【3】
暗さが残る朝、ローシェは目を覚ますと窓から空を見上げて、地面へと視線を落とした。
ぽつぽつと雨が窓にぶつかって、音を奏でる。
地面は水溜まりが所々に広がっていて、落ちてきた雨粒で溜まった水が波紋をつくる。雨量を確認し終えたローシェはこじんまりしたクロゼットを開けた。
当分雨雲が去る気配はない。
陽が射さないと室内が暗くなるので、明るい輝きのある白を基調とした装いを選んだ。湿気で広がる髪は編み込んでひとまとめにする。数秒悩んだ末に、虹色に光るオパールがあしらわれたバレッタを選んだ。
細身だからこそ控えめな上品さがあって、オパールの輝きが目に留まる。ローシェのお気に入りの一点である。
「傘を差しても濡れそうだわ」
こんなことなら馬車を断らなければ良かった。伯爵家ならばお忍び用の馬車一つくらい、簡単に用意できただろう。そうしてもらうように頼めば良かったと、今更になって後悔してしまう。
本当の出向先と仕事の内容を知らない両親は「頑張っていらっしゃい」とローシェを送り出してくれる。
心配かけまいと笑顔で手を振って歩き出したローシェは、溜息を吐く前に口角を上げることにした。
(まずは笑わなきゃ。夫人は優しいお方だし、大丈夫。教え子たちの多彩な魅力に気づいてくれる目を育てるのよ)
カルデリア女学院で徹底した淑女教育を受け、得意な素質を伸ばしても、政略結婚相手が興味を持ってくれなければ、伸ばした才を発揮する場が得られないこともある。純真で直向きな教え子たちが幸せになってほしい。家同士の政略結婚でも互いを尊重した仲になってほしい。
政略結婚と世継ぎのための依頼であるからには、恋愛というよりは思いやりの心を育てたいと伯爵夫人も思っているのではないだろうか。
(女性との接点があったとしても、乙女心の機微を察するのは難しいわ。ご令息は尚更でしょうね)
女性同士であっても難しい。自分で言語化することも難しい感情を、察してほしいと期待してしまう。自分よりも自分のことを分かってほしいと願ってしまう。時々、そんな感情が生まれるのだ。
ローシェは同僚のミレイからそう教わった。
乙女の恋心は難しいとローシェも思う。
ローシェの住む地区は集合住宅が両脇に立ち並ぶ。外観はどれも似たり寄ったりで、全体を見渡すと綺麗に整ってみえるが、慣れていないと自分の家がどこかも分からなくなってしまう。
大きな通りに面している道にでると、なるべく端に寄った。馬車や馬が通る中央から離れていないと、道路の溝に溜まった水が跳ねて飛んでくるのだ。
夜勤を終えて早朝に帰宅する令息との初対面は印象良くと心掛けて、顔色が明るく見える白い服を選んだので、泥水が跳ねては台無しである。
傘を後ろへ傾けると、乗合馬車の待合所までの距離を目で追う。馬車が道の端で止まっていたので焦ったが、よくよく見ると乗合馬車ではなかった。
こじんまりとした二頭立ての馬車は、御者を除くとせいぜい二人乗りだろう。
この辺りは中流階級が多く住んでいるので多少珍しいが、雨が降ったことで馬車を借り上げる者がいてもおかしくはない。
後ろに傾けていた傘を前へと寄越して、なるべく雨を防ぐ。
視界は遮られるが、真っすぐに伸びる平坦な道のため、傘がぶつからない範囲に人がいないことを確認していれば良い。
待合所が近づいたことで人の気配が増えていき、ローシェは再び傘を後ろに傾ける。
開けた視界の先に、傘を差して立ち尽くす男性がいた。
道の端でただ立っているその人をローシェはちらりと見る。
その人の横には、ついさきほど目を止めた馬車があった。
(待ち合わせ……なのかしら?)
黒塗りの馬車と同じく、漆黒の外套に身を包んだ男性。
背筋は真っすぐに伸びていて一見細身に見えるが、外套越しでも精悍な体躯だと思った。
そう感じたのは無表情で辺りを観察する眼差しに威圧感を覚えたからだ。つい距離を取ってしまいたくなる圧をローシェは感じた。
多分、顔は整っている。真顔だからより怖く感じてしまう、左右対称で均整のとれた顔立ち。目尻は少し上がっていた気がする。
一瞬だったので曖昧だけれど、二度見ることはないだろう。
今でも道の端に寄っているのに更にもう一歩端によって、傘を前にもってくる。
佇まいが明らかに貴族である。
関わらないように。顔も覚えられないように、とローシェは変わらぬ歩調で先を急ぐ。
「そこのお方」
はらはらと降り続く雨音と行き交う人々の雑踏のなかで、その声だけは真っすぐ届いた。
感情の見えてこない、平坦な声。
けれども良く通る、綺麗な低音。
すっきりとローシェの思考に入ってくる、心地の良さ。
(感情がのると、もっと素敵なのでしょうね)
声の主と親しくなった者は耳が喜ぶだろう。名を呼んでもらえたら、それだけで自然と笑みが浮かぶだろう。
そんなことをローシェは考えていた。
「アリオストさん」
また、同じ声がローシェの耳に届く。
初めて聞く男性の声がローシェの姓を呼んだ。
この辺りに住む人は数え切れないほどいる。入り組んだ住宅街なのだ。偶々、同じ姓の人がいたのだろう。
名を呼んでもらえたら――なんて考えていたが、実際に自分の姓を呼ばれると少し勿体ないと思ってしまう。平坦な声音が、かえって怖いと感じてしまったのだ。
「ローシェ・アリオストさんでしょう」
今度はローシェは足を止めた。
(私を呼んでいたの? でも心当たりがないわ。……怖い)
傘の柄をもつ手が、緊張で震える。
衝撃が勝って足を止めてしまった。
足を止めていなければ「自分ではない」と思いながら素通りできていたのに、愚かにも立ち止まってしまった。
この辺りに店はない。ただの住宅街である。
加えて、雨足の影響なのか普段よりも行き交う人が少なかった。
名を呼んで立ち止まった人が他にいなければ、自分の存在に気づかれてしまう。
(誰だろう。私の名前を知っているひと――)
男子禁制の女学院と実家の往復をする毎日が続いているローシェに心当たりは少ない。
全くないといえないのは、貴族男性との接点が過去にあったからだ。自分は知らずとも相手は名を知っている場合もある。
いつの間にか、傘で遮られた狭い視界に人の翳が入り込む。
漆黒の長衣からのぞく黒いスラックス。手入れの行き届いた光沢のある黒い革靴は、振り落ちる雨を跳ね返していた。
馬車の前で佇んでいた男性だと分かった。
(あの方が私の名を呼んだ――)
誰だろうと思った瞬間、一人の人物にいきつく。
慌てて傘を後ろへと傾けて、背の高い男性をローシェは見上げた。
「名を呼んでいただいていたことに気づけず申し訳ありません。――ユーグ様、でしょうか」
行き交う人を気にして名だけを呼ぶ。
親切な夫人は空模様を気の毒に思って、迎えを送ってくれたのだろう。
顔も家の正確な場所も分からなかった彼は、乗合馬車の待合所の手前で待ち伏せてくれていたのだ。
「馬車へ」
見下ろす彼は一言だけ、変わらぬ平坦な調子で告げた。
(私には無理かもしれないわ……学院長、ごめんなさい)
どんよりとした雨雲が広がる暗い風景が馴染む後姿を呆然と見ながら、ローシェは学院長に謝罪する。
前金の報酬が既に女学院に寄付金として入っている。
依頼を受けたのに何もできませんでした、なんて報告は許されない。
唇を噛みしめて無理矢理頬を持ち上げたローシェは、まずは笑顔、と意気込んで黒塗りの馬車に乗り込んだ。
エスコートはなかった。彼は先に乗り込んでいたから、扉も自分で閉めた。