【15】
それから数日、何事もなくローシェは過ごした。
彼に課した課題の報告はもらっていない。
彼が話をする女性は、毎日関わる仕事仲間ではないのだろう。
ローシェは彼が課題に取り組まない線を考えていない。自分の言葉ひとつひとつに向き合ってくれる人だと知っているから、考える必要のない可能性だった。
その間にも、ローシェは着々と次の段階への話を進めていく。準備といっても、彼が邸にいる時間帯に人を招いてもらうよう夫人に頼むだけだ。
彼が女性との関わりで忌避するいざこざが生じない相手と考えると選択肢は限られる。
デオロット伯爵家が日頃から懇意にしている宝飾や服飾のデザイナーや、画家、多様な雑貨を扱う商人や、音楽家。名が売れ始めた新進気鋭の者を新たに招くでもよかった。
名声が必要な職に就いている女性を、仕事として招く。
話術に長けた仕事人が良い。商人でなくとも、客とのコミュニケーションの良し悪しが評判に影響される。
画家だから絵さえ描けば良い、音楽家だから楽を奏でれば良いともならない。もちろん突き抜けた異才があれば、愛想がなくともそれだけで仕事が舞い込むだろう。けれど、大抵の人は相手の人柄も含めて選ぶ。
さりげない会話から客の趣向や好みを把握して、絵の印象を整えたり、演奏曲を決める。自分の才能を仕事にするには、客との取り隔てないコミュニケーションが次に繋がると知っている者達。
彼が会話を試みる練習相手に最適だ。
例え彼に恋心を抱いたとしても、仕事として招かれたプライドがある。一時の衝動的な感情に身を任せたら積み上げてきた経歴が崩れ去る、どうしようもない身分差を理解している。
それはまさに――
(私と同じ立場の方々が、最適なの)
ローシェは息をつく。
彼が去っていった伯爵邸で、彼のいない庭園を窓から見下ろして、息を吐く。
落ちるのが恐い。
崖の上の一本道を踏み外してしまわないかと、不安だった。
*
ポットを傾けると香り立つカモミールの甘い香りが、数センチ開けた窓から流れ着く夜風で拡散されて、散らばっていく。それが二度、三度と繰り返されて、部屋中がひとつの香りに包まれる。
彼がハーブティーも飲めると知ってからは、就寝前の書斎での時間にハーブティーを用意することが増えた。紅茶とブレンドする日もあれば、純粋にハーブティーを楽しむ日もあって、今日がそうだ。
黄味がかった透きとおる水色は温かくなってきた初夏の終わりに、涼しさを与えてくれる。すっきりとした味わいも、一日の疲れが溜まった体に心地良く流れていく。
「貴女からの課題ですが」
とん、とんと彼の指先が一定の感覚で肘掛けを叩く。
どことなく上の空だな、とローシェは思った。
「機会がありましたので、会話を続けてみました」
視線は少し落ちていて、目が合わない。当時の状況を思い返しているのだろうか。
「如何でした?」
彼の指先がゆったりとした音を刻む。
雨粒がぽつ、ぽつと肌に落ちてくるような、音と呼ぶにはささやかな振動。
(待ちましょう)
ローシェの問いかけは彼の耳に入っている。
それでも、やはり上の空だった。悩んでいる姿というより、現実味のない出来事に直面したかのような浮遊感を彼から感じる。
会話を急ぐ必要はないのだから、と湯気ののぼるカップを持ちあげて口元に運ぶ。
視線を彼から外したローシェは、真っすぐすぎる彼の言葉が耳に飛び込んだ。
「私は恋をしているのだそうです。私は貴女に恋をしているのか、と考えていました」
「――――ッ!?」
口に含んでのみ込もうとしていたカモミールティーが、何を思ったのか気管に入り込む。
慌てて左手を当てて、閉じた口の中でせき込んだ。
喉が詰まって苦しいなかで手にしていたカップをソーサーに戻し、それからは両手で口元を覆う。
「大丈夫ですか」と立ち上がりかけた彼を手で制してから体勢を左へと背ける。それから姿勢を低くして、こほこほと何度もせき込んだ。
息苦しさが引きはじめると、今度はどうしよう、と両手で口元を覆ったまま瞼を閉じる。
必要のなくなった咳をさも自然に続けながら。
(私、今何を言われたの――?)
いくら動揺しても、耳を疑う言葉でも、彼の良く通る綺麗な低音が耳の奥に残っている。
息遣いや言葉の間、些細な抑揚までも記憶されているから、聞き間違いとも疑えない。
浮付いて急速に早くなる鼓動を「違うわ」と厳しく諫める。
それからもう一度だけこほん、と咳払いをした。
「すみません。取り乱しました」
体勢を正すと、あからさまに心配を滲ませた眼差しを寄越す彼がいる。
ローシェはもう動じまい、と顔に力を入れて微笑みをつくりだす。
「一旦、ことの経緯をお聞きしても構いませんか」
「はい。殿下のもとに皇女殿下が訪ねて来られまして」
「皇女殿下が……」
まさか、課題を皇女相手に実行したのだろうか。
近衛騎士の彼ならば皇女とも会う機会があると分かっていた。第三皇子と皇女の個人的な付き合いの時には会話もするかもしれないとも思っていた。
けれど課題の意図を聞いた上で頷いた彼が、皇女に会話を試みる可能性は排除していた。
彼が話している最中にも関わらず呟いてしまったローシェは、あっと心の中で後悔する。
彼を疑ったことを気づかれてしまったからだ。
けれど彼は面白おかしく笑った。ローシェにとって当たり前の常識が彼にはないと疑われたことに、嫌な顔ひとつしなかった。ただ言葉に出さず、ささやかな笑いでローシェを許してくれていた。
「はい。その際に皇女殿下の侍女とやり取りをしまして。時間に余裕がありましたので、皇女殿下の装いを褒め、一式整えた彼女の腕を称えました」
「まあ。侍女の方も仕事をお褒めくださって喜ばれたことでしょう。皇女殿下はどのような装いを?」
「白と薄紫を基調にした衣装です。使われている香水がラベンダーの香りでしたので、統一していたのでしょう。髪飾りにもラベンダーを使用していましたし、差し色に青紫を使われていました」
すらすらとポイントを押さえて告げる彼にローシェは感心して微笑む。
彼は相手をよく見ているし、相手が何を誇りに思って喜びとするかを察せる人ではないだろうか。
これまでは敢えてしなかっただけ。
練習などなくても良いのかもしれない。
それでももう少しだけ、と様子見する期間をローシェは設ける。既に伯爵邸に招くと話をつけた職人たちがいる。その間に、まだ話したことのない女学院での話や、意識する点を伝えていけばいい。
与えられた仕事の終わりを見定めたローシェは、行き場のない気持ちの終点も一にする。
陰った思考を知ってか知らずか、彼は「そうしましたら」と続けた。
「殿下に聞こえたようです。驚かれたのですが、皇女殿下が恋は人を変えるのだと仰られていました」
「まあ……そうでしたか……」
彼の突拍子のない発言の経緯を理解したローシェは心の中で唸る。
夫人の話によると彼は職場で女嫌いと有名だったようだから、それを知っていた第三皇子殿下が驚いてしまったのだろう。もしかしたら、王女殿下やその侍女も知っていたのかもしれない。
人が突然変わる場面を目にした際、心の在り方を変える転機が訪れたと誰もが思う。
それを皇女殿下は「恋」とみなしたらしい。
恋が人を変えるという皇女殿下の発言は頷けるが、今回ばかりは否定する。彼に訪れた転機は、夫人が女学院の教師を雇ったためだ。
(ユーグ様だって分かっているはずなのに、どうして鵜呑みにしてしまったのかしら)
恋愛面をとことん拒絶していたからこそ、言われたまま納得したのか。困ったお方だわ、とローシェは苦々しく目を細める。
「ユーグ様は皇女殿下のお話を聞いて、勘違いなされたのですね」
「勘違い、ですか」
「ええ。ユーグ様がこれまで親しくなった女性がいらっしゃらないのなら、私がその一人目になったと思います。他を知らないから、特別だと思い込んでしまうのです。ご友人や知り合いの方々で、幼少期にメイドや家庭教師に恋心を抱いた方がいらっしゃいませんでしたか?」
「――いましたね」
「その方々は、今は他の女性と恋をされていませんか」
「そうですね」
彼の頷きにローシェは胸を撫で下ろす。彼の知る人物が、大人になった今でもメイドや家庭教師を一途に想い続けていたのなら、それは勘違いでなく、心の底から愛しているのだろう。例え話に使えない事態に陥らなくて安心した。
「同じようなことです、ユーグ様。今後、社交の場に参加なされたり、お見合いの場に行くようになるでしょう。多くの女性と関わって、それから貴方の本当の恋を見つけられると思いますわ」
片時も逸れることなく向けられる彼の眼差しに、ローシェは微笑む。
政略結婚だとしても、その相手に恋をしてほしい。自分にできることは、そんな彼の幸せを願うことくらい。願うしかできない、自分の立場を理解しているつもりだ。
「貴女は、私の好意を喜ばないのですね」
彼は思案していた。
目線は合っているのに、今も上の空にも見える。
何を考えているのだろう。
そんな彼を少しでも知りたくて、ローシェもまた考える。
「そのようなことはありませんわ。生徒からの好感は嬉しいものです。ユーグ様は恋愛における感情と勘違いをしていらしたので、先に訂正しなければいけませんでしたが、喜ばしく思っていますよ」
そうしてローシェは教師らしく言葉を返した。
教師として嬉しい、と彼に伝えながら自分に言い聞かせた。