【5】
彼の書斎は至ってシンプルだった。
壁に沿った書棚は立派な装丁の本がずらりと隙間なく埋まっている。陽が見えていたら室内を照らすだろう窓のある壁には、数本の剣が飾られていた。
窓を背にする大きな書斎机には最低限の筆記具とランプだけが鎮座している。
中央に陣取る応接セットは長い歳月を感じさせる重厚感があるが、ソファの座面の布地は古びたところがない。丁寧に使い込まれていると分かった。
広々とした部屋のわりに物が少ない。飾り気もなく、生活感も感じなかった。彼は極度の綺麗好きなのだろうか。
先に腰を下ろした彼の向かいに座ると、ソファは程よく沈んだ。柔らかすぎず、固すぎない丁度良い座り心地である。
「ユーグ様は、私の件をどのようにお聞きになっていますか?」
まずは認識の一致が出来ているか確認しましょう、とローシェは問いかける。
「私のためにカルデリア女学院の教師を招いたと聞きました。伴侶を迎えるための恋愛指南だとか」
「ええ。ユーグ様は私を教師として受け入れていただけますでしょうか」
「母に逆らうと後々が面倒ですからね」
「そう仰っていただけて安心いたしましたわ。ユーグ様にご了承いただかなければ、私は仕事になりませんので」
初めの難関と思っていた点は、夫人の絶大な権力のおかげで素通りができてしまった。
微笑みに安堵をのせたローシェは、向けられた淡白な眼差しに浅く首を傾げる。彼は何かを尋ねたそうだ。
「母が貴女を雇うにあたって、期間は決められましたか」
「成果が目に見えましたら、私がこちらで為すことは終わります」
「では成果が見られなければ、貴女はここに居続けると?」
「その時は他の者に変わるかもしれませんね。夫人の判断次第で、私は学院に戻ることになるでしょう」
「そうですか」
平坦な声音のなかに、げんなりした雰囲気が混じった。人が変わるだけなら誰だって同じだと思われていそうだ。
「他にお聞きになりたいことはございますか?」
「いえ」
とりあえずは様子見、と思われていると仮定する。
真っすぐに向けられた表情のない面差しに気おされそうになるローシェは、柔和な笑みを浮かべることで弱腰になる気持ちを奮い立たせる。
「では――前置きはなしにして私の所見を申し上げますと、ユーグ様は誤解なされているものと思います」
「誤解ですか」
彼の目元が皮肉気に歪んだ気がした。言ってみろ、と言わんばかりに。
「ええ。『女性と関わると碌なことが起きない』と仰いましたよね。ですが、シア・ランデル学園に入学されて以降、男社会に身を投じてこられたユーグ様は女性と関わる機会が少なかったはずです」
「そうですね」
「男性と同様に、女性の性格も趣味嗜好も皆様々ですわ。ユーグ様が苦手と思われた方々はその一部ということを知っていただくために私は夫人に招かれました」
恋愛面において積極的な女性を彼は苦手としているのかもしれない。
意中の殿方に存在をアピールし、魅力を伝える。可愛く見られたくて声は少なからず高くなるし、感情のままに表情をくるくると変えていく。会話を誘導して次に会う機会を取り付けるし、時にはあえてわがままを口にする。恋における駆け引きが得意な女性は魅力的だ。
同じ女性としてローシェは素直に賞賛するし、可愛らしいと思う。羨ましく思う。
ローシェは気になる相手がいても遠目から見ているだけで終わってしまっていた。控えめといえば聞こえはいいけれど、臆病で行動に移せないのだ。
彼に一目惚れしたとして、自ら声をかけようとは思えないだろう。
だから、彼が関わった女性は溌剌で行動力のある人、そして恋に積極的な人が多かったのではないかと仮説を立ててみる。
それに彼の人生における女性との接点を考えると、知人や友人の恋人や婚約者が多かったのではないだろうか。そうだとしたら、苦手意識が強まるのも頷ける。
「一部ですか」
「ええ。そのためにも、まずはお互いを知る時間をくださいませ。毎日、食事の時間とは別にこうして時間を設けましょう。できれば30分はほしいですが、お疲れの日は短くても構いませんわ」
「では、今日のように食後に時間を取りましょう」
今後、食事時には顔を合わせることになる。
食事の一環と思えば面倒ごとがひとまとめになると思っているのではないか。
ローシェが逆の立場ならそう考える。
「それから、剣の訓練や書斎にいらっしゃる時は、時々ご一緒させていただいてもよろしいでしょうか。気負わずに、知人や友人のように気楽な会話をいたしましょう。何も話さなくても構いませんし、邪魔はいたしません。私は本を読みながら過ごしますわ」
「……いいでしょう」
今回は僅かな間があった。
彼がローシェと同じ考えだったなら、ひとまとめにしたはずの面倒ごとが結局分散されたことになる。彼には申し訳ないと思うが、ローシェは仕事として伯爵邸に身を寄せているのだ。彼のストレスにならないぎりぎりの範囲で、最大限仕事に取り掛かりたい。
「ユーグ様の勤務時間は日によって異なると夫人にお聞きしました。当分のスケジュールは決まっているのでしょうか? 勤務表があれば写しを取りたいのでお借りしたいですわ」
「私の自室にあります。お待ちください」
そう言って、彼は席を立った。
廊下に繋がる出入り口ではなく、隣部屋に繋がる扉の奥へと消えていく。
彼の私室と彼の書斎は、室内扉で繋がっているのである。
息つく間もなく戻ってきた彼に手渡された一枚の紙に目を通して、記されている日数を把握する。
「二週間分でしたか」
「殿下の予定次第で、突如変わる日もあります」
「そうですよね。お休みの日はどのように過ごされることが多いのですか?」
およそ半月分の予定が記された表には、時間が書かれていない日がある。休みはおおよそ週に一度。休日を跨いで、勤務時間は夜から朝へ、大きく変わっていた。
「遠乗りに出かけるか家に居ることが多いです。友人に誘われたら外に出ますが。ここにも来ますよ」
「では、ご友人がいらっしゃっている時は顔を合わせないよう気をつけますね」
ローシェは来客用の一室を与えられている。
使用人の部屋で構わないと伝えたが、夫人に聞き入れてもらえなかったのだ。
ここからひとつ上の階になるので、来客がいる日は行動範囲を狭めよう。伯爵邸で働く使用人にも、伯爵一家の来客がきたら教えてもらえるよう頼もう、と今後すべき調整を追加する。
「何故です」
淡々とした彼の問いかけが投げかけられた。
動揺したローシェは相対する視線を余所へ移してしまう。彼自身がローシェの存在を知られたくないはずだと思い込んでいたのである。
いけない、と思ってすぐさま微笑んだ。
「夫人から、ユーグ様と過ごす姿を伯爵家以外の者の目に留まらぬように、と仰せつかっております。私が貴族令嬢に見間違えられることはないでしょうが、ユーグ様は人目を惹きますから、良からぬ噂が立たぬように予防は必要です」
服装を見れば、その者の階級はおおよそ判断できる。貴族同士と思われないにしても、デオロット伯爵家の子息が年の近い女性と歩いていた、となれば貴族令嬢に目をくれないのは結婚相手にはなりえない恋人がいるからだと思われかねない。
恋愛指南の一環として、デートの定番である美術館や歌劇場、レストランや店先で女性に喜ばれる振舞いを教えることもミレイから勧められたが、残念ながらできそうにない。
お忍びにしても彼が注目を集める事実は変わらないだろうから、邸の外に二人で出ることはないわね、と真っ先に思ったものだ。
「ユーグ様のご友人を疑っているのではありません。夫人と私の間で定めた規則ですので、ご気分を害されたのなら謝罪いたします」
「いえ、聞いただけですから」
ローシェは良かった、と微笑んだ。
「改めて、本日からどうぞよろしくお願いいたしますね。ユーグ様」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
返ってきた彼の言葉はあくまでも義務的だけれど、同じ言葉が返ってきただけましだと思えばいい。まずは笑顔、とローシェは繰り返す。
「それでは」
彼は立ち上がった。
ローシェはなんだろう、と長身の彼を見上げる。
「ここに来て30分経ちます。今日は十分ではないでしょうか」
彼の表情のない真顔に「早く立て」「早く立ち去れ」と急かされている気がした。
「ええ、そうですね。お疲れのところ、お時間をくださりありがとうございました。私は失礼いたしますね」
引きつらないように表情管理に意識を向けて立ち上がり、廊下に繋がる扉の前に立つと、腰を折って丁寧に礼をした。
目線を合わせて微笑んで、ローシェは彼の書斎を後にする。
扉を閉めると人がいないことを確認して、頬をぺちりと軽く叩く。
(どんな時でも笑顔でいるのよ、ローシェ!)
手のひらの冷たさが頬に伝わった。頬の温かさよりも冷たさを強く実感して、酷く悲しく思った。