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16/23

【16】

 



 彼と食事をして、書斎で話して、邸内に飾られた絵画や置物を見て、彼の剣の鍛錬を眺める。

 デオロット伯爵邸に招かれてからの彼との時間は、ここ数日、少し減っていた。


(今日は来客がない日ね)


 それはローシェが夫人に頼んだ職人たちが日毎伯爵邸に訪れていたからだ。

 彼の勤務が夕方からに変わったので、昼食を終えてから邸を発つまでの間に職人を招く形で調整をつけていた。


 勤務時間が切り替わる間の休日には画家を招き、それから音楽家を招いた。昨日は服飾デザイナーが邸を訪ねていた。

 貴族男性の衣服を仕立てている王都で人気の店のデザイナーで、ローシェも彼女の名を聞いたことがある。


 せっかく衣服を新調するのだから社交の場に適した華やかな衣装や、婚約者候補との対面時に着る装いを繕うよう夫人に指示されたらしい。

 ローシェは助言として、何色にも合う色を基調にするよう勧めた。「気を惹きたい女性が現われた時に、その人の髪色や瞳の色を差し色にしたら喜ばれるのですよ」とも伝えた。


 伯爵家の彼ならば相手に合わせていくらでも新調できる財力があるのだが、オーダーメイドの衣服は仕立てるまで日数を要する。

 その間に彼女と会う機会があった時に、何色にも合わせられる衣服があると便利だ。差し色に使うネクタイやポケットチーフは余程デザインや素材に拘りがない限り、すぐに用意してもらえる。


 そういった点も併せて伝えたのだが、彼はどんな品を手配したのだろう。


(出来上がった頃には、私はもうここにいないわよね……)


 早々と一人での昼食を済ませたローシェはゆったりと進む時計の針を眺めながら、もの思いに耽る。

 彼は今頃、伯爵夫妻との食事中だろう。夫人とはどんな話をしているだろう。

 それが終わったら、何をして過ごすのだろうか。


 そんなことを考えていると、コンコン、と控えめなノックが鳴った。


「はい」

「サロモンです。ユーグ様が書斎でお待ちです」

「ありがとうございます。すぐに向かいますね」


 今日の食事は早々とすんだらしい。時計の針が差す時刻を見て、見間違いではないことを確認してから立ち上がったローシェは足早に自室を後にした。



 *



 書斎のテーブルにはサロモンが運び込んでくれたティーセット一式の他に、食べ応えのあるスコーンと、旬のフルーツが数種盛り付けられたタルトまで添えてあった。


 紅茶とともに甘味を用意してくれるのは毎日のことだが、食後のティータイムにしては重ためだ。使用人の判断ではなさそうなので、彼の指示だろう。

「美味しそうですね」と一言告げてから、ポットにお湯を注いで紅茶を蒸らし始める。


「今日は貴女が用意した来客がない日ですね」

「ええ、そうですね」


 予定を詰め込み過ぎただろうか、と反省したローシェは、眩しそうに目を細めた彼を目にする。

 開いた窓から舞い込むそよ風が彼の耳にかかる髪をさらさらと撫でていった。昼間の暖かな日差しが反射して、漆黒の髪が透けた淡い色合いに見えるのだから不思議だ。


「私が、貴女と二人で過ごせる日ですね」

「――ええ、そうなりますね」


 どきり、と心臓が飛び跳ねた。

 彼の言葉選びは心臓に悪い。深い意図はないはずだと言い聞かせなければ、こちらまで勘違いしそうになる。

 それに、今日は他にも気になることがあった。


「気になりますか?」

「申し訳ありません。しっかりと着こなしていらっしゃるので、少し珍しいと思いまして。これからご予定でも?」


 邸内で彼が過ごす時は、ラフなシャツに細身のスラックスという軽装が多い。けれども、今日は薄いブラウンのベストを着用し、胸元には赤みがかった淡い栗色のポケットチーフまで差し込まれていた。

 シャツの袖口にはヘーゼルに輝く宝石をあしらったカフスまでつけている。


 彼が宝飾類で着飾る姿を見たことがなかったローシェは、つい目で追ってしまう。


「いえ。貴女に会うにふさわしい服装をしただけです」

「私に、ですか」


 栗色のポケットチーフにヘーゼル色のカフス。

 何方も派手さはない。落ち着いた色合いで、大人びた品を感じる、無難な色味。大抵の貴族男性は新調せずともクロゼットの中にある、ありふれた茶色。

 それはローシェの髪色であって、瞳の色でもあった。


「はい。貴女は私の先生、なのでしょう? 恋愛指南だけでなく、色恋の練習相手として年の近い貴女を母は招いたでしょうから、私もそうさせてもらいます」

「それは」


 そうかもしれない、とはローシェも思う。

 若い女性に関心を持たせるための依頼で年の近いローシェが選ばれた。

 依頼を果たせた時に、彼が家庭教師に恋心に似た感情を抱く可能性を夫人は考えたはずだ。だからこそ、年齢は近いが彼よりも年上で、貴族間で囁かれている結婚適齢期を過ぎ去っているローシェが適当だったのではないか。


「何においても相手の心次第だと貴女は仰って、具体的な行動は教えてくれませんよね」

「ユーグ様はお気持ちを向けられたら、お相手の方を慮ってくださる方ですから。お心のままに行動なさってくだされば良いと思いますよ」


 遠回しに練習する必要はない、とローシェは告げる。彼は一度瞼を閉じることで否定した。


「貴女が仰るほど私はできた人間ではありません。自信をつけるために、私は私なりに考えて貴女の気を惹きます。好意を伝える方法を考える、という練習ですよ。助言があれば、いつでも仰ってください」


(どうしたの……? 積極的過ぎるわ)


 彼が自らの意思で恋愛指南を望む日を、ローシェは想像したことがない。


「ユーグ様、練習が必要なのでしたら」

「――ローシェ」


 どきり、と喉の奥が震える。

 用意してくれたケーキに口をつけていないのに、既に甘さを感じていた。

 砂糖の膜で覆われた、彼の声。

 砂糖菓子よりも甘い感情がのった彼が奏でる音がローシェの耳に入って溶けだしていく。


 もしも、名を呼ばれたら――


 想像だけで終わると思っていたローシェは、それが現実になると酔ったような眩暈に襲われた。


「貴女は私の先生なのですから、貴女がいずれ見つかると仰った『本当の恋』の練習に、付き合っていただけますよね?」


 そう言って、彼は笑う。眦を下げて緩んだ笑み。心の底から楽しそうに、彼は微笑んでいた。


(……ずるいわ。私が教師としての体面を保っているのを逆手にとったのね)


 彼の「恋」をローシェは勘違いだと否定した。

 言葉では将来出逢う誰かのための恋愛指南を求めているが、彼の行動から伝わる意志はローシェの教えに反抗していた。


(私は教師よ、ローシェ。勉強熱心な教え子の熱意には応えるけれど、決して流されはしないわ!)


 雑念を振り払って意気込んだローシェは教師として快く頷く。


「わかりましたわ、ユーグ様。練習をしたいと仰る熱意を嬉しく思います。夫人も喜ばれることでしょう」


 それから胸元で両手の指先を合わせて微笑んでみせた。


「ですが、夫人は既にユーグ様の変わりように満足なされている様子です。私が貴方の教師でいる期間はそう長くはないでしょう。それまででよければ、ユーグ様の自主学習にお付き合いいたしますね」


 終わりは既に迫っている。

 それまで、教師として彼と接していればいい。彼だっていずれ悟る。今は恋だと思っていても、それが異なる感情だったと気づく日がくる。

 幼少の頃に親切に世話を焼いてくれた使用人を恋しく思うのと同じだ。


(私は、同じ気持ちを彼からもらえているだなんて自惚れることはできないもの……)


 瞼を閉じても、彼の姿が鮮明に浮かぶ。

 彼のいない景色に、彼の姿を想像する。

 彼の声だけが、真っすぐにローシェの記憶に焼き付く。


 そんな恋は初めてだった。


 決して叶わない恋だから、かえって切実に想ってしまうのだろうか。

 どうか一過性の感情であってほしい。互いにとって、そうあることをローシェは望む。


「わかりました。貴女との時間を引き延ばしたいところですが、母の貴女への評価は正当であってほしいですし、難しいですね」

「……お心遣いをありがとうございます」


 どうして彼は甘い言葉を平然と告げるのか。

 開いた口が塞がらなくなりそうで、紅茶を飲もうと手を伸ばしたローシェは空の器に唖然とする。


「すっかり濃くなってしまいましたね。渋みがでやすい茶葉ですし、入れ直しましょうか」


 ポットの注ぎ口からも濃くなり過ぎた香りが漏れていた。

 紅茶本来の渋みを越えて、雑味になっていそうだ。ローシェ一人ならお湯で薄めて飲むのだが、彼の口に入れるのは気が引ける。


「私はそのままで構いません。甘いものも用意していることですし」

「そうですか?」


 彼が良いのなら気にしなくていいか、とカップの半分まで紅茶を注ぎ、そこから保温されている熱湯を注ぎ足す。

 七分目まで満たしたカップを彼の前に差し出したローシェは教師らしく尋ねることにした。


「ユーグ様がスコーンとタルトを用意するよう指示なされたのですよね。食後のティータイムには少々重たいものですが、こちらにも訳が?」


 彼が率先して行っている自主学習への助言なら簡単だ。こうして聞けば良い。その方が、教師と生徒らしい。


「サロモンから、貴女が一人で食事なさる時はサラダとパンにスープがあるかどうか、と聞きましたので」

「心配してくださったのですね。量が少ない訳ではないのですよ」


 貴族のフルコースと比べると品数は少ないが、それなりの量を食べている。


「心配……もありますが、貴女と食事をする機会が連日ありませんでしたから、残念に思っていました」


 どきり、とまた跳ねる。


「貴女は私が絵になると仰っていましたが、私には貴女がそのように見えます。幸せに綻ぶ貴女を見ていたい。貴女の舌の上で広がる味わいを知りたくなる。貴女との食事は、私の味覚まで変えてしまいます。――不思議ですよね」


 唇に長い指をあてて伏せた彼は、すぐにローシェを見上げて、そう付け足した。


「遠慮せず食べてください、ローシェ。私もそうします」

「――お心遣いをありがとうございますわ。お言葉に甘えて、早速いただきますね」


 教師らしい言葉が見つからなかった。

 結局ありきたりな言葉で逃げて、スコーンを割る。クリームとジャムを割った断面にのせて、齧り付いた。


(うん、やっぱり伯爵邸で出されるものは一級品ね)


 美味しい、と脳内で繰り返して、わざとらしく意識を逸らす。

 彼がスコーンを齧る乾いた音も聞こえた。

 喉が水分を欲していて、渋さが強いだろう紅茶を手に取る。


「ローシェは恥じらう姿も可愛らしいですよね。必死さが伝わります」


 喉を伝っていく紅茶は甘ったるかった。





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