【7】
すっかり雨雲が消え去って、明るい初夏の日差しが降り注いだ翌日。
ローシェにとっての朝食で、彼にとっては夕食にあたる食事を終えると、書斎のソファに腰を下ろす。
何も置かれていなかったテーブルにはティーセットが並んでいる。
使用人に頼んで食後の紅茶を用意してもらうことにしたのだ。
紅茶は自分で淹れるので二人分のティーセットとお湯をお願いしたのだが、一口サイズの菓子まで用意してくれていた。食堂で一式が揃えられたトレーを受け取って、遅れて彼の書斎へと到着したローシェは、足を組んで座る彼を前にして紅茶を淹れ始める。
様になっているな、という感想は常にある。
足を組んだ姿勢。背もたれに身体を預ける姿勢。手すりに置いた手の指先は、とん、とん、とゆったりとした間を刻んでいる。伏せられた視線によって協調される長い睫毛も美しい。
茶葉を蒸らしている数分の間、彼を見る。美丈夫の日常を切り取った絵画を少し離れた距離から鑑賞している感覚に陥った。
さきほど済ませた食事は沈黙のなかで終わった。
「お仕事お疲れ様です」だとか「すっかり晴れましたね」だとか、些細な話を振っても一人で空回りするだけだった。
昨日よりも会話が続かないのは気のせいではなさそうだ。
(気に障ること……何かしてしまったかしら)
頃合いを見計らってカップに紅茶を注いでいく。こぽこぽと軽やかな水の音色が静かに響いて、ふわりと爽やかな柑橘の香りが漂う。
不安になる心を落ち着かせてくれる香り。濁りなく透きとおる色と香りに目元を綻ばせたローシェは「どうぞ」と彼の前にカップを滑らせる。
意識が余所へ向けられていた彼の瞳がカップに落ちて、それから手が伸びた。
こくり、とカップを口につけた彼の喉仏が下がって、ローシェも味わいながら飲み下す。
カップをソーサーに戻したローシェはにこり、と微笑んだ。
「ユーグ様は女性を苦手とされていますが、私のことも同様に思われていますか」
ローシェの問いかけに彼は取り繕った返事をしない。
相手に良く思われたいといった誰もが抱く気持ちがないからだ。それどころか、ろくでなしと見做してほしいと思っている節すらある。ローシェが女だから、彼はそうしているのだ。
「何故、貴女は他とは違うと思っていらっしゃるのです」
「私は教師として招かれています。お見合い相手ではございませんし、男女の仲にはなりえません。ユーグ様がご心配なさる問題は起こりませんよ」
「貴女が女性という事実は変わりません」
「ええ、そうです。ですが、ユーグ様は痴情のもつれに巻き込まれることを厭うていらっしゃるのでは?」
「では、貴女は私に好意を寄せない自信があると?」
「いえ。いち生徒としての好意は持ちますよ」
教師として当然のことをローシェは告げる。
彼に対して怖気づいてしまうのは、まだ教師と生徒の仲になれていないからだ。彼をひとりの生徒として好きになりたいとローシェは思う。決して不可能ではない。
現に、こうして率直に話し合えていること、彼が会話をする相手とみなしてくれていることに好感を持てている。
「ですから、ユーグ様にも――」
――ひとりの教師として、好きになってもらえたら。
続く言葉は吐き出そうとした息とともにのみ込まれた。
一瞬。
驚きの間。
状況を脳裏で理解する時間すらなかった。
頭上に引かれた手首が痛い。彼の一回り大きな手に隙間なく締め付けられている。
テーブルに片手をついた彼は腰を上げた前のめりの体勢でローシェに迫っていた。
引かれた腕とともに上がった顔が、眼前に迫る彼の真っすぐな眼差しに映る。
考える暇もなく、ローシェは視界を埋める彼を見ていた。息が止まっていることも知らずに、ただ前だけを見ていた。
彼の表情はちっとも変わらない。
感情の見えてこない、まっさらな顔。
「ローシェ。ローシェ・アリオスト。ローシェ先生とお呼びしましょうか?」
淡々としていたはずの言葉尻が、柔らかくなっていた。
目を細めて彼は微笑する。
たった数秒の間に何が起こっていたのか、ローシェにはわからなかった。
思考が回らなくて、状況が理解できなくて。
それでも、名前を呼ばれたことだけは分かっていた。
抑揚がなくても良く通る、綺麗な低音。不思議なほどに、真っすぐにローシェの元に届く彼の声。
感情がのれば、どれほど素敵なのだろうかと想像してしまう、魅力的な響き。
ほんの僅か。
彼が言葉尻を和らげて微笑しただけで、ローシェの想像を遥かに大きく上回る。
「顔が赤くなっています。体温が上がっていますね。脈も速い」
どくどく、と心臓が早鐘を打っていた。
彼が手首を掴んだのは、事実確認をするためだったらしい。
「貴女の眼差しを見れば分かります。これが生徒への好意だとでも?」
綺麗な弧を描いていた口元が皮肉げに歪む。
この表情をローシェは一度見たことがある。嫌悪の表われだ。それが、自分に向けられている。
途端に浮遊していた思考が現実に戻ってきて、ローシェは瞼を下す。
一度だけ深呼吸をして、無理やり微笑んだ。
口元だけではなく、眼差しも柔和に笑んでみせる。
「――不可抗力ですわ。ユーグ様は、これまで知り合ってきた女性にこのようなことをされてきたのですか? もしそうなのでしたら、お相手の女性に非はありません。貴方の身の振り方に問題があるのですよ」
ぴしゃりとローシェは教師として言葉を発する。
恋愛指南の一つ目。ようやく、依頼内容への一歩を踏み出せた。
「お手を、放していただけますか。ユーグ様。私は貴方の教師です」
有無を言わせぬ口調で続けると、彼はあっさりと手を引いて腰を下ろす。
無表情にも戻っていた。
彼の信用を得るためにも、ローシェは彼に現実を教えることに決めて口を開く。
「お伝えしておきますが、万が一にもユーグ様をひとりの男性として好きになったとして、何も起こり得ませんよ」
これだけでは納得しないと分かっている。彼は言い切れる根拠を求めているのだ。
「私は没落貴族の娘です。女学院を卒業し、1年半ほどは社交の場に出席しておりました。身分差の恋は幸せになれないと知っております。まして、今は雇われの身。貴族の反感を買ったら最後、明日には命を落とすかもしれません。女学院での教師職を失っても同じです。収入がなくなったら、私も一緒に住む両親も飢え死にします。天秤にかけるまでもありません」
身の上を捲し立てるように話し終えたローシェは、最後にとびきりの笑みを浮かべる。
これは、学院長が自分を選び、伯爵夫人がそのまま招き入れた理由のひとつだろう。
教師としての立場を失ったローシェには後がない。
雇ってもらえたのも、生徒の頃の評価と縁を鑑みてもらえたのだ。何も知らずに平和に生活していたら、突然借金塗れで没落して、職探しに駆け回ることになった自分を憐れに思って雇ってもらえたとローシェは分かっている。
「お分かりいただけましたか」
私室にと与えられた貴賓室と同じで、身の丈に合わないものは困るだけ。
彼への恋心はローシェにとって身を滅ぼす災いにしかならない。
「すみません、非礼を詫びます。先生は真面目で正直者ですね。頭も固い。貴女を警戒する必要がないことはわかりました」
「ご理解いただけて何よりです」
合間に挟まれた余計な一言はきれいに流して、ローシェは浅く礼をする。
少しだけ、彼の決まりきった無表情が和らいだ気がした。見えない壁が一枚だけ取り払われた気がした。
「ところで、ユーグ様は私の手を掴む際に加減くだっていたのですよね」
「はい。流石に力はかけませんでしたよ」
「ありがとうございます。お心遣いを嬉しく思いますわ。――ときにユーグ様は繊細なガラス細工の置物を直接触れて運ぶことになった際に何を心掛けます? 例えば、第三皇子殿下がとても大切にしている替えの効かない品としましょう」
「……慎重に扱いますが」
他に言いようがないと思っていそうなので、ローシェは言葉を付け加える。
「力の加減はどうなさいます?」
「落としてもいけませんから、底と側面を支えるでしょうね。土台はしっかりと固定して、側面は倒れないよう添える程度になるでしょう。形にもよりますが、大抵のものは土台は強固につくられています」
ローシェは満足気に頷いた。
「ええ。女性に接する時も同様に、添える程度と覚えていてくださいませ。ユーグ様の先ほどの力では痕になります。このように、赤くなってしまいますわ」
掴まれていた右手首を覆う袖を引き上げる。手の甲の白さに比例する、手首をぐるりと一周染め上げる赤い痕は痛々しい。
掴まれている間は骨が軋むように痛かったし、その痛みは今でも余韻となって続いている。
自分の手首から視線を正面に戻すと、訝しげに眉を潜めた彼がいた。
「医者を呼びましょう」
「いえいえ、お気になさらないでください。一日も経てば赤みも引きますわ。恋愛指南としてお伝えしましたので、ご理解くだされば充分ですよ。女性に触れる時はそっと、優しくです。ユーグ様は体を鍛えておられますから、添える程度でよろしいかと思います」
恋愛指南の二つ目。
ローシェはほんの少しだけ光が差したと思えて、無理に唱えなくても笑うことができた。