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10/23

【10】

 


 こぽこぽとリズミカルな水音が室内を満たす。

 七分目まで注ぎ終えると、彼の前へと差し出した。


「どうぞ」


 微笑みを湛えて、少し待ってみる。

 彼に課した課題を待ってみた。


 時間を刻む針の音色に耳を傾けながら、ローシェは気長に待つ。

 伏せられていた彼の眼差しが紅茶へと移り、香りを楽しむように一口飲んで、ローシェを真っすぐに見た。



「貴女は常に私のことを見ていますよね。何故です」



 感情ののらない彼の瞳は平坦で、揺るぐことなく最短距離で届く。逸らされることもない。


(私個人への問いかけだわ)


 ローシェは笑みはそのままに驚いた。

 課題を伝える際、あえて例を示してみた。彼の思考の一旦に触れたかったので、何を聞かれても良かったからだ。恋愛指南に絡めた内容でなくてよかったから、あえて恋愛とはかけ離れた例も交えた。


 けれど、振り返ってみれば彼の疑問は極自然だ。


「ユーグ様が私の生徒だからです。生徒を知るためにも、まずは顔を合わせたいと思っております。――ですがユーグ様がお聞きになりたいのは、こちらではないですよね」


 ローシェは苦笑する。

 表立った理由を大義名分にして、個人的な嗜好で彼を視界に留めていた。それを正確に見抜かれていたのである。


「失礼にあたるかもしれません。構いませんか」

「どうぞ」


 純粋な疑問か、遠回しに責められているのか。どちらだろう。


「私、美術品の鑑賞が趣味なのです。絵画や彫刻像、壁画や工芸品。骨董品も好きですわ」


 唐突な、これまでの流れを無視したローシェの話に彼は眉を潜めた。


「生み出された作品はいつ見ても同じものなのに、まるで違います。時間帯によって陽の当たり方や照明の色合いが変わります。他の方々の話し声や雑踏、雨の音や楽団が奏でる音楽。音と呼べるもののない時もやはり違います。私の感情次第でも、見て感じとる情景が変わってきます」


 それでも口を挟まずに耳を傾ける。伝えたい返答を読み取ろうとしてくれていた。


「素敵ですよね。いつ見ても不思議で、同じ作品を何度も見たいと足を運んでしまいます」


 時間の許す限り、留まって見ていたい。いつだってそう思ってしまう。


「私もそうだと?」

「ご気分を害されたのなら謝ります」


 膝の上で手を揃えたローシェは浅く頭を下げる。


「ユーグ様はいつだって絵になる御仁ですから、意図せず女性の関心を惹いてしまうでしょう。ですが、必ずしも恋愛における好意が生まれるとは限りませんわ。息を呑むほどに美しいから見てしまうのです」


 非の打ち所がない彼の顔立ちは精巧過ぎるからこそ、表情のない真顔が生身の人形のようで怖くもある。同じ人間とは思えないほどに美しいから。


「夜会の煌びやかな会場も、花が咲き誇る庭園も、空から差し込む眩い陽光も。人の出歩かない闇夜や、土砂降りの雨の中、薄暗い廃墟にいたとしても、その環境全てが貴方のために整えられた舞台のように思えてしまうでしょう」


 光を遮られた土砂降りの中で、漆黒の外套に身を包んで佇む姿が今でも脳裏に焼き付いている。

 絶対に関わることはないと思える安全な距離にいたのなら、逸らさずに彼を見ていただろう。


「スポットライトを一身に浴びる演者のように際立つ貴方を見てしまう。それだけの方も大勢いらっしゃいます」


 恋愛指南の三つ目。

 集まる数多の視線に辟易しているのかもしれないが、どうしようもないのだ。美しいものには誰だって目を留めてしまう。時を忘れて魅入ってしまう。一目惚れだって多いだろうけれど、必ずしも恋愛感情が生まれるとは限らない。

 分かっていても、身構えてしまう気持ちは想像できる。だからといって、関わりを絶とうと思わないでほしかった。


「――貴女もそれだけなのですか」

「ええ。ですが、流石に不躾でしたね。もしかして、時折私に視線を向けられていたのは気が散るからでしたか? 凝視されていたら誰だって嫌ですもの。申し訳ございません」


 再びローシェは頭を下げた。


「私が?」


 頭上に、あり得ないといった響きが振りかかる。

 姿勢を正したローシェは、ほんの僅かに目を見開いた彼に見られていた。


「私が、いつ貴女を見ていましたか」

「ええと? 剣の訓練中や、食事の間も数回、会話をしていなくても目が合いました……よね?」


(もしかして、私の勘違い? そうだったら恥ずかしいわ)


 思わず開いてしまった口に手を当てる。

 思い返しても、彼と目が合った記憶が残っている。けれど、期待から生まれた思い違いだっただけかもしれない。


 途端に気まずくなって視線を泳がせたローシェに、彼は口を開いた。



「人の視線には慣れていますし、貴女は私を凝視しないでしょう。私を風景の一部に数えているのですから、気にしていません」



 女性に対して、敢えて労りをしない彼の言葉は本心なのだろう。


「貴女が邸に留まらなければならない原因は私です。邸内での僅かな気晴らしを奪うつもりはありませんので、ご自由に」

「お気遣いありがとうございます。ユーグ様はお優しい方ですね」


 彼は充分に相手を思いやる心を持った人だと知れた。

 女性に対して張った分厚い壁が薄くなれば、自ずと夫人の望みは叶いそうだ。


「今日はこれまでで」と去っていく彼の後ろ姿に、ローシェは再び頭を下げて礼をするのだった。





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