【17】
彼は暇さえあれば呼び出すようになった。
元々彼とは多くの時間を過ごしている。
彼が中庭で剣の訓練をしていればローシェは眺めていたし、書斎では各々自由に過ごすし、邸内に飾られた美術品を二人で見てまわる時間は今も続いている。彼と会話をするティータイムだって毎日ある。
以前との違いは、時間というよりも距離だろうか。感覚的な違いだった。
本棚の上段に並ぶ本に手を伸ばせば、いつの間にか背後に立った彼がとってくれる。髪のまとめ方を変えると、さりげなく褒めてくれる。邸内を二人で並んで歩く時には必ずエスコートをしてくれるし、歩調も合わせてくれた。立ち位置が前後ではなく横並びになった。
彼は朝食を家族と摂った後に街中まで足を運び、有名店のパンやケーキを買ってきてくれた日もあった。中庭のテラスで風に揺れる百合の花を観賞しながら、二人仲良く食した。
彼の練習相手に招いた来客があった日は二人で過ごす時間がなくなる。その代わりというように、彼が仕事に向かう前にローシェの部屋を訪ねくれるので、数回のやりとりで終わる立ち話をした。
そうして迎えた今日は彼の休日。
サロモンの一声でローシェは朝早くから書斎に向かう。
書斎の扉を叩こうと手を掲げると、その前に扉が開いた。
「ローシェ、おはようございます」
「おはようございます、ユーグ様。今日は随分とお早いですね。驚きましたわ」
「はい、折角の休みですから。朝食は食べ終わっていましたか」
「ええ。食器を戻しに地下に下りましたら、サロモンさんとお会いしたのです」
「急がせたのではなくて安心しました。取寄せた菓子があるのですよ」
どうぞ、と扉を開いたまま手で招かれたローシェは礼をしてから室内に入る。
コーヒーセット一式と並べてあるのはマカロンだ。色合い豊かなマカロンが百合の絵柄で縁取られた大皿に飾られている。
「まあ、頂くのが勿体ないですね」
「勿体なくとも、食べてください。貴女のために用意したのです」
「ユーグ様は本当にお優しいですね。――教師として伝えることが見つかりませんわ」
ガラス製のコーヒーサーバーには真っ黒な深煎りのコーヒーが入っている。
ソファに浅く腰を下ろしたローシェは、空のカップにゆっくりと注いだ。黒々とした輪が広がっていく様子を見て、七分目まで注ぎ終えてから彼を見上げる。
彼の少しだけ伏せられた眼差しと、頬に落ちる翳。艶やかな黒髪とは反対に色素の薄い肌がどことなく青みがかって見えた。真一文字に結んだ唇も少しだけ紫に寄っている。
「お疲れではありませんか? ユーグ様」
「いえ……確かに疲れていますが、言うほどではありません」
「いけませんよ。久しぶりの休日なのですから、お休みになってください」
定刻通りに仕事を終えても夜半の帰宅になるのに、彼は朝が早い。馬の世話をして、伯爵夫妻と朝食を摂る。ローシェを呼んだのが9時を過ぎた辺りだった。
朝食が別だった日は昼前に書斎でお茶を飲んでいたので、今日が早すぎるのだ。
定刻で仕事を終えたと仮定して逆算しても、彼の睡眠時間は少ない。
「コーヒーもいけませんね。リンデンティーを用意いたしますわ。お体を休めていてください」
寝付けずに早起きしてしまったのなら、まずはリラックスできるハーブティーでひと息ついてもらったほうが良いだろう。
深煎りのコーヒーは彼に飲ませられない。
返事を待たずに立ち上がったローシェは出口に向かって歩き出す。
「――ローシェ」
けれど、歩みと連動して背後に振った腕を、彼の手が掴んだ。
どくん、と心臓が跳ね上がる。
彼は必要以上に触れない。身にまとう衣服に添える程度のエスコートだけ。
恋をしていると彼に告げられてから、好意を多分に含んだ行動や言葉選びをされていても、触れられることはなかった。
彼との密な接触は一度だけ。
手首に痕ができる力で掴まれ、顔を寄せられた一度限り。あの時は骨が軋んだように痛かった。
手首を掴まれたことで足が止まり、遅れて振り返ったローシェは、立ち上がっていた彼を見上げる。
覆われた手首に痛みはない。
ぴったりと隙間なく掴まれているのに余計な力を感じなくて、彼の手のひらの熱だけがローシェに伝わる。
「行かないでください、ローシェ」
熱に浮かされているのではと思ってしまうほどに、彼の眼差しは熱かった。対して、触れている熱は自身の体温と大きなひらきを感じない。
「すぐに戻りますよ?」
動揺を隠して、ふわりと笑んだ。
地下に下りてお湯を沸かす間に茶器を揃える。リンデンを入れたポットに沸騰した湯を注いで蒸らしている間に書斎に戻って来る。かかって10分だろう。
目算して、すぐのうちに入る時間だと考えたローシェは繋がれた手首をちらと見る。
彼は掴んだ手を離さない。
「眠りが浅かったのではないですか? 休める時には無理せずに休んでください」
「その為に貴女を呼んだのです。私は貴女がいる空間にいたい」
「……私はユーグ様に寝てほしいのです。起きていてはお身体が休まりません」
歯の浮くような台詞を、彼はさらりと告げる。
ローシェは違うと訴えた。例え彼の言葉のとおりだったとして、休まるのは心だ。ローシェには彼の身体も疲れて見える。
「では貴女の言うように寝ますから、私の傍にいてください」
容易に振り解けそうなほど力を感じないのに密着した腕を引かれて、足が数歩前にでる。腰に腕が回ったと思ったら、あっという間にソファに深く座った彼の膝の間に腰を下ろしていた。
「あっ……あ、あ、あのぅ!?」
冷静さは消えていた。
背後にひたと感じる彼の気配。左右にある彼の引き締まった太腿の重量感。
異性に耐性のないローシェは、上擦ったまま言葉にならない問いをなげる。
「練習、ですよ」
何の!? と問うよりも先に彼は動いた。
する、と彼の両腕がお腹に回る。
強引なのに、無遠慮に触れない。ただ腕を回しただけで抱きしめはしなかった。間に空いた空間がかえって緊張して、もどかしい。
長い髪を結い上げて露わになった首筋に彼の髪が触れた。
彼は柔らかな髪質らしい。肌を刺す硬さはなくて、絹糸が滑っていくような、微かにくすぐったい心地よさ。
それから、肩口に彼の頭が乗っかる。
丁度良い置き場所を探るように何度か動かして、ぴたりと止まった。
体格差を考えれば深い角度で前のめりになって首を落としているだろうに、重さがのらない。
「少しだけ、こうさせてください」
はくはくと空いた口を動かして声なく戦慄くローシェは、数分経ってから異変に気づく。
(寝た、の……?)
背中にかかる彼の体重が一段と重くなる。
息を潜めると、ささやかな寝息が聞こえた。
ゆったりとした彼の心臓の音に合わせて、深呼吸を繰り返す。ぴたりと一定の呼吸ができるようになってから、手ぶらな両手で顔を覆った。
(疲れが取れるとは思えないわ……)
彼に熟睡してほしかった。体を横たえて休日の昼寝をしてほしかった。
これでは仮眠にもならないうたた寝だ。
困った、と表層で思いながらも唇を浅く噛み締める。
彼を含めた誰にも見られていないのだから、少しくらい今の幸せを噛み締めたい。
彼の重さを感じられる一時を、ローシェは胸の奥に染み込ませた――