【9】
翌日、彼は予定よりも遅くに邸に戻った。
太陽は天辺まで到達した後で、徐々に下へ下へと降りてきている。仕事が随分と長引いたようだ。
書斎での時間を延期しようかとローシェが問えば、彼は首を横に振った。律儀な人だと思った。彼にとって、ローシェの存在は渋々受け入れてるに過ぎないのに。
「ユーグ様は結婚をどのように考えていらっしゃいますか? 爵位を継いだ際、世継ぎ問題に迫られますよね」
昨夜、彼と話すべきことを考えて、そもそも結婚を考えているのかと思ってしまった。
彼はデオロット伯爵家の爵位第一継承者だ。現当主である彼の父は40代後半と若く、病も患っていないと夫人から聞いた。爵位の継承は先だとしても、彼の立ち場を考えると考えていて当然。血を受け継いでいくことは貴族として生まれた子の責務で義務なのだが、果たす気があるのならここまで女性を拒まないはず。
描く将来像が夫人とは真逆なのだとしたら、夫人や伯爵を交えた話し合いが必要になる。
「必要に応じて、適当な相手と結婚しますよ。子を成すのは義務ですから、その為には結婚しなければなりません」
そこまで考えていたローシェはあっさりと返ってきた彼の言葉を意外に思ってしまう。
「お相手はどのように選ぼうと?」
彼の差す「適当な相手」を明確にするべく一歩踏み込む。
「利益の大きい相手ですね。契約結婚なんて何処もそうでしょう」
「ですが、伯爵夫妻が話を進めていらしたお見合いはお断りしたのですよね」
「仕方がありません。子を成すための結婚で、子を成せないと分かっているのですから」
彼は淡々と躊躇うことなく述べた。
彼がローシェを迎えにきてくれた初日に、雨音の響く馬車の中でもローシェは見合いの話を尋ねた。期待を持たせないために本心を述べただけ、と答えた彼に疑問に思ったものだ。
「そこが不思議ですわ。どうして断言できるのです?」
「これまでの見合い相手では、私は心が動きません。率直に申し上げると――」
淡々と、彼は続ける。期待を持たせないための本心は、敢えて言葉を選ばない。
彼の言わんとすることを察知したローシェは慌てて両手を振って止めた。
「いえ! 結構です。仰りたいことは伝わりましたので!」
恋愛経験は皆無でも、無知ではない。
子を成すために必要な行為の経験はなくとも、話には聞いている。同僚からの個人的な薦めで、そういった指南書にも目を通した。分かっていたことだが、思っていた以上に彼は性欲が強くはないらしい。
性に奔放で手あたり次第女性に手を出す人よりは何百倍もましだとローシェは思うが、流石に明確な言葉は控えてほしい。
冷え始めた紅茶を飲み干して気を取り直したローシェは再び問う。
「ですが、初対面で判断できるものでしょうか。相手の方を知れば、存外気が合うかもしれないでしょう?」
「私に向ける顔を見れば、一目で充分です」
単純な容姿の好みではなく、表情にのる感情の熱量が苦手なのだろうか。
(このままでは押し問答になるわね。切り口を変えようかな?)
ローシェは彼の一部の女性への苦手意識を克服せずとも良いのだ。彼が関わったことのないタイプの女性に関心を向けれるよう誘導すればいい。
「ユーグ様はどのような方なら興味を持てますか? 結婚相手の理想がありましたら、教えていただきたいですわ」
夫人からの依頼内容に含まれたものをローシェは投げかける。
「私に興味を持たない女性ですね。互いに関心を持たずに過ごせると良いでしょう」
ローシェは瞬いた。浮かべていた微笑が、つい固まってしまう。
「……興味をもっていただかなければ、互いを知れませんわ」
そもそも、それこそ白い結婚になりそうなものだが。
彼は自分に感心を寄せてくれない相手と子を成す行為ができるのだろうか。
(どちらの立場でも想像だけで辛いわ)
彼は愛を囁いたりしないだろう。黙々と、淡々と義務を済ませようとするはずだ。
万が一最後まで行為をいたせたとしても互いにとって苦痛な記憶で終わりそうで、それを子を成すまで続けるなんて、ローシェには耐えられない。全くもって経験はないのだが。
感情のない冷え切った行為は痛みを伴うと聞いたことがあるのだ。相手への好意があっても気分がのらない日は辛いとも、既婚の同僚が話していた。
「知る必要が?」
「あります。当然です。いくら契約結婚といえど、奥方を理解して尊重する御心は必要ですよ」
ローシェは思わず添えた手の指先でこめかみをおさえた。
「ユーグ様、貴婦人の社交を甘くみてはいけません。伯爵家当主となられる貴方の役に立つ話を仕入れてくれるでしょう。その為には奥方の信頼を得なければなりませんし、得手不得手を知る必要があると思いませんか」
「確かに諜報活動を進んでこなしてくれる方なら便利ですが、それだけです。かえって余計なことをされかねないですし」
「ユーグ様のお見合い相手の候補は、こちらでリストアップするよう夫人に依頼されていますので、期待しかなさらないでいただきたいですわ。皆、優秀な教え子ですから」
「そうですか」
「ええ」
彼は納得していない。理解して納得した上での返事ではなく、ローシェの主張への意味のない相槌だ。
昨日は希望が見えたと思えたのに、まだまだ先は遠く、道は険しい。
「おひとつ、課題を出しますね。簡単なことです」
紅茶の入っていたカップも、一口サイズの菓子が盛り付けられた皿も空になっている。
今日はここまで、とローシェは締めくくる。
「明日のこの時間に、私に何かひとつ質問をしてください。何でも構いませんよ。私への疑問でも、女学院の話でも良いですし、国が進めている政策に対して元貴族で今は平民の私がどう思っているのか、でも会話ができそうですね」
「――わかりました」
言うなり、彼は室内扉から自室に戻る。
広げたティーセットをトレーに片づけたローシェも、書斎を後にした。




