田中君の視線
昨日、この物語を夢で見ました。
なのでオチさえ存在しませんし私も理解出来ません。
田中君が死んだ。
正確には僕の目の前で飛び降りた。
その日はなんて事のない、何時もの学校の日常だった。
切っ掛けは些細な事で、田中君が何か悪い事をしてしまったのを覚えている。誰かを虐めたとか盗んだとかじゃなくて、掃除当番を忘れたとかそんな誰でもありえる単なるミスだったと思う。
でも当時の僕たちはまだ子供で。ワルモノがいたから悪口を言ってやろう、なんて単純な思考だったんだろう。
いーけないんだーいーけないんだー。
ダメダメだなータナカー。
先の事を何も考えていない無邪気な悪意。
おそらく僕たちは本気で田中君を悪者にしたかったわけじゃなかった。明日になれば普通に忘れて、また一緒に遊ぶ仲に戻るだろうと思っていた。
あぁ、これがニュースでよく見る“からかっているだけだった”ってやつなんだろうね。
あの時の僕はどうして何も感じなかったのだろうか。
子供だから、なんて言い訳になるのかな。
笑いながら悪口を言われている田中君は俯いたままジッとしていたけど、突然顔を上げて、そしてニコッと笑って言った。
「悪い事は、イケない事なんだね」
彼の行動は突然だった。
教室の窓を開けると、そこから何の躊躇も無く飛び降りた。
数秒後、耳に届く嫌な激突音。
僕たちは何が起こったのか理解出来なかった。
そこから何をしたのかはよく覚えていない。多分クラス全員の親が迎えに来て学級閉鎖になったと思う。
だけど、本当に気味が悪かったのは当時の僕たちで。
後日、田中君が死んだ事を僕たちは本気で悲しんでいたんだ。殺したのは僕たちといっても過言でも無いのに。
死んだ人間にはもう会えない……そんな事すら頭になかったんだ。自分たちが原因だっていうのにね。
“いつも通りのやり取り”をしたら突然飛び降りて死んじゃった程度の認知。
あぁ、今にして思う。僕はクズなんだろう。罪の意識すらない最悪の人間……それが僕だ。
この出来事が原因かそれともただの反抗期だったのか、あれから僕は荒れた。
中学では授業サボりは当たり前、タバコは吸うし万引きもした。勿論罪の意識なんて皆無だった。あの時は“俺格好いい!”とかしか考えていなかった。
親とも不仲になって、でもよくわからないプライドで反抗して。どうしようも無いクズだった。
そして、そんな荒れた日々を過ごしていたある日の事だった。
僕の視界に田中君が見えるようになったのは。
飛び降りる瞬間に見せた不気味な笑みを浮かべ、穴が空いているような真っ黒な目でジッと僕を見ている。なぜか視界の隅にしか現れなくて、けれどそちらに視線を向けると元々誰も居なかったように田中君の姿は消えている。
怖かったよ。でもあの時の自分はビビるなんて格好悪いとか思って誰にも相談しなかった。幸い現れるのは数日に一度とかだったから、怖くても何とか我慢していた。
そして、気づいた。
田中君の姿が見えるのは、僕が悪い事をしている瞬間だってことを。
授業をサボって屋上にいるとき、柵の外側から僕を見つめる田中君。
部屋でタバコを吸っている時、天井から逆さまで僕を見つめる田中君。
真っ黒く、何処を向いているのかわからない目。けれど明らかに僕を見ているであろう視線。
もう、限界だった。
学校に行く気にもなれなくて、布団を被って震えているとまた視界の隅に田中君の姿が見える。同時に僕は謝った。
謝るよ。
ごめん。
本当にごめん。
あの時の俺は考えもしていなかった。
悪かった。
許してくれ、なんて言葉は口に出せなかった。心の底で己はクズだと認めていたから、許される事はないと思っていたから。
そして、その日を境に僕は悪い事を止めた。
学校は休まずに行くようにした。髪も黒に戻し、タバコも止めた。
心を改めてなんかいない。そんな簡単に心を入れ替えれるほど僕は人間が出来ていない。言わば恐怖で強制的に行動しているに過ぎない。
ただただ、田中君の視線が怖かったから。あれをもう経験したくなかったから。
でも、周りからすれば僕は真面目になったと思われていて。
親は喜んでくれたけどそんなのどうでもよかった。気を紛らわすために勉強も頑張り、無事それなりの高校に行けたけど僕の本質は変わらなかった。
怖い。恐い。
授業中にゲームしようぜと誘われても僕は断った。
どんなつまらない授業でも真面目に受けた。
帰りに友人と遊ぶ事はあれど、決して夜遅く前には家に帰った。
あれから数年経って、もう田中君は現れないんじゃないかと思ったことがある。
それでも僕は悪い事を試す気にはなれなかった。またあの視線を感じるくらいなら、今の生活を続けた方がよっぽど気が楽だったから。
僕は高校を卒業して大学に入った。就職して結婚し、子供も生まれた。
妻も子もとても素直で、こんなクズ人間と一緒になってしまって本当に申し訳なく思う。
クズと家族になってしまった償いとして僕は必死に働き、それでいて家族との時間を大切にした。
ごめん。
こんなクズの男と結婚してくれて本当に申し訳なく思う。
こんなクズの子として産んでしまってごめん。
これは田中君への懺悔で、僕への罰だ。
僕の行動理念は子供のころから一切変わっていない。
家族と幸せになろう、なんて考えていない。僕はただ、悪い事をして現れる田中君の視線が怖くて行動しているに過ぎないんだ。
妻に暴力を振るうことは悪い事。
ネグレクトするのは悪い事。
だから悪い事をしていないに過ぎないんだ。周りから理想の家族に見られようと、僕は本心で幸せになっていけないクズなんだよ。
今日は息子の入学式。
偶然か、子供が入る小学校は僕の母校だった。
妻と息子が手を繋いで校門を歩いているのを後ろで見ながら、僕は懐かしさと申し訳なさを感じながら田中君が飛び降りた教室を見る。
そこには田中君が居た。
視界の隅にじゃなく、初めて僕の視線は田中君の姿を捉えていた。
その懐かしい姿は十数年ぶりで。昔とまったく変わってなくて。
不思議な事に、今の僕は田中君を見ても恐怖を感じなかった。逆に一種の諦め、安心感さえあった。
あぁ、やっとこの恐怖から解放されるのだろうか。そんな事さえ考えてきた。罪を償う時が来たのかもしれない。僕にはお似合いの結末だろう。
あぁ、そういえば。
久しぶりに見る田中君はいつものような真っ黒い目じゃなくて普通の目だなぁ。
相変わらず笑みを浮かべているけど、生前と同じ姿を見るのはこれが初かもしれない。
パパ、と呼ぶ声がした。
視線を戻すと心配そうに僕を見つめる妻子の姿があった。
少し感情に浸っていただけだと言い、再度同じ場所を見たけどそこにはもう誰の姿も無かった。
……田中君。久しぶり。
僕は昔と変わらずクズのままだよ。
君の視線が怖いから、悪い事はあれからまったくしていない。
君は僕に何を望んでいるんだろうね。
恨みがあるならさっさと殺してほしい。
何かを償えというなら喜んでそうするよ。
だから教えてほしい。
君は、僕にどうしてほしかったんだ?
結局田中君は何がしたかったんだろう。