【12】
翌朝、身なりを整えていたローシェは己のミスに気付いた。
彼の起床時間を聞いていなかったのである。
丸一日休みの時に、彼は心ゆくまで眠るタイプだろうか。それとも朝早くに目を覚まして活発に過ごすだろうか。
これまで見てきた姿を思い返して、後者かなと予想してみる。活発に動き回る姿は想像つかないが、日差しの弱い早朝に剣術の訓練をしている姿は思い描ける。
壁掛けの時計を見ると時刻は7時を過ぎていた。食事はいつ頃になるかと考えて、それからまた「あっ」と声を上げた。
(違うわ。今日はお休みだもの。ご家族で食事をなさる日だわ)
夫人はおおらかで「食事を供に」と誘ってくれたけれど、ローシェは家庭教師だ。雇われている身で使用人のようなもの。女学院の教師だから優遇してくれているが、本来なら有り得ない好待遇を受けている。
家族水入らずの場に同席するなんて、場違いにもほどがある。
夫人の誘いは有難くもお断りして、ローシェは使用人の食事に同席させてもらうことにした。時間が合わなかった時には余りものをいただいて部屋で済ませることになっている。勤務時間と呼べる決まった時間がないので、外にでて食事を済ませるのも良いだろう。
明日から彼は朝早くに邸を離れ、夕方に帰路につく。勤務時間が伸びなければ、伯爵夫妻の夕食に間に合うため、家族揃って晩餐の席につく。
ローシェが彼と食事をする頻度は減る。
それを少しだけ残念に思ってしまった。
(何はともあれ、まずは食事を済ませておきましょう)
デオロット伯爵邸では主人の食事を終えた後に使用人が食事を摂る。
今日は彼と書斎で過ごすと決めているので、今のうちに食事を済ませておいたほうが良い。
(葉野菜を少し分けてもらって、サラダとパンで済ませようかしら)
ドレッシングはオリーブオイルと岩塩をかけよう。伯爵邸で使用している食材や調味料は質が良い。シンプルだからこそ、素材の良さをそのまま味わえる。
合わせる飲み物はハーブティーが良い。昨日フルーツティーに使う果物を買いに行った際に、折角だからと色々な種類のハーブを買ってみたのだ。
女学院で日々特訓しているので、それなりに美味しい淹れ方ができるはず。
そうしましょう、と笑顔をつくってローシェは部屋を後にした。
*
半地下のキッチンでコーヒー一式を用意して書斎を尋ねたローシェは、すぐに目に入った本の山に綻んだ。
最低限の物が整理整頓された殺風景な彼の書斎には、サイズも厚みも異なる書籍が平積みに置かれている。
その横の空いたスペースにトレーを置いて、定位置となった席に腰を下ろした。
「おはようございます、ユーグ様。此方が先日お願いした本でしょうか。早速ご用意してくださったのですね」
「貴女にはつまらないものばかりかと思い、数冊選んでおきました」
「嬉しいお心遣いをありがとうございます。気になりますが、先にコーヒーをお注ぎしますね」
一番上に置かれた本は、表題から国内の地理に関する書物と分かる。目にしたことのない表紙だったので中身を開きたい気持ちが逸るが、まずは飲み物の用意だ。
コーヒーは調理場で豆から挽いてもらった淹れたてを運んできた。コーヒーサーバーからカップに注いで、彼の前に差し出す。添える菓子はコクの深いチョコレートだ。
動作を眺めていた彼が、真一文に結んでいた唇を開く。
そのことに気づいたローシェは少しの間待ってみた。
「母から、貴女と上手くやれているかと聞かれました。私の話はなさらなかったのですか」
(過去形ということは、夫人と二人でお茶をしたことを聞いていらっしゃるのね)
ローシェは一度、夫人に声をかけてもらい、ティータイムを過ごしたことがある。百合の花が咲き誇る中庭で、王都で話題のケーキをいただいた。
「夫人は私に一任してくださっていらっしゃいます。私はまだユーグ様のお人柄を知っている最中ですので、お伝えすることは何もございませんわ」
では何を話すのか、と言いたそうな気持ちを彼の淡白な眼差しから感じ取って、ローシェは続ける。
「夫人とは女性の間での流行について話していましたの。社交界でも流行があるように、女学院でも生徒達の流行があります。招待状へのこだわりや、お茶会で飾る花々の飾り方ですとか。どちらも最先端を追っているので似ていますが、年代や集まりの趣旨が違いますと少しずつ独自の流行がつくられていくのですよ」
「それは楽しいのですか」
彼は感情を表に出さないからこそ、整った顔立ちのせいで咎められている気になる。けれど、ローシェは他の方が重要だった。
(ユーグ様はご友人とも流行りの話をなさらないようね)
流行を追い求めるのは女性だけではない。社交界では男性も人目を惹く差し色やブローチ、タイに拘りをもって、品格を感じさせる重厚なデザインで誂えた礼服に華やかな印象を取り入れている。
それに、日常的に着用する衣服も多くの貴族はオーダーメイドだ。それこそ個々の拘りが見えてくるのに、彼が着用する衣服はいたってシンプルで、飾り気がない。
素材が良いのでそれで充分、とは彼にも言えた。
「ええ。ほんの少し変えるだけでも印象は変わります。大勢の方に好まれるから流行になるのですわ。分析したら、季節の変わり目での変化も想像できますから、行商人も必死になって耳を凝らす話です。領地内での流行を自ら生み出せるご令嬢もいらっしゃいますよ」
「そういうものですか」
「もちろん得手不得手がありますから、ユーグ様は妻に迎えられる方のお人柄をお知りになってください。その上で、その方の能力を活かす道を話し合っていただきたいですわ」
恋愛指南の四つ目。
結婚相手の人柄を知って、能力を活かせる道を二人で探してほしい。
女性の役割は子を成すだけだと思っている殿方がそれなりにいる。ローシェはそれは違うと断言できるし、目の前でそう話す者がいたら、奥方の能力を押し殺しているのは貴方だと言い返したくなる。
優劣の話ではなく、ものを見る視点や感性は人によって違う。彼女達が経験から培った能力を閉じ込めないでほしい。直向きに努力する生徒の成長を見守ってきたローシェは、その先に努力を開花させる場所があることを願う。
願うことしかできないのだ。
政略結婚で結ばれる相手が直面する世界を広げてほしい。彼はそれができる人だ。
「分かりました」
素直に頷く彼にローシェも微笑む。
コーヒーに口をつけてから、気になっていた平積みの本を一冊手に取った。
「国内の地理に関する書物ですね。似たような書籍はいくつか見ておりますが、こちらは私が拝見したことのないものですわ。これから読むのが楽しみです」
「そうですか」
「ええ。こちらは……戦術の考察のようですね。こちらは薬草学ですか。」
一冊ずつ手にとったローシェは、表題に目を通して頷いていく。
「医学の書も読まれていらっしゃるのですね。最後は――毒物ですね」
一番下の本まで目を通したローシェは、感心しながら本を整えて戻していく。
中身に目を通していないが、彼が騎士として必要な知識の専門書であることは分かった。
どこに重点を置くかはそれぞれだが、こういった関連の学識は彼が通っていた学園や養成所で一通り学んでいるものだ。
試験に合格して騎士になってしまえば満足感から怠ってしまいがちな勉強を、彼は改訂版が出る度に新たな知識や見識を学び、復習する機会を設けている。意識が高く、努力をひけらかすことなく。日々の剣術鍛錬のように実直に向き合っているのだろう。
(デオロット伯爵家は安泰でしょうね)
彼が爵位を受け継ぎ、領主として領地を守る姿を想像してみる。領地の危機にも上手く立ち回っていく姿が容易に思い浮かんだ。その隣に立つ女性の姿はまだ朧げだ。
彼の気づかない部分に目を向けられる知的な女性が合いそうに思うが、彼をあまり知れていないので想像がつかなかった。
「戦術や医学、毒物あたりは好まれないでしょう」
「いえ、そんなことはございませんよ。確かに戦術と医学は私は詳しくありませんが、こちらの毒物の本は読んだことがあります」
一番下に置かれた本。装丁と題目を目にして、女学院の教員室にある同じ本を思い出した。
「それは仕事でですか」
「ええ。女学院では現物も厳重に保管してありますよ。色や臭い、水や銀食器への反応を見たほうが記憶に残りますから、生徒にもその機会を与えています」
改訂版が届いたら、本の内容と現物をひとつひとつ丁寧にチェックしていく。毒物を仕舞った棚を一人で開けることは禁止されているので、数人で作業に取り掛かる時間を設けなければならいのだ。
改訂版が半年ほど前に出たばかりなので、記憶にも新しい。
「何故です」
「嫁ぎ先の殿方が周りから恨まれている場合もございますから。身の危険を察知するための授業ですわね。場合によっては殿方の命も守れるかもしれません」
「そうですか」
口を閉ざした彼にローシェは微笑んだ。
「女学院の生徒は皆、高度な教育を受けています。ぜひ、ユーグ様に興味をもっていただきたいですわ」
「そのようですね。確かに、私は貴女方の教育を甘くみていました。謝ります」
言葉だけでなく頭まで下げようとしたので、ローシェは慌てて止める。
彼は反省して謝罪までしてくれた。それで充分だ。
以降、ローシェはひたすらに本を読んで過ごした。
彼もまた自分の時間を淡々と過ごしていた。
柔らかく温かな初夏のそよ風が舞うように心地よかった。