受け入れた。志保里も食事の手伝いに行ってしまうと、私は一人で流れ続けているビートルズを聴いた。この部屋に来ることも、もう当分ないんだろうなー。あるいはもう二度とないのかも知れない、と思うと無性にセンチな気持ちが胸から滲み出てきた。私はこれで見納めかもと、志保里の部屋をじっくりと見回した。机の上のディズニーのカレンダー、棚に締まってある少女漫画、服が掛けられている円形の物干し台。日常の飾らない風景が懐かしくも、新鮮にも見えた。

 曲がリンゴの気の抜けたボーカル曲、「消えた恋」に差し掛かったところで、急に現実に引き戻された。同じくして、私の思考は、ふとベット下に目を集中させられた。青い布のような何かが陰に隠れて見えたのだ。何となく気になって近づいてみた。手を伸ばしてそれを取ると、それは編みかけの毛糸だった。ベット下に捨てるように置いてあったから、綿ホコリがいくつも付いていた。志保里が誰かにあげる為に編んでいて、途中で投げ出してしまったのだろうか。ただ、その相手が私であるならば、いい気持ちはしない。もらうことがではない。彼女に何気なく悪い一言を言ったのを、私は憶えていたのである。

 私はプラスチックの編み棒と束の毛糸を握った。じっくりと時間を掛けて編んだのか、カーペットのように波打った絹の表面は規則正しく起毛し、綺麗だった。まだ未完成ではあるが、長さや形からいってマフラーだろう。

 「勝手に見ないでください」

 怒ったような志保里の声に驚かされて振り返った。いつの間にいたのだろう。志保里は切迫した顔で、急いで私から布を奪い取った。私はこの気まずい空気を乗り切ろうと、虚勢を張った。

 「奇麗に出来てるね。誰にあげるの?」

 志保里は何も言わずに床に項垂れるようにしゃがみ、体育座りの姿勢になると、顔を膝の中に入れ伏せた。この一連の志保里の流れからいって、私の予感は当たっていたことを示唆していた。

 「勝手に見てゴメン」

志保里は何も返さなかった。自分の醜態を見られてしまったことが、惨めで、口惜しくて泣いているのだろうか。私は志保里のすぐ隣に寄って、優しく肩に手を置いた。

 「前に無神経なこと言っちゃってゴメンね。私は何でも良かったんだよ。志保里がくれるものなら。こんな奇麗なマフラーだったら、格好いいし、重宝だし。志保里器用なんだね」

 顔を志保里に近づけると、微かに泣き震えているのがわかった。私は両手で志保里の二の腕を深く包むと、志保里は上半身を私の胸に傾け、その中に顔を埋めた。とても熱いものを感じ、心臓が震えた。感情を素直に表す志保里がとてもいじらしく見え、私はそのまま両手を志保里の背中にまわして、身体を強く抱いた。彼女も私の胸に、握った手を強く重ねた。

 「本当に素敵だよ。早く完成させて、私にプレゼントしてよ」

 志保里はようやく落ち着いて、ヒステリーな感情が抜けたらしく、私の中で何度か頷いた。志保里の匂いは、不思議な感触だった。始めは、してはいけないという暗黙の同性への抵抗があったけれど、それさえ吹っ切れれば気持ちよかった。ビートルズの曲と同じだ。彼らは、媚を売るような似たような曲はあまり作ろうとしなかったから、初めて聴く曲は彼ららしさがなくて、親しみづらい。だけど、慣れてさえしまえば、飽きにくい、心地よいメロディーに変わってしまうのだ。  

 私は長いこと、誰かを好きになった時の緊張する気持ちを忘れていたけれど、きっとこれがそれだったんだろうな、と自分を諭しながら志保里を感じた。目を閉じてしまうと、MDコンポの音がよく聞こえた。光線のようにエレキギターのアルペジオが私達を包む、「Dear プルーデンス」。志保里と私を慰めてくれるような曲だった。  

 曲が「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」になったところで、志保里が私の肌からゆっくり離れた。少し恥ずかしそうだったけれど、顔は清々しく、目は赤く垂れていたけれど、もう泣いてはいなかった。

 「誕生日プレゼント、何がいいですか?」

 「何よ急に?」

 志保里は微笑み、私もつられて微笑んだ。

 「編み物はもうばれちゃったから、他にも何かあげないと」

 「その奇麗なマフラーだけで十分。気を遣わないでよ」

 「でもプレゼントは貰ったときに、何だろうって期待させる数秒間が大切なんですよ」

 私はなるほど、それもそうだな、と思った。

 「じゃあ、素敵なものあげますから。いつまでも思い出になるようなものを」


 夕食は志保里も私も大好きな、ハンバーグだった。大学受験のこと、五日後私が誕生日を迎えること、志保里がさっき泣いていたことなんて、考える暇がないくらい深くておいしい味だった。



 イスに腰掛け、机に向かい、夜遅くまで勉強をしていた。グラマーの例文を読んでいて、難しい英単語に出くわしたところで集中力が解けた。眼前のピンク色の目覚まし時計を見る。タイミングよくきっかり十二時前。時計の細い針が頂点を通過したら明日になる。明日になったら十八歳。もう子供に戻れないような気がして、私は恐くなって時計の電池を抜いた。当然時計は止まったが、私はこの行為がばかばかしくなって電池を戻した。これがないと朝は起きられないんだから。明日、図書館で志保里と放課後待ち合わせの予定がある。彼女は私に何をくれるのだろう。マフラーは完成したのだろうか。私のMDコンポからは志保里が貸してくれたビージーズの曲が流れている。ボーカルもコーラスも消えてしまうような透明感があった。だけど私はこの曲の題名を知らない。



学校に行くと、大概はクラスに一番か二番乗りで入る。自分が真面目な人間だなんて考えたことはないが、それが普通だと信じて今まで生きてきたから、朝はつらくはなかった。部活があった時は朝練習に一番乗りでホルンを吹いたし、今は机に座って勉強している。

教室は家よりも緊張感があるし、漫画本やテレビの誘惑の心配もない。寒いのを除けば勉強に適している環境だった。私はMDプレーヤーのスイッチを入れ、曲順をランダムモードに切り替え、イヤホンを耳につけた。

 集中していたためか、朝の短い時間があっという間に過ぎ、イヤホンを外した頃には、クラス内は群衆と、ひどい喧噪だった。誰に見せる為なのか化粧をしたり、鏡を見たりする生徒もいたし、机に座って大きな声で誰かの悪口を言ってはゲラゲラ笑っている生徒もいた。私のように勉強している生徒もいたし、机に前のめりに寝ている生徒もいた。

 チャイムが鳴ってからいつもより7,8分遅れて担任の先生が来た。礼をし終わった後、先生は小声でお喋りをしていた後ろの席のコに、きつめに注意を促し、黙らせた。そしていつになく深刻そうな顔つきで話し始めた。

 「実は、昨日の帰りに、うちの学校の二年生の生徒が変質者に襲われたらしくて。それで少し怪我をしたみたいなんで、今日は病院に行ってるらしいんだけど。段々と、外は暗くなってきてるし、みんなは女の子なんだからくれぐれも気を付けて帰って欲しい。なるべくは友達と帰ったり、少しでも変なことされそうになったら、恥ずかしがったりしないで声を上げて助けを呼んだりして欲しい」

 先生は話しづらそうに会話の途中途中を和らげて話した。沈黙して聞いていた生徒達の表情は強張っていた。



放課後になり、図書館で志保里を待ちつつ勉強をしていた。しかし落ち着かなくて何度も勉強する教科を変えた。志保里と待ち合わせをしていると思うと妙に胸が緊張して、照れてしまうのだ。この前のことがあったから余計に恥ずかしく感じているんだろう。

 十八歳。私は志保里に誕生日おめでとう、と告げられて大人になるよ。志保里よりも先に大人になるから。あんなに嫌悪を感じていた十八歳も、志保里に祝ってもらえるのなら、救われる気がした。

 放課後待ち合わせと言っても志保里は具体的な時間を指定しなかったから、彼女はなかなか現れなかった。忘れているのだろうか。携帯に電話かメールでもしようと思ったが、部活中だったら連絡できない。それとも、もしかしたら志保里は部活が終わった後に来るのだろうか、と思案していると、担任の先生が図書室に入ってきた。入り口のところで図書館内をくるくる見回して私と目が合うと私の席まで歩いて来た。私はその先生の表情から、私が何かしでかしたか、有らぬ嫌疑でも掛けられているのかと感じ取った。先生は私の隣の空いているイスに腰掛けた。

 「勉強ごくろうさま」

 私は、はあ、と一言。普段担任の先生と世間話をする位仲が良い訳ではなかったから、私の様子を探るように話しかける先生に少々狼狽した。

 「今さ、成田先生と話をしたんだけど、」

 成田先生は、吹奏楽部顧問の先生だ。

 「吹奏楽部の加藤志保里さんと仲良かったんだって?」

 私は、はあ、仲良いですけど、と一言。先生は嘘みたいに優しい顔で話を続けた。

 「それでさ、加藤さんなんだけど。今朝も話したけど、昨日の帰りに変質者に襲われちゃったコの話をしただろ。実は彼女なんだよ」

 「えっ──」

 私は体中に急激に吹き出物ができるような悪寒を感じた。それでも先生の顔は優しかった。

「成田先生が家の方に電話したらお母さんが出て、そのまま入院することになったらしくて、寝具とか用意してたみたいだけど。今加藤さん心細いだろうから、勉強で忙しいかもしれないけど、良かったら会いに行ってあげてくれないか。成田先生も是非行ってあげてほしいって言ってたし。加藤さんの担任の先生はもう様子を見に行ったらしいんだけど、成田先生も部活を早めに切り上げて行ってくれるそうだ。おれも行ってもいいんだけど、親しみの間柄のない先生があまり大勢押し掛けるのも悪いと思ってな」

 私は開いた唇の震えを隠すのに必死で、先生の話の後半部は殆ど記憶できなかった。

 先生が図書室を出てから、私はどうしようかと、本当にうろたえながら考えた。病院にそのまま行くべきだろうか、それともきちんと連絡をするべきだろうか。結局、私は彼女に携帯でメールを送っておいた方が無難だと考え、震える手で文章を打った。志保里を刺激したら悪いと思って何度も推敲をした。

 メールは返ってくるのだろうかと不安だったが、意外と早く返信されてきた。内容は志保里らしい絵文字の多い文で、体は別にケガはないよー、とか検査があるから入院するんだー、とか暇だから来てもいいよー、とか学校休めるからラッキー、とか私を安堵させる楽しそうな文面だった。心配したよりも大したことがなさそうで、単に私の取り越し苦労みたいだった。

 指定された病院は学校からは少し遠く、自分の家までの帰路とも大分離れていたが、何度か買い物で来たことのある場所だった。私は自転車を漕ぎながら、志保里が検査で入院をするということは、やはりただごとではないような気がしてきて、病院に行くのが恐くなってきた。志保里に会ったら何て声を掛ければいいのだろうか、上手く接することが出来るだろうか、そんなことも恐さの材料の一部だった。それでも、一度行くと決めたからには行かない訳にはいかないのだ、こういう時は何も考えずにいくんだ、と自分を奮い立たせた。日が沈みかける時に家に帰ることは少なかったから、夕焼けがやけに眩しく感じた。

 

 病院につくと、正面の受付を通り越し、そのまま階段を上がった。病院内の特有の湿り気のあるエタノールの臭いが私の心拍数を余計高めた。志保里の病室は三階の個室で、部屋の番号も聞いている。私は志保里に会う前に、変にぎこちない演技をして彼女に辛い思いをさせないように、廊下のガラスに映った自分を見て、普段通りの表情を作ろうとした。しかし志保里に見せている普段通りの表情なんて分からないから、結局は不自然に痙攣する薄笑いを保つことになってしまい、顔を作るのはやめた。

 私は志保里がいるとおぼしき個室の病室前の壁に貼られたプレートと、彼女の指定した部屋番号をしつこく頭の中で確かめた。ドアは半分ほど開いていて、その中からは明かりが洩れていた。私はそろそろと廊下から顔だけ出して病室内を覗くと、ベットに横になり、側に座っている志保里のお母さんと話をしている志保里の姿が見えた。暫く様子を見ようかとその場に立っていたが、志保里の視線がすぐに私の網膜に合致した。志保里は私の顔を見て、最初は楽しそうな表情を見せた。つられて私も楽しそうな顔を真似ようとした。しかし、一瞬だ。黒いカゲが一瞬、二人の間に風のように通り、現実を塗ったのだ。すると突然志保里は笑うように泣きだしたのだ。泣き声は悲鳴のように愕くほど大きくなり、彼女は体を反転させてまるまった。側のお母さんが志保里の背中を手で撫でながらゆっくり私の方を見た。

 「ごめんねぇ…」

 お母さんは恐縮そうに私に言った。私はどうしていいのか分からなくてその場に立ち尽くしていたが、お母さんが続けて、

 「志保里が落ち着いたらこっちからまた連絡するから」

 と言った。私は軽く会釈をして静かに扉を閉め、志保里に会った事実をなかったことにしようと、廊下を駆け足で逃げた。顔はずっと下を向いたままだった。

 

帰り道に、私はやるせない怒りが腹の底に溜まり苦しくなった。志保里を襲った男は私が最も望んでいた彼女のプレゼントを奪ったのだ。それは物じゃなくて志保里の潔白さだった。志保里があの時よりも強く泣いていたこと。志保里が見知らぬ男に襲われたこと。志保里がひどく怯えていたこと。私へのプレゼントは分からないこと。そしてそうだ、忘れていた、今日は私が十八歳の誕生日を迎えるということ。いろんなことが、それは一つの事件だったはずなのに、木の枝のように無数に広がりをみせ、私を混乱させた。実感のない現実だからだろうか、泣こうと思っても涙が出そうで出ず、気を紛らわそうと私はカバンからMDプレーヤーを出し、イヤホンを耳に入れた。流れてきたのは、あの時私と志保里を慰めてくれた「Dear プルーデンス」ではなかった。「CRY BABY CRY」。ジョンの嗄れた声が崩れるピアノの音と共に、ためらうように頭の中で鳴りだしたのだ。

 私は、曲が終わった後に流れるポールの裏声は、一体何を意味しているのだろう、と考えた。

  (完)


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ