【8】
透けて向こう側がくっきりと見えてしまう薄紙一枚分。
彼が自らの意思で隔てた壁が薄くなっても大きな変化はないけれど、これまでとは明らかに異なる点がひとつだけある。
時折、彼が目線を合わせてくれるようになったのだ。
ローシェが話しかければ、彼は必ず真っすぐに見てくれる。言い換えよう。話しかけなければ、彼はローシェが存在しないかのように目もくれなかった。
そんな彼が、時折ローシェを見る。理由はないのだろう。
人として存在を認識されたかのような変化だった。
(話しかけてくれたら嬉しいんだけどなぁ)
夜を照らす外灯の下、剣を振るう彼の肌は薄っすらと汗が滲んでいる。
単純な動作を何度も繰り返し、黙々と反復していた。剣術の知識がなくても、基礎の動作をしていると分かる動き。
基礎を覚えたら、新しい動きばかりしたくなる。剣術に限らず、応用をしたくて基礎を蔑ろにする者が多いのに、彼は基礎を重点的に繰り返す。昨日もそうだった。
テラスの席に座るローシェは温くなってきたミルクをちびちび飲む。蜂蜜入りの濃厚なミルクは甘くてまろやかだ。
中庭には色とりどりの百合の花が咲いていた。一面に咲く白い百合の合間合間で、ピンクや赤、黄色やオレンジの百合がアクセントになっていた。
青みがかった外灯が夜の庭園をひっそりと照らしている。
彼の艶やかな黒髪も、深い藍色に見えた。
本を読める明るさはないので、羽織ったストールに包まりながら目の前の光景を眺めていた。
思い返せば、こうして花の咲き誇る庭で何も考えずにのんびりと過ごす機会は8年ぶりだ。
没落して平民になり、女学院の教師になってから、こうした時間を取れなかった。
女学院には立派な庭園があるので、仕事の合間に花を観賞できる時間はある。けれど、女学院ではいつだって教師として立っていたので『のんびり』とは感覚が異なる。
(今だって私は仕事中なのだけれど……)
対面で話す時間を定めた書斎での一時とは異なる。
学院での生活に例えるなら、授業と休憩時間の差だろうか。互いに大人で、たった3年しか変わらない年齢差も要因かもしれない。
星の瞬く夜空を見上げて、瞼を閉じる。
清涼な初夏の夜風は肌寒いけれど、それが心地良い。
風を切り裂く素振りの音が消えて、コツコツとレンガの小道を歩く足音が近づいてくる。
ローシェは瞼を開けて、立ち上がった。
「私は部屋に戻ります」
淡々とした彼が告げる。
「お疲れ様です。私はもう少しだけ夜風に当たってから戻りますね」
「そうですか」
彼の視線がローシェの肩に回る薄手のストールに落ちて、テーブルに置かれたカップに移る。
白い湯気が昇らないミルクはまたカップの半分を満たしていた。
「体を冷やさぬよう、気を付けて」
言うなり、彼は反転して背中を見せる。迷いなく歩き去る彼の後姿にローシェは声を上げた。
「お気遣いをありがとうございます、ユーグ様」
彼はこの後、汗を洗い流して身なりを整えてから王城に向かう。
伯爵邸を去る彼の見送りと出迎えはしないことにしていた。家庭教師の領分ではないと思ったからだ。
(明日は書斎で何の話をしようかな)
彼のいなくなった風景を眺めたローシェは瞼を閉じた。彼のいた景色を脳裏に思い浮かべて。