【13】
彼の勤務時間が変わって仕事終わりの食事が別になってからは、都合の良い時間に呼んでもらうことにした。
従者のサロモンが呼びにきてくれて、ローシェは書斎を訪ねる。階段での移動が多くなるローシェを気遣って、サロモンがティーセット一式を乗せたトレーを運び入れてくれた。
「貴女の専攻はなんです? 女学院では何を教えているのですか」
紅茶をひと口味わってから、彼から借りた本の感想を伝えて話を膨らませていこうと思っていたローシェは感心した。
「まあ、ユーグ様の予想を聞いてみたいですわ」
彼が尋ねるのは興味の表れだ。
疑問に思ったところで終えたのか、その上でこれまでの会話を振り返って予想を立てたのかが気になった。
「芸術科目ではないですか」
思考する時間をつくらずに早々と答えた彼にローシェは喜びの色をのせる。
「半分正解です。女学院では実技の授業もありますが、美術品や宝石類の目利き、眼識を高める授業もありまして、私はその補佐についています」
貴族相手に贋作を高値で売りつける商人もいる。取り扱う品の全てが贋作ではなくて、数ある商品の中の一部に紛れ込ませるのだ。
邸内の調度品や衣服、宝飾類の保管や調達は妻が担うことが多く、ものの価値を見極める目は重要になってくる。商人の言葉を鵜呑みにせず、真偽を見抜く知識も必要だ。
「高位貴族の屋敷や王宮にも出入りされている美術商の奥方を教師に招いているのですよ。名のないものの価値も逸早く見出しておられる、尊敬する先生なのです」
「そうでしたか」
「はい。私が生徒に教えるのは、主に基礎科目ですね。礼儀作法に語学と数学、地理と歴史は数人の教師で受け持って、毎年担当を変えています。他ですと、いくつかの外国語も補佐に入っていますよ。外国から教師を招いているのですが、常駐ではありませんので」
「そんなに多く担当されているのですか」
凝視する彼の姿に驚いて、ローシェは首を傾ける。
それから慌てて両手を振った。
「伝え方を誤りましたわ。女学院ではどの科目も専門的な学者をお招きしているのです。私はその教科を受ける前段階の基礎を教えています」
彼の通っていたシア・ランデル学園は基礎から高度教育まで一人の専攻学者が担っていると聞いたことがある。同様に彼が考えたのなら、ローシェは並外れて優秀な頭脳と多岐に渡る知識をもった偉人になってしまう。
「ですから、ユーグ様がご想像なさるほど難しいことは教えていないのですよ。誰もが通る基礎ですから」
残念ながらローシェにそんな才能はない。人並みでは女学院の教師を名乗る以上面目が立たないので、人並みよりも少し良い方だと思うことにして、その分知識を深めるための勉強を怠らないようにしている。
本当に、同情からの縁故採用なのだとつくづく思う。
気を抜くと消え去っていきそうな微笑みに力を入れて、消え入りそうな湯気の立つ紅茶で満たされたカップに手を添える。
自分の言葉で冷えてしまった指先がじんわりと温まった。
「基礎がなっていなければ、名だたる学者から何を学ぼうと身になりません。女学院の生徒が優秀なのでしたら、基礎を任されている貴女方の成果でしょう」
同じように、彼の言葉がローシェの心にぬくもりを添える。
平坦な彼の声音はとても暖かく、ローシェの心に真っすぐに届く。淡白すぎる彼の声も表情にも、今後恐怖を感じる日はこないだろう。
「ありがとうございます。――ユーグ様」
「礼を言われることはしていません」
風景を眺めるようにローシェから視線を外さない彼に目を細めて微笑む。
彼は変わった。心に張った壁が薄くなってきているのを感じている。
教師として信頼されてきていると思ってもよいのだろうか。
その答えを知るのはまだ先でも良い気がした。
夫人から報酬をもらって仕事をしている以上、緩い気持ちで日々を過ごしてはいけないのだが、心の中で思うくらいは良いはずだ。
そんな自分を許したい、とローシェは思う。
沈黙の中で目を合わせて、彼の視線が伏せられる。
湯気の見えなくなった紅茶を飲み干して、空になったカップを静かに置いた。
「お注ぎしますか」と問えば「お願いします」と返ってくる。
こぽこぽと流れる水音がして「どうぞ」とローシェが声をかける。
沈黙は訪れなかった。
「邸内は既に見られていますか。伯爵家ですから、至る所にそれなりのものがあります」
彼のさす「それなりのもの」は美術品の類だろう。伯爵邸にはそれなりどころではない品々がそこら中に飾られている。手のひらに収まる小さな置物の値段だって計り知れない。
「夫人に邸内を案内していただいた際に少しだけですが、遠目から眺めましたわ」
「一人でいらっしゃる時には見て回らないのですか」
「私は招かれた身ですが、客人ではありません。立場の異なる使用人ですわ。誤解の生む行動は控えていますので、なかなか機会はないのです」
「そうですか」
訪れた沈黙が苦にならない。
彼は思案している。ローシェは冷えた紅茶を飲みながら、のんびりと待つ。
彼はどうして話を巻き戻したのだろう。そんなことを考えていた。
「では、時間がある日は私と見てまわりましょう。貴女の瞳にはどう見えているのかを私に話してください」
「――よろしいのですか?」
瞬きを繰り返したローシェは思わず尋ねる。
彼が一緒にどうかと誘ってくれている。立場を考えて一人歩きを控えているローシェに気を遣って付き合うのではなく、彼にも目的があるお誘いだった。
「貴女の話を聞いて、私も同じものを時間を変えて見るように意識しました。どれも同じ品に見えます。私はそういった類には興味がありませんでしたので、それなりの贋作であれば気づかないでしょう」
彼の語りに耳を傾けていたローシェは大きく頷いた。
「贋作でも質の良いものは素晴らしいですものね。作り手には素敵な才が潜んでいるのだと思います」
その才能で独自の品を生みだしてほしいとローシェは思ってしまうが、彼らも需要があるから贋作をつくるのだ。
それと知らずに高値で購入する者もいれば、贋作と知った上で安値で購入する者もいる。表面上は見栄を張りたい貧乏な貴族や、中流階級の平民が優雅な貴族の真似をしようと買うらしい。
贋作を理由に値下げ交渉をしても、ローシェの給金では手の届かないものも溢れている。
「お誘いいただきありがとうございます、ユーグ様。では、お声がけいただけるのを楽しみにしておりますね」
「はい」
一度では終わらない約束を交わした。
彼が望んで、誘ってくれた。
(今から待ち遠しいわ)
嬉しくて破綻してしまう顔は、手にしたカップで隠すことにした。