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18/23

【18】




 彼の勤務時間は深夜帯に切り替わった。

 仕事終わりの彼と朝食を食べて、書斎で過ごす。彼が就寝している間は日頃お世話になっている邸の使用人たちの仕事を手伝ったり、女学院や自宅に戻って郵便物を確認する。

 夫人は毎日忙しなく外に出かけているけれど、時々声がかかってはお茶をともにした。


 彼が起きて厩舎に顔を出した後に、二人で食事をとる。

 テーブルに広がる皿が空になってから、彼は口を開いた。


「此方に来る前に、母に会いました」


 口元をナプキンで拭う姿も様になる。

 ローシェは微笑みで続きを促した。


「舞踏会で踊れるのかと聞かれましたので、踊れないと答えておきました」

「まあ……ダンスは苦手でしたか?」

「いえ。レッスンでの評価は良かったですよ」


 ローシェの問いに、彼はあっさりと否定する。


「では、社交の場で踊られた経験がないと言うことですね?」

「はい。ですから私に教えてください、ローシェ」


 うぐ、と心中で唸る。

 彼は引き留めに掛かっているのだ。


 夫人に頼んで招いた来客は昨日の美術商で最後。同席していた夫人は「息子の口数が増えて、以前と比べると社交的になった」と喜んでいた。

 そろそろ婚約者探しを始めても良さそう、と夫人も思っている。


「構いませんよ。いつになさいます? 音源は豊富にありますものね」

「いえ、生演奏の方がより練習になります。次の休日に演奏家を手配します」

「――分かりました。ユーグ様は熱心ですね。夫人も喜んでくださるでしょう」


 彼の行動を、婚約者探しに積極的になったと解釈して喜んでくれているはずだ。


 やれやれ、とローシェは笑む。

 彼が何をしたところで変わらない。一時の幸福に浸って、思い出をつくって。それでお別れができるのなら、互いに次の幸せを探せるだろう。



 *


 対外的には、伯爵夫妻が二人きりでの舞踏を楽しむために音楽家を招いたことにしているらしい。

 家族との夕食を終えた彼が直々に部屋を尋ねてきた。


「舞踏の練習用に部屋を用意しました」

「まあ、迎えに来てくださったのですね」


 差し出された腕に手を添える。

 歩き出すかと思ったら、彼は立ち止まったまま動かない。


 どうしたのだろうと見上げて、微笑む彼の眩しさにローシェは頭が真っ白になった。


「綺麗です、ローシェ」


 飾り気のない彼の言葉。

 ありふれた社交辞令。他の誰かなら真っ先に思うのに、彼にはそう思えない。


「あ、りがとうございます」


 振り絞って感謝を口にすると「行きましょうか」と彼が歩き出すので、つられて足を動かす。


 じわじわと、胸が満たされていく感覚だった。


 舞踏会に参加するのではなく、ただの舞踏の練習だ。舞踏会さながらに着飾るのは気合を入れているようで気恥ずかしく、かといって普段の変わり映えしない服装で踊りたくなかった。


 裾がふわりと広がる華やかなドレスに似たラインで、日常的にも着れる落ち着いた雰囲気で、それでいて教師らしい。

 そんな、相反するものを兼ね備えた装いを慎重に選んで。

 宝飾の類をつけ比べて、髪型を何度も結い直して練習した。


 ほんの少しだけ、舞踏会を思い浮かべられる装いを意識したのだなと思われるように。

 ほんの少しだけ、いつもより綺麗だと思ってもらえるように。


 ほんの少しが良かったから、かえって延々と悩んでしまっていた。

 彼の恋心を否定しておいて、彼の瞳に綺麗な姿で映りたいと切望する。そんな自分を可笑しく思い、彼に申し訳なくなり、自己嫌悪に陥って。

 どうしようもなかった時間が、彼の一言で報われた気になる。


(私情を挟むなんて、教師失格よね……)


 愚かだと己を戒める。

 それなのに、どうしようもない嬉しさは隠しきれそうにない。


 彼のエスコートで案内された先は、空き部屋だった客室だ。

 部屋の中央に置かれていたテーブルやソファに、花瓶や燭台、動物を模した置物を飾ったコンソールテーブルの位置をずらして、中央に広々とした空間を作っている。

 それもただ単に端に寄せ固めたのではなく、舞踏の場と休憩スペースになるように配置されていた。


 テーブルの上には、飾り切りされたフルーツや一口サイズの焼き菓子。ワイングラスと年代物のワインまで。


 家庭教師との舞踏練習とは思えない特別扱い。

 彼が使用人に命じて手配したのだろうが、夫人は知っていて口を出さないでいるのだろうか。


(元々、夫人も好待遇で迎えてくださっているのだけれど)


 それでも、夫人からしても今日が最後なのだろうと思ってしまった。


 ピアノと弦楽器の旋律が三拍子のリズムを刻んで流れ始める。

 一階のホール、もしくは続きの大広間で演奏しているのだろう。邸の吹き抜けをゆるりと昇り、解放した扉を潜って。のびのびとした旋律がゆらりと漂って、消えていく。



「ローシェ。私と踊ってくださいますか」



 ――差し出された手が、私を迎え入れる。

 いつだってまっすぐに届く、彼の声。


 彼と過ごすこの瞬間が永遠に続いてほしいと、誰もが望む幸せの延長を祈って、私は踊る。





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