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1/23

【1】

 


 脚を覆い隠して広がるスカートの中では両足が忙しなく動いていた。

 その度に細いピンヒールが床を叩く。

 道なりに敷かれたカーペットによって音が吸収されて甲高い靴音が鳴り響かないので、注視しなければ急いでいると思われないだろう。


 定時の30分前。

 その時間が定時だというように出勤したローシェは、同じように毎朝仕事を始めている同僚から、初めてみる憐れみと同情と気の毒さを込められた眼差しを向けられた。


 曰く、学院長が首を長くしてお待ちだと。

 出勤次第、至急学院長室に来るようにと。


 同僚からは大層上機嫌に見えたらしい。「お叱りでないことは確かよ」と送り出されたのに、可哀想な人を見る目が変わらなかったということは、どういうことだろう。



 長い廊下の先にある解放された扉を潜り、デスクで爽やかな笑みを浮かべる秘書へとローシェは会釈する。


「おはようございます。学院長がお呼びと伺って参りました」

「おはようございます、ローシェさん。学院長は中でお待ちですので、どうぞ御入りください」


 すい、と流れていく彼女の手のひらの先には金の細工が縁に施された重厚な扉がある。

 採用面接の日、勤務初日、人事評価の日、懸念事案の状況報告。

 厳かなこの扉を叩くのは、ひとつひとつに大事な意味があった。

 自分の将来が左右されたり、学院で起こる問題を防いだり。


(緊張するわ……何か、してしまったかしら……)


 突然の呼び出しは学院の教師に採用されてからの8年間、一度たりとも経験がない。

 呼び出される要件に心当たりもない。


 胸元に手を当てて、息を吸う。

 心臓の高鳴りを落ち着かせてから、コンコン、とノックをした。



 *



「出向――ですか?」


 秘書が用意してくれた紅茶を優雅に飲む学院長へと、ローシェは状況を把握できないままオウム返しする。


 ――貴女の出向が決まりました。今日中に引継ぎを終えてください。


 学院長ははっきりと、そう言った。


「ええ。今回は貴女が適任です。貴女なら依頼をきっちりこなして戻ってくると信じておりますよ」


 穏やかな笑みがそのまま皺に刻まれている学院長は、柔らかな口調で圧をかける。

 ローシェはテーブルの上で差し出された一枚の紙へと目を落とした。



 =========


 5月19日付け、教師ローシェ・アリオストに、下記の業務を果たすまでの間、デオロット伯爵家への出向を命ずる。

 なお、出向期間中の勤務条件は出向先に一任する。不等な条件が提示された場合には直ちに報告すること。


 出向先:デオロット伯爵邸

 雇用主:デオロット伯爵夫人

 業務内容:伯爵令息ユーグ・デオロットの恋愛指南ほか

 詳細:守秘事項につき勤務初日に説明

 以上


 =========



 いわずもがな、辞令書である。

 上部には今日の日付が記され、下部には学院名と学院長の署名もされていていた。


(19日って……今日は18日よね?)


 カルデリア女学院は貴族令嬢の学び舎として絶大な評価を得ている。婚約者相手に悩んだらカルデリア女学院の卒業生を選べと言われるほど。

 故に外部からの相談事が度々舞い込んでくる。

 他学校での特別講義や貴族ご用達の高級店での社員教育。一日限りや一週間程度で終える依頼は出張になり、数か月に渡る長期的な依頼の場合は出向とされる。

 学院入学前の幼い令嬢の家庭教師や、社交界デビュー後に壁の華になってしまった令嬢の再教育がそうだ。

 なかには乙女心を分からない息子への指南をと依頼する貴族もいて、今回もそうらしい。


「質問をさせていただいてもよろしいでしょうか」


 詳細を伏せられた依頼内容に目を通したローシェは学院長の顔を伺いながらも手を上げる。


「ええ、構いませんよ」

「貴族令息への恋愛指南は、これまでミレイ先生が任されていました。相手方は伯爵家ですし、経験のない私よりもミレイ先生が適任ではないでしょうか」

「いつまでも彼女に任せていては、後任が育ちません。今回は貴女が適任なのですよ」


 ですが、と口を挟む間もなく、学院長はローシェが()()だと繰り返す。


(適任なら私より他にいるはずなのに……!)


 今年で28になるローシェには残念なことに恋愛経験がない。

 その上、生徒としての3年間と教師としての8年間を合わせると、人生の多くを男子禁制のカルデリア女学院で過ごしているのだ。家族や使用人以外の異性との交流は指折りで数え切れる。


 無理です、と泣き言を頭の中で繰り返す。

 けれども有無を言わせない笑みを浮かべる学院長へと「ご期待に添えるよう、行って参ります」とローシェは頭を下げるのだった。






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