【14】
それからの日々は、毎日が色鮮やかにローシェの見る景色を変えていった。
彼の案内で邸内を歩き、壁や廊下を華やかに飾る絵画を立ち止まって見上げた。
至る所に品よく置かれた美術品を眺めた。
居合わせた伯爵や夫人、執事がその品のもつ歴史を説明してくれて、二人して聞いた。伯爵邸にやってくるまでの経緯とものを通じて生まれた縁。デザインのモチーフになった逸話。そういったものを知るごとに、見る目が変わっていく。
それが面白いとローシェは思っていて、彼も真剣だった。
時には、一冊の本を題に挙げて、感想を伝え合った。
同じ内容を読んでいても感想はまるで違う。時には解釈まで異なっていて、自論を話し合った。
自分の身に備わった様々な知識を重ね合わせて自論が生まれる。学んできたものが違うから、持ち出す例えも違って、知らない知識の一端に触れる。
そこから始まる勉強はとても楽しく、時間も忘れて没頭できた。
彼の睡眠時間が削られていないかと心配にもなった。
剣術に関する本は彼の書斎にも並んでいる。図案を見て、文字を負うだけではイメージが朧気で、彼に手本を頼んだ日もあった。
忠実に再現し、剣を振りながら注意点を口にしていく彼は師範のようだった。
騎士の仕事では師範のようなこともしているのかと問えば、彼は首を振った。若手騎士への剣術指南は長年経験を積んだ熟練の騎士に任されているらしい。
彼が歳を重ねたら任されるのだろうと思ったが、その時には爵位を継いで、騎士でなくなっているかもしれない。見てみたかったわ、なんて有り得ない感想が浮かんでは消えた。
彼に「私にお勧めの本はございますか」と尋ねられた日もあった。
小説でも構わないと了承を得たので、女性の繊細な心理描写が記された恋愛小説と詩集を渡してみた。
彼は淡々と、一定の間隔で文字を追って、最後のページまで読み切った。
「理解しがたい描写があります」と告げた彼の話を聞くと、女性の主人公の感情が揺れ動く理由や急激な変化への疑問だった。
「正解というものはございませんが、私はこう思いました」と主人公の感情の変化を想像したローシェに彼は頷いていた。
彼が仕事に行っている間に、カルデリア女学院の同僚たちから各々の答えをもらったローシェは、紙にまとめて彼に渡した。
女性の心は実に複雑ですね、と眉根を寄せていた。けれど、関わりたくないといった感情よりは、理解しようと苦心しているように見えた。
彼が女学院での教育に興味をもったので、口外できる範囲でローシェは彼に伝えた。
護身術も学ぶと言えば「では確かめましょう」と彼を相手に実技を披露した日もあった。
そういった授業があると伝えただけで、ローシェは教師として担当していないし、授業を受ける側だった時は大の苦手科目だった。
現役の騎士相手では手も足も出せず、彼は「貴女が何をして身を守ろうとしているのか分かりません」と呆れていた。必死に言い訳を重ねて「生徒は私よりも優秀ですよ」とまとめたのだが、彼が真に受けてくれたかは疑問である。
彼と過ごす時間は日に日に伸びて『書斎で過ごす30分間』が必要なくなっていた。二人で会話をする時間を設けなければ交流が生まれなかったのに、最近はいつだって彼と過ごして、会話をしている。
(私はもう必要ないのかもしれないわ)
いつの日からか考えたくなくなっていた。
夫人から「近況はどうかしら」と問われた時に、何を答えれば良いのか。
そんなことすら考えてしまう。
(私ったら駄目ね。恋愛指南役として来ているのに)
立場が逆転する日もあるが、恋愛要素のない指南が増えつつある。
女学院や生徒たちの話を合間合間で差し込んでいるので、彼の関心を引く一助になっているはずだが、その目的は既に達成できているといえた。
(次の段階に進みましょう)
ローシェは頬に力を入れて笑みをつくる。
喜ばしいはずなのに、上手く笑えてない気がした。
*
「ユーグ様は実は会話を好まれる方ですよね」
「初めて言われましたが、貴女がそう思うのならそうなのでしょう」
彼は表情を変えるようになった。
他の人と比べたら笑みとは思われない微々たるものだが、よく微笑む。目元が細まって釣り目がちの眦が柔らかくなる。口元が少しだけ弧を描いて、あがった頬に自然な艶がのる。淡々とした口調は変わらないのに、見違えるほど柔らかくなった。
真っすぐに響く声音もやはり、角がない。
「ええ、私はそう思いますよ。これまでは関心を向けなかったから話す必要性を感じなかったのではないですか」
「一理ありますね」
今日は彼の休日。
気持ちよく晴れた昼下がり、開け放った窓からは百合の香りを纏った風が緩やかに吹き入る。肌を撫でる風は、徐々に温かくなりつつある。
もうじき、本格的な夏が訪れる。
「そうとなれば、久しぶりにユーグ様に課題を課したいと思いますわ」
「課題ですか」
「ええ。ユーグ様はお仕事中に話をされる女性はいらっしゃいますか? もちろん仕事の話で構いませんよ」
「――います」
少しの間ののち頷いた彼にローシェも頷く。
王宮で勤める事務官や事務補佐官の中には、少数だが女性も働いている。
教師になる前はローシェも王宮からの求人を探したのだが、残念ながら募集時期が過ぎた後で、申し込むこともできなかった。
「では、次にお話をする際は、言葉数を増やしてみてくださいませ」
眉間に力が加わった彼をローシェは見る。
彼の顔立ちを引き締める直線的な眉が動くようになったことが、柔らかな雰囲気が生まれた最大の要因だろう。彫刻像よりも彫刻らしかった彼の面影がない。
「私と会話をするように、仕事の延長線にある何気ない話題が良いですね。突拍子もないお話ですと、突然のことに驚かれてしまわれますから」
「課題の意図を伺っても?」
「ユーグ様の女性に対する意識は変わられたはずです。次に婚約者候補のご令嬢にお会いする際は、お相手の人となりを知る努力をなさってくれるでしょう。ですが、ユーグ様が自らの意志で女性との会話を試みた経験は数少ないですよね。慣れるための練習ですわ」
話し終えたローシェが笑むと、彼は視線を落とした。
くすみのない綺麗な肌に長い睫毛の影が落ちる。
それからゆっくりと、全ての音を消し去るように持ち上がった彼の眼差しに、ローシェは息を吸う。
「貴女がいます」
飾り立てる言葉のない率直な物言いに、どきりとした。
彼は必要なときに口数が少ない。妄想じみた誤解をしそうになって、ローシェは自分のために首を振る。
「いけませんよ。初対面の方とも自然に会話ができるようになっていだだかないと。仕事の延長であれば、お相手の方がユーグ様に好意を寄せられていると誤解なさる可能性は低いです。友好的な関係づくりにもなりますし、はじめの練習相手に良いでしょう?」
「はじめということは、相手を変えて何度もあるのですね」
「はい。そうですよ」
揺るがない彼の視線に、ローシェも負けじと笑みを深める。
カチ、カチと壁掛けの時計の針が回っていく。
そこに彼の指先が肘掛けを叩く小さな音が重なって、彼の息が吐かれた。「分かりました」と呟いた彼の面差しは陰っていて、ローシェは耐えきれずに底だけを満たすコーヒーに視線を落とす。
深煎りのコーヒーは量が減って色合いが薄まっても、カップの影で黒く見える。
口に含むと奥深いコクと強い苦みが下の上で交錯する。
彼との関係性を表しているみたいだ、と思った。
傾けると底が見え始めたカップをソーサーに戻す。終わりに近づくたびに苦みが強くなる気がして、飲み干せない。
――飲み終えたくない、と思ってしまった。