練習
結局着信はなかった。朝出勤して更衣室で着替え、三課に行くとあいつの姿はなかった。パソコンも電源は入っていない。私は自分のデスクを通り過ぎ、真っ直ぐ吉野課長の席に向かった。
「課長、おはようございます。あの、浅見さんから何か連絡はありませんでしたか?」
挨拶もそこそこにあいつの安否を確認した。
「ああ、おはよう。真鍋君、髪、変えたんだね。見間違えたよ。で、浅見がどうかしたって?」
「昨日の夕方から連絡が途絶えて・・・」
「・・・君の後ろにいるけど?」
振り向くと、眠そうな顔がパーテーションで区切られた三課に入って来るところだった。
「よお。おはよう! 吉野課長、おはようございます」
「な、なんでいるんですか?」
「なんで、って。仕事だろう。他に何があるんだ?」
私は彼を引っ張って、給湯室まで歩いた。
「な、なんだよ! 俺はまだパソコンも立ち上げていないのに・・・」
「昨日! あれからどうしたんですか? 捕まったんですか? なんで連絡くれなかったんですか? 私・・・私がどれだけ心配したのか、解っているんですか?」
彼は手を振りほどいて。
「質問ばっかりだな。いいか、覆面パトは振り切った。故に切符は切られていない。で、帰ってバイクの洗車をして、近所のラーメン屋に晩飯に行ったら、偶然高校の後輩と会って飲みに出掛けた。バイクの話で盛り上がって、帰って来たのは午前様」
「人が心配していたのに、お酒飲みに行ってたんですか? 一体全体、何を考えて・・・。どういう神経しているんですか!」
私は安心したのと悔しいのと苛立ちといろんな感情がいっぺんに出て、涙も出て来た。
「な、泣いてんのかお前・・・」
「お前って呼ばないで下さい」
「悪かったよ。そんなに心配してくれたとは思わなかった。すまん」
一課の女性局員がブースに入って来て、そのまま出て行った。
「泣くなって。俺が泣かしたみたいじゃないか」
「・・・パトカーを、振り切ったんですか? そんな危ないことして」
「ま、ちょっとしたコツだな。お前が真似するといかんから詳しくは説明しないけど」
「私はそんな危ないことはしません!」
「だったら! 高速道路を走るときも、もっと周囲に気を配るんだな。追い越しを掛ける前、加速中、その車の室内を見れば覆面かどうかは判る」
「あの、私、出頭命令が出るのでしょうか? 浅見さんも?」
「スピード違反は現行犯が基本だからな。カメラ回されていればヤバイかも知れないが、俺はウィリーで逃げたからナンバーは写ってないはず。お前は・・・どうかな」
「捕まっちゃうんですか、私」
「止められていないから大丈夫だと思うよ・・・知らんけど」
朝の、始業前の僅かな時間。オートバイ談義。二人だけの秘密。そこに、鬼の形相をした松原女史。
「浅見君! 君ねえ、先日あんなことがあって、今度は女の子泣かしているって! 一体どういうつもりよ⁈ ・・・あれ? 真鍋さん? 真鍋さんなの? その髪!」
その後、いくら違うと言っても聞き入れて貰えず、吉野課長も交えて会議室で事情聴取を受けた。高速道路で覆面パトカーから逃げた話は、課長から大目玉を貰った。
翌々週の日曜日、河川敷の練習場、テントは笑い声に包まれていた。笑いの主はガミさんといつも練習に来る、常連の塾生。
「笑いごっちゃないよ、課長の剣幕、もの凄かったもの」
「普段柔和な人を怒らせてはいけないって、本当ですね。私、マジ、ビビりました」
「危く二輪運転の禁止令が発令されるところだった」
「浅見さんがいけないんですよ。お巡りさんを挑発するから」
「あっ、俺のせいか? 元はと言えば、お前が相手も見ずにバンバン追い越しを掛けるからだろうが」
「洋子さんも気合入ってたんだよねえ。浅見君と追いかけっこしてたんだから」
気合を入れていたわけではない。私が高速道路を法定速度超過で走ることになったきっかけは、こいつの発言にある。そうだ、そもそもこいつが悪いのだ。
「さ、いつまでも笑っていないで、準備してくれよ。そろそろ練習生が来る」
ここの敷地を借りる条件として、教習所から提示された約束事の一つに、教習所の卒業生が練習をしたいと言ったら、丁寧に指導すること、というのがあるらしい。卒業して免許証を手にしても、まだバイクの運転が不安で、とか、もっと上手くなりたい、とか、教習プログラムだけではカバーしきれない需要もあるのだ。そして特に公募はしていないものの、ただ練習をしたい、という普通のライダーもここにはビジターでやって来る。
「どんなカリキュラムなんですか?」
私は聞いてみた。
「基本的なことは何も変わらないよ。慣熟走行と苦手セクションの繰り返し練習。慣熟のコースは初心者向けに緩くしてあるだけ。セクションはパイロン間隔を広げて走り易くしてあるけどね。あと極低速のバランス走行と急制動。ムキになっちゃい人がいると困るのでタイムトライアルはなし」
「洋子さん、慣熟コース、試走してみてよ」
「無理無理無理無理」
私は早口言葉のように繰り返した。
「慣熟走行は無理! 私走れません!」
「今日のは大丈夫。初心者向けに緩ーくしてあるから。気負わないで走ってごらん」
「・・本当ですかあ?」
今までも何度か走ってみたことはあった。けれどいつもどこかのパイロンを引っ掛けてしまう。私が倒したパイロンを誰かが直してくれている。気にしなくていいよ、といつも言われているが、やっぱり申し訳ない。
試走と称して慣熟走行が始まった。塾生だけのトレイン。私は最後尾をゆっくりとついて行った。
スタートしてすぐに直パイ、最後のパイロンを右折してクランク、出て短い直線を加速、即ブレーキしてS字に進入。左折、右回りのUターン、外周に入って緩やかな左カーブをスラロームで走行し、それが途切れるとフル加速。右のカーブを普通に走って直線はオフセットのスラローム。右Uターンして今度は意地悪な不等間隔の直パイスラローム。
やっぱりいくつかは引っ掛けた。倒れたパイロンをガミさんがVTRで走りながら器用に直していく。パイロンの端を足で踏んで、立ち上がったパイロンの先端を右手で掴んで走り出す。遠くでガミさんが手を上げて、二周目の開始。今度こそ! と意気込んだが、パイロンを意識し過ぎて先行車との間隔がどんどん開いて行く。駄目だ、私は慣熟コースを走る度に落ち込んでしまう。
「洋子さん、八の字とかコースラは様になって来たのに、慣熟走行はまだ苦手だね」
「まだジムカーナのテクニカルセクションは無理っぽいかな? でもどうしてだろうねえ」
テントの下にテーブルを設置して、受付業務。事前に書いて頂いた申込用紙と会費をビブスと交換する。自己申告で初心者、初級者は赤、中上級者は緑、塾生はスタッフで黄色だ。自称初心者がすごく多い。
定員の三十名は集合時間前に全員集まり、定刻を待ってガミさんのアナウンスが始まった。
「おはようございます! 本日の練習会のスタッフ代表の三神です。スタッフは黄色のビブスを着ていますので、何かわからないことがあればスタッフまで申し出て下さい」
マイクを持ち直して。
「今日お集りの皆さんは、自らの運転技術向上に熱心な方々だと思いますが、あまり硬くならずに、楽しんでいって下さい。バイクって楽しい! そのことの再確認をして頂くのが本日の最大の目的です。大切なバイクをコカして傷付けたり、ご自身が怪我をしたり、そうなったら楽しい休日の思い出が台無しです。決して無理をしない! それこそがバイク運転の極意です。頑張り過ぎないように頑張って楽しんで下さい」
拍手が聞こえた。私もしている。そうだ、無理しちゃいけない。バイクは楽しい、それで良いんだ。
「じゃあ体操から始めまーす! 皆さん周囲の人にぶつからないように間隔を取って下さーい!」
「では、ちょっと人数が多いので、赤色のビブスさんは二班に分かれますね。こっからこっちはAグループ、そっちはBグループ。緑色のビブスさんはCグループです。では・・・」
練習は、慣熟走行と八の字、小道路旋回などのテクニカルセクションと一本橋や千鳥、急制動の基礎練習に分かれた。私はちゃっかり赤のビブスでBグループに混じった。
一回の練習は四十分。練習時間が終わると休憩が十五分。各自給水やらおトイレのタイムだ。一回毎に練習エリアが変わる。
慣熟走行では最後尾を走ったけれど、私の前の人は私より遅く、申し訳ないけれどもの凄く安心した。テクニカルセクションの八の字は得意気にこなせたけれど、少路地旋回は何度もオーバーランした。
「どうやるんですか?」
初心者らしく素直に聞いてみた。ここは渡辺さんが担当のセクションだ。
「発進時にハンドルは右に切っちゃいけないよ。真っ直ぐでスタートしてすぐに左に切って右にバイクを倒す。アクセルと半クラ、リアブレーキを併用して、あとは思い切り、だね。倒し込みを躊躇しちゃ駄目だ」
「はい」
「あと、目線ね。バイクは見た方に行く。だけど、目で見るんじゃなくて額で見るつもりで腰からグイっと回す」
「なるほど、腰からですか」
とても参考になる。
「こういうのもリーンインなんですかあ?」
他の参加者からも質問が聞こえた。
「リーンアウトの方がやり易いと思いますよ。でもどっちでも構いません。それを意識するよりニーグリップをしっかりと、腰でバイクを押さえ込むイメージでお願いします。上半身に意識がいくとニーグリップが疎かになりやすいので」
渡辺さんの声が一段と大きくなる。
「クラッチは完切りしたら駄目ですよお! 失速したらバイク、倒れちゃいますからねえ。エンストもね。オーバーランしそうになっても後輪には駆動力を掛けたまま、半クラとリアブレーキでスピードをコントロールして下さい!」
自称初心者には女の子も多い。貴重な情報交換の時間。お互いのバイクを褒めるとすぐに打ち解けた。二回目の休憩、お昼のお弁当を一緒に食べて、女子トークに花が咲く。ウェアの話、ブーツの話、グローブの話。女の子のサイズは男性のSサイズでは合わないことの方が多い。どこのショップの品揃えが良いのか、どのメーカなら通販でも失敗がないか。私はあいつから仕入れた情報がメインだから、やっぱり男物中心になってしまう。目下の悩みはグローブだ。指のブカブカは見た目より操作性に問題がある。そんな話をしていたら、市販のバイクグローブをリメイクする話とオーダーメードの店のことを教えてもらった。
そしてツーリングの話。今まで行ったところとか、これから行きたいところとか。見たい風景、食べたいスイーツ、豪快ラーメン、可愛いランチ。私はまだ一回しか行ったことなかったけれど、お互いの写真を見せ合って、大いに盛り上がった。
話し込んでいると、ガミさんの声がスピーカーから聞こえた。
「お昼休憩はあと二十分ありますが、スタッフの練習時間にしますので、練習生の皆さんはまだコースに出ないで下さい」
放送が終わるや否や、数台のバイクが慣熟コースへ飛び出して行った。JKDJのマリナちゃんもいる。練習生に合わせた走りと、そこから開放された走りはまるで次元が違う。
「うっわー、速ーい」
「どうやったらあんな風に走れるの?」
それは私も知りたいです。どうやったら、は、実は練習しかないことも知っているけれど、今のように練習を繰り返してもそこに到達するのはいつになるのか、先が見えない。
「私、タイトターンの連続、苦手なんですよねぇ・・・」
「あ、私もー」
初心者の切実な悩みだ。
「でも私、コースラ、好き! あんなの一般公道じゃやらないから」
「そうでもないんですよ」
後ろからいきなりガミさんが加わった。
「峠を走ってたら路面が陥没してたり落石があったり、カーブの途中でラインを変えるの、
ツーリングあるあるですからね」
数人が頷いた。あ、経験ある人いるんだ。
「今走っている人も、そこにパイロンがあるのを解っていて走っていますけど、こういう練習を繰り返しておくことで、いざとなったら考えるより先に体の方が反応してくれるようになります。反復練習が大切なんです。実際にはブラインドカーブに入ってから障害物に出くわすことも多いですから、あくまでもスローインを徹底して。何かあっても対処出来る余裕を持つようにして置くのが重要です。そうすれば自然と回避できますよ」
午後の練習が再開されると、Bチームは極低速エリアに移動した。私の唯一得意な一本橋。十秒を余裕で超えてクリア。急制動は60km/hからの短距離停止。これも上手く骨盤が動いた。クリア。次のセクションはちょっと混んでいた。千鳥だ。私は初めて。いやたぶん他の練習性も初めてだったのだろう、ほとんど全員クリアできずにいた。担当スタッフはあいつだ。
「なんだ、見ないと思ったら練習生に交じっていたのか」
「これ、初めてなんですけど、どうするんですか?」
「黄色のパイロンの内側をジグザクに走る。赤パイロンは左回り、青パイロンは右回り。簡単だろ?」
簡単? じゃあ何故皆さんクリアできずにいるのよ。
「あ、あともう一つ。時間制限はないけれど、目一杯ゆっくりな」
私は頭の中にクエスチョンマークが並んだ気がしたが、取り敢えずスタートした。スタートして直ぐに赤パイロン、90度旋回して。ゆっくり走るのはむしろ得意だ。
「まだ速いよ。もっとスピード落として」
指示されて半クラとリアブレーキを使いながらバランスを取る。目線は何処に置くのだろう、直近のパイロンは見てはいけないのだろうか。青いパイロンに近づいて、狭さに吃驚した。黄色との間隔、一メートル? ヤバイ、大回りしなきゃ回れない。思い切って左に並んだ黄色パイロンの縁迄ギリギリ寄せた。ここからターンに入る・・・。バイクはバンクさせられない。バンクしたらパイロンに引っ掛けてしまう。直立のままハンドルの舵角だけで180度ターンに入るが右正面に黄色のパイロンが・・・。黄色を倒しながら回って、十メートル先に赤いパイロンが見える。何なのこれ! こんなの回れる訳ないじゃない! 私は心の中で悪態をついた。右に目一杯寄せて、そこから少しでも回転半径を小さくするように少しだけバイクを倒す、赤いのを引っ掛けた。180度回って、立ち上がり、青いパイロン。触れないようにするにはやっぱり舵角回転しかない・・・。でも、やっぱり回れず、黄色を倒した。四回のUターンを済ませて出口に来ると、あいつは、全然だなと呟いた。
「こんなの! 無理に決まっているじゃないですか! そんな意地悪して面白いですか? 楽しいですか⁈」
その場に止まって、つい叫んでしまった。
「・・・しょうがないな。ちょっとバイクを向こうに停めて来い」
それから両手をメガホンにしてあいつは大声で呼び掛けた。
「Bグループの皆さーん、ちょっと集まって下さーい。バイクはその場に置いて、集合ー」
それからNinjaに跨ると、千鳥の見本を見せまーすと叫んだ。
「この千鳥は、安全運転大会にも設定されるコースですが、今日はゆるゆるにコーンを置いてあります。Uターンの半径は4m想定です」
4m? あれ? 私のFZRの最小回転半径より大きい?
「皆さんの車両なら、直立で、ハンドルをフルロックまで切れれば回れる前提です」
集まった練習生が興味津々と聞き入っている。
「ポジションは、スタンディングでもシッティングでも構いません。半クラ、リアブレーキでのスピードコントロールが基本になります。皆さんはこの極低速での直立フルロックターンが出来ていないからパイロンを引っ掛けたりオーバーランをしたりしているのです」
そう言ってヘルメットを被るとエンジンを掛けた。NinjaのSSらしい窮屈な姿勢のまま、コースに進入した。ターンに入る一瞬エンジン回転が上がった。バイクはほぼ直立のまま、ハンドルがこれ以上ないくらい切れて、パイロンを通過した。繰り返しターンをこなし、一周して元の位置に戻ると、エンジンを切った。
「エンジンの回転が低いままハンドルを切ると、タイヤの抵抗で減速しエンジン回転数が下がります。そうするとエンストしたりバランスを崩したりする危険性がありますので、ターンの時は気持ち、回転数をあげます」
Ninjaのエンジンの再始動。
「実際の大会ではもっとタイトなUターンを要求されるので、180度ターンを90度ターン二回に分けて行います」
コースに入る。パイロンに近づくとエンジンの回転数が上がり、一瞬バイクがバンクして向きを変えた。直ぐ直立に戻して減速、パイロンを通過。後輪がパイロンに差し掛かる所でまたエンジン回転数が上がって、バンクしてバイクは向きを変えた。おおーっと上がる歓声。Ninjaが一周回って帰って来た。エンジンを切って、ヘルメットを脱ぐあいつ。
「こんな感じです。今日のコースならどちらでも良いです。ご自分の好きな方で練習してみて下さい」
それを聞いて皆が各々自分のバイクに戻って行った。
「解ったか」
「それなら最初から。初めから説明してくれればいいじゃないですか!」
私は反論した。私の主張は間違っていないはずだ。
「自分でな・・。自分で考えて、トライアンドエラーで身に付くんだ。言われたことをやるのが練習じゃない」
私の頭の中で、学生時代のコーチの言葉が甦った。真鍋、考えろ。自分のドリブルコース、味方のポジション、ディフェンスの位置、パスコース、状況は常に変わるんだ。だから何がベストなのか、常に考えろ。考えて練習した分だけ戦術のパターンが身に付くんだ。
午後の一回目の休憩。水を飲んで体のクールダウン。ついでに頭も冷やした。悔しいけれど、あいつの方が正論だ。私はここでの練習、浄水場での練習、言われたことを繰り返しただけだ。自分で考えていない。
「休憩の後は、ご自分の練習したいセクションエリアに移動して下さい」
ガミさんのアナウンスが聞こえた。
「慣熟走行はCグループ、B、Aの順でグループ毎に走ります。各グループの先導車と最後尾はスタッフが入りますので、決して無理しないように楽しんでください」
練習生が集まったのはやはりダントツで慣熟コース。基礎練習の方はまばらだった。そんな中、私は千鳥にいた。あいつの動きを思い出せ、あいつの操作を完コピしてやる。そう頭の中で繰り返し、コースに入った。FZRのポジションでスタンディングはきつい。
シッティングのまま両ステップに荷重し、上半身をゆっくり細かく動かしてバランスを取る。ここまでは間違っていない。直立舵角ターンの時はどこからハンドルを切り始めるのか、回転半径で目星を付ける。ハンドルを手の力で曲げるのではなく、腰を切るように捻って体重移動と併用して向きを変える。もっと、ストッパーに当たるまで。エンジンの音が変わり回転数が落ちていくのをアクセルと半クラで調整する。ちょっとふらつく。逆だ、あいつはエンジンの回転数を上げて、それからターンに入っていた。思い出して私もエンジンの回転数を上げ、リアブレーキを軽く引きずって速度を調整。よし、これを繰り返すだけだ。
三周回って、何となくコツを掴めた。今千鳥には私一人しかいない。存分に練習できる。五周目からはパイロンに接触することなく、回れるようになった。よし、次だ。今度はバイクを倒して向きを変える。と、バンクさせた瞬間に失速してエンストを起こした。必死でバイクを支える。倒してなるものか。こんな極低速エリアで転倒なんて。幸い、バンクが浅かったので支え切れた。良かった。気を取り直して再スタート。もっとエンジン回転数を上げなきゃ。私は思い切って三千回転近くまで回し、半クラを使った。リアブレーキに込める力の加減で速度の増減がコントロールできる。よし、この方が良さ気だ。エンジンのトルク前に進もうとする力とリアブレーキでそれを止めようとする力。拮抗してバランスしている状態からリアのブレーキを緩めて思い切ってバイクをバンクさせた。後輪にトルクが掛かってグイッと向きが変わるその瞬間、切れたハンドルをもう少しだけ内に入れると車体が起き上がった。そしてもう一度リアブレーキを押さえて速度を落とす。よし、繰り返すぞ。バンクをリアブレーキで調整する・・・。
いつの間にかあいつが見ていた。集中していて全然気が付かなかった。
「どう? ですか?」
「俺のとは違うけどな。アクセルを固定、半クラも固定、リアブレーキのみで調整か。・・・まあいいんじゃないか」
「本当ですか? 浅見さんのを真似しようとしたけれど出来なくて・・・」
「やり方は一つじゃない。アプローチの方法はいくつもある。そう言えば、お前、バイクのアクセルっていくつあるか知ってるか」
「お前って呼ばないで下さい。・・アクセルは一つでしょ?」
「じゃあ何故、リアブレーキの調整でバイクは前に進んだんだ?」
「それは掛けていたブレーキを緩めたからで・・・」
「つまりそういうことだ。リアブレーキもアクセルの代わりになる。クラッチもな。だから三つが正解だ」
そうか、クラッチを切った状態からつなけばバイクは前に進もうとする。車体の速度、エンジン回転数と合えば確かにそれは前に進む力だ。
「エンジンの回転数を上げるだけがアクセルじゃあない。エンジンの駆動力を伝えるのも、リアブレーキで推進力を調整するのも、広い意味でバイクを加速させることさ」
「・・・はい」
「俺みたいにな、必要な時に最低限だけエンジンの回転数を上げるのはやっぱり難しいと思う。アクセルワーク、クラッチワーク、リアのブレーキワーク、それに加えて車体バランス、ハンドリング、全部がシンクロしないと出来ないからな。だからアクセルワークとクラッチワークを固定して、仕事を減らしたのはいい判断だ。やり方はいくらでもある、何でもいいのさ。要は千鳥をクリアすることだからな」
「競技大会でのコースはもっと厳しいんでしょう?」
「確か去年のヤツではコース幅は2.5mだったな」
「2.5m!」
「最小回転半径は1.5mくらいでないとクリアできない計算だ」
「1.5m!」
「こういう極低速だから、なおマシンコントロールの難易度は極端に高い。でも競技大会とジムカーナは違う。ジムカーナなら半径1.5mの回転はざらにある。こっちはスピードを競う競技だからな」
「どう違うんですか?」
「少しは自分で考えろ。・・・いや、待て。ヒントをやる。最小回転半径を決めるのは何だと思う?」
「車体全長とハンドル角です」
「違う。似ているけどな。ホイールベース長とタイヤの直径、キャスター角、ハンドル角、バンク角だ」
「結局、ハンドルを限界まで切って、目一杯バイクを倒すことが出来れば、それがそのバイクの最小回転半径になるってことですよね?」
「まあ八十点かな」
「違うんですか?」
「ま、後は自分で考えろ。その練習をするなら八の字が良いぞ」
「あの・・・。私の八の字走行、見てもらって良いですか?」
「・・・練習生には丁寧に指導しろって、お達しが出ているからな」
私は八の字の練習パイロンに移動して、すぐ走り始めた。もう練習時間は残り少ないはずだ。今の私は八の字なら半径2.8mくらいでパイロンを回れる。パイロンの外側から大きく入って、出口側でパイロンに一番近づく。どうだ! 五周して私はバイクを止めた。
「どうですか?」
「全然駄目」
「そんなあ」
「まったく。ガミさんは何を教えて来たんだ? お前は何を教わったんだ?」
「何が悪いんですか?」
「悪いんじゃない。駄目なんだ」
禅問答のようだ。お前って言うな、そう思ったけど言葉に出来ない。
「お前のは定常円だ。回転の中心をパイロンから離れた場所に置いている。だから出口でパイロンに近づいて、一見ちゃんと回っているように見えるし、実際回っている」
「じゃあ・・・」
「それじゃジムカーナのコースじゃ大回りになり過ぎる。タイムロスが多いんだ。説明するとさっきの答えになっちまうから・・・、取り敢えず、俺の八の字を見てろ」
Ninjaがスタートした。
「最初の二周はお前の走り方。次の二周がお手本だ」
私はヘルメットを脱いで凝視した。一挙手一投足見逃すもんか。音だって聞き洩らさない。
そしてその違いに愕然とした。こいつ、やっぱり上手い。バイクってこんな動きをするものなのか・・・。ちょっとショックだった。
「解ったか」
「・・加速が全然違います。それから、回転、定常円じゃありません。螺旋の、内側に入り込むような楕円を描いています。車体のバンクだけじゃない、上半身のリーンインが大きくて・・・」
涙が出て来た。悔しい。悔しい。悔しい。前にガミさんにも教わったことなのに。
「な、泣くなよ。俺が泣かしているみたいじゃないか」
お前のせいだ、私は鼻をすすり上げた。
「泣いていません・・それから、お前って言わないで下さい・・・」
「はーい! 終了ー! 皆さんお疲れ様でした。バイクを止めて、閉会式をしまーす」
ガミさんの声がスピーカーから響き渡った。
ガミさんの挨拶で今日の教習は全て終了した。
「毎月偶数日曜日はここで練習する予定です。興味の出た方は是非お越し下さい。じゃあ、ビブスを返却された方からお帰りになって頂いて結構です。お帰りも気を付けて運転して下さい」
拍手が起こり、ガミさんは深々とお辞儀をした。
「ああー、業務連絡。スタッフは三十分だけフリー走行にします。十六時から撤収準備に掛かって下さい」
そのアナウンスで誰もが慣熟コースに集まって来た。私を除いて。
「どうした? 今日、最後の練習だ。走らないのか?」
「洋子さん、疲れちゃいました?」
あいつとマリナちゃんがほぼ同時に声を掛けた。慣熟走行は速い人から順に並ぶ。だから私はいつも最後尾だ。そしていつもどこかしらのパイロンを倒してしまう。こんな初心者向けのコースであってもターンが窮屈になってしまうのだ。朝もそうだった。
「しょうがねえなあ。泣き虫がいじけんなよ」
「いじけてなんかいません!」
「よし、まだ元気だな。なら俺について来い!」
先頭の田中さんが右手を上げた。後続がそれに倣って、トレインが始まった。あいつはまだ出ない。マリナちゃんと何かを待っているようだ。未発進が私たち三台になって、ようやくあいつは右手を上げた。
「いいか、俺のラインについて来い! 一寸違わず、ぴったりとトレースして来い!」
そう言って、ゆっくり走り始めた。その後ろに私が3m離れて続く。私の後ろはマリナちゃん。私はNinjaのテールを凝視した。想像以上にゆっくりだ。そして・・・。気が付くとどこのパイロンにも接触せずに一周が終わっていた。マリナちゃんがあいつに合図を送る。
「よし、少し上げるぞ」
あいつはそう言ってほんの少しペースを上げた。まだ私はついて行ける。そしてパイロンにも接触しなかった。三周目、さらにペースが上がった。今度もまたパイロンに接触せず。四周目、五周目、どんどんペースが上がる。加速と減速が激しくなって行く。ターンの入りがクイックになって行く。それでも、不思議なことにパイロンには一度も接触していない。十周目を終えて、あいつとマリナちゃんのポジションが変わった。
「マリナちゃん、真鍋の前を走って」
「ラインはどうします?」
「マリナちゃんのMTラインで」
「オッケーでーす」
そして私に。
「マリナちゃんのMTは見るな。今、俺が教えたラインをトレースしろ」
まただ。先行車を見ないなんて。ぶつかったらどうするのよ? いや、マリナちゃんの方が私より全然速いのだ、ぶつかることなんてあり得ない。そしてマリナちゃんの右手が上がり、スタート。そこで初めて理解した。走っているラインが全然違う。ターンの入り口も、ブレーキや加速するポイントも、マリナちゃんのとあいつのは全然違う。
全員でパイロンを片付ける、その最中。私はあいつに話し掛けた。
「・・・肝心なのは走行ラインだったんですね」
「そう。SSやRRはネイキッドやモタードとはラインが違う。同じラインじゃ走れないんだ。自分のバイクの特性も考えずに前走車について行くことばかり考えるから取っ散らかるんだ。パイロンに大回りで入るのは良いさ。だけどな、一つのパイロンで終わりじゃないんだ。パイロンの出口では次のパイロンの入口を考えてラインを選択しないと、どっかで辻褄が合わなくなる・・・」
私は振り返ってテント前に佇むFZRを眺めた。ガミさんに教わったことを、今日その同じことをあいつに言われた。教えて貰って、習得していないテクニックをそのままにしていたのだ。言葉もない。ごめんね。私はFZRに向かって呟いた。