【2】
翌日、ローシェはデオロット伯爵邸を尋ねた。
カルデリア女学院の教師に決められた制服はない。持っている仕事服の中で最も新しく、落ち着いた色合いで、知的な雰囲気を感じる装いにした。胸元までのびた栗色の髪は後ろで一括りに束ねている。
対応してくれる執事の案内で応接室に向かったローシェは、教師の採用面接の日に感じた緊張感を思い出しながら依頼主が現われるのを待っていた。
(デオロット伯爵邸は王城にとても近いのね。騎士なら騎士団寮で暮らしていらっしゃると思ったけれど、ここなら通える範囲だわ)
デオロット伯爵子息は現在、王宮で騎士の任に就いているらしい。
馬車に乗らず、馬で駆けるのなら30分程度で着くのではないか。
王宮内部のことは分からないので騎士団本部までは更に数分かかるとしても、通勤範囲と言えるだろう。
案内された席に腰かけることなく扉に体ごと顔を向けて立っていたローシェは、執事とともに一人の女性が歩いてくる姿を目にして、腰を折った。
「貴女が学院長が遣してくれた先生ね」
「はい。カルデリア女学院から参りました、ローシェ・アリオストと申します。呼びやすい名で呼んでくださいませ」
「では、ローシェ。おかけになって」
「ありがとうございます」
老齢の執事が蒸らした紅茶をカップに注ぐ。
ふわり、と馨しい茶葉の香りが漂った。隣国から取り寄せた高級品質の茶葉だった。
注がれていく紅茶の透き通る深い紅の色合いにローシェは微笑む。
「紅茶はお好き?」
「ええ。オルティゴ産の茶葉は香りから違いますよね。香り立つ淹れ方にクセがあると言われていますが、見事な腕前ですね。私どもでも、ここまで綺麗な色と香りを出せる者は少ないですわ」
「ふふ、ローシェはどちらなのかしら」
「お恥ずかしながら、私は未だに教わっている身です」
本題に入る前の雑談は付きものだ。
依頼を任せるに値する人物かを見図られている。
それが分かっているローシェは緩やかな笑みを続けて、夫人の話に頷き答える。
執事は壁際に立って、静かに待っている。紅茶が減ると注ぎ足し、また、静かに壁際に控えた。
(本題は執事にも聞かれないようにするのかしら? でも、長い付き合いになるのだし執事には知らせておく場合もあるわよね。それとも、既に依頼内容を知っているのかも)
夫人とお茶会らしい何気ない会話を交わしながら、ローシェは視界の端に映る執事の存在を考える。
「それで、私の息子の話なのだけれど」
(――――きた!)
これからが本題だと分かると、口につけていたカップを静かにソーサーの上に置く。ローシェは焦らずに、微笑みながら続きを待った。
「今年で25歳になるのに、結婚どころかお付き合いもないのよ。お見合いを設けても、顔を合わせたら一言だけ告げてすぐに席を立つの。長男なのにこの調子では、世継ぎが心配だわ」
頬に手を当てて悩まし気に溜息を漏らす夫人に相槌を打っていたローシェは、一か所が妙に引っ掛かる。
「よければ、お見合いの席で御子息が仰られた内容を伺っても?」
「ああ、ええ、そうよね。そのままお伝えするわね? 『貴女相手では子作りができない』と」
「――それは」
「何も仰らなくて構わないわ。心無い男に育ってしまったと反省しているの。けれど、子作りができない相手との結婚は進められないわ。あちらも憤慨なさるから当然だけれど」
言葉を遮られたローシェは心底ほっとした。
伯爵子息を擁護する言葉は思いつかず、かといって母親である夫人に非難の本音は口にできない。
「騎士の仕事があるといって社交の場にも顔を出さないから、心配で様子を聞いてみたの。そうしたら、騎士団では女嫌いで有名というのよ」
(つまり、息子の身辺調査をした――のよね)
名前しか知らない伯爵令息の人物像が少しずつ、ローシェの頭の中で姿を表していく。
「過去になにかトラブルでも?」
「小さい頃は年の近い女の子とも仲良くしていたわ。シア・ランデル学園に送りだして、そのまま騎士養成所に進んで、騎士団に入団して戻ってきた時にはもう女性を寄せ付けなくなっていたみたい」
「そうですか」
シア・ランデル学園とは貴族男性のためにつくられた、全寮制の男子校である。12才で入学し、それから6年間の日々を過ごす。
年齢や家柄の差での格付けがある中で、学院生活を要領よく生き抜くのは至難の業だとローシェは聞いたことがある。伯爵令息は今年で25才。騎士養成所は実力次第ですぐに騎士になれるのだが、12才から今までの間、男社会の真っ只中で過ごしていることは確か。
「それで其方に依頼したのよ」
「はい、御子息への指南とお聞きしています」
執事がいる手前、恋愛の指南であることは伏せておく。
夫人はくすりと笑った。
「ええ、恋愛指南よ。そのためにも、まずは女性の魅力を息子に教えてあげてほしいの。色仕掛けではなくね」
「女性に対する偏見がご子息にあれば取り除く、ということでよろしいですか?」
執事への気遣いが不要となったローシェは、依頼の核心を明確にしていく。
「同性に恋愛感情を向けているわけでもなさそうなのよ。息子の好みも聞き出してほしいわ。恋愛経験がないでしょうから、女性への振舞いもよろしくね」
「わかりました。最善を尽くします」
恋愛指南というから身構えていた。
それは特定の相手との仲を深める恋愛相談と思ったからで、極々一般的な女性への理解と礼儀を求めているのなら力になれそうである。ローシェは快く頷いた。
「無事に息子が女性に関心を持てるようになれば、ガーデンパーティーを開きたいの。息子の好みに合いそうなご令嬢を数名、其方から紹介していただける?」
「そちらの件は学院長の対応になりますので、学院に戻り次第、私から話があったことをお伝えさせていただきますね」
どうやら夫人は、今回の依頼で結婚までの道筋をつくり上げるつもりらしい。
女学院の生徒や卒業生の紹介は双方の意志の元で行う決まりだ。一歩間違えれば貴族間の衝突に巻き込まれる案件は、学院長が厳正に取りまとめている。ローシェにできることは、令息と息が合いそうな令嬢を数名リストアップして、現時点での婚約者の有無を確認することだけ。
そもそも前段階の依頼を完遂しなければ、学院長まで話を持っていけない。
まずは課せられた仕事を果たそう、とローシェは気合を入れる。
「息子について、お知りになりたいことはあるかしら?」
「そうですね……騎士様ですと、戻りは何時頃になりますか? 明日以降の勤務条件の打ち合わせをさせていただければと」
「あら、息子の人となりはお聞きにならないの?」
「御子息にお会いする前から生い立ちを詳しく知ると快く思われない場合もありますので、必要に応じて奥様にご相談いたしますね」
「ええ、そうしてちょうだい。それで息子の帰りなのだけれど、勤務時間が不規則なのよ。日によって家にいる時間が異なるから、貴女にはいつでも対応できるように我が家に滞在してもらいたいわ」
(――住み込みの依頼、かぁ。ミレイ先生には無理だものね)
恋愛指南を得意とする同僚のミレイが選ばれなかった理由にローシェは納得した。
ミレイは伯爵夫人なのだ。若かりし頃は彼女の麗しい美貌や話術で魅了した男は数知れず、女性までも虜になったという。子爵令嬢でありながら社交界の華だったらしい。
子を産み育て、少しずつ煌びやかな社交界から遠ざかって、のんびりとした生活を送っていたミレイを女学院の教師に引き抜いたのは学院長で、愛妻家の夫が家を空ける日中のみ勤務してくれている彼女に住み込みの仕事は頼めない。
寝泊まりする部屋や邸全体の案内、伯爵令息が不在の間の行動範囲や、依頼を引き受けるにあたっての注意事項を確認し終えた頃には、窓から射しこむ陽が橙色に変わっていた。
帰宅した伯爵当主にも挨拶を終えたローシェは、ホールで夫人に別れを告げる。
「では、荷物をまとめて明日の朝、こちらに伺いますね」
「荷物はいらないわ。商人を呼ぶから、好きなだけ買い揃えていいのよ」
「お気遣いありがとうございます」
こうしたことは貴族の体面もある。
最低限の荷物で済ませて、一つ二つは好意に甘えたほうが夫人との良好な関係をつくれるだろう。
「馬車を用意させたから、乗って帰ってちょうだい。明日も迎えを出すわ」
「ご厚意に感謝しますわ、奥様。ですが、こちらとの繋がりを伏せるためにも馬車は遠慮いたしますね。折角ご用意してくださったのに申し訳ありません」
「まあ、そこまで考えてくださっているのね。貴女を選んだ学院長の目は確かなようだわ」
「いえいえ、当然のことですよ」
見送りに外までついてきてくれた夫人に改めて礼をしたローシェは、流れ去る風にのる百合の香りに目を閉じて、開けてもらった門扉を抜ける。
振り返っても伯爵邸がみえなくなってから両手で顔を覆った。
吐き出す息は重い。不安の表われだった。