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彼女がバイクに乗る理由  作者: 田代夏樹
8/15

レクチャー

 市街地から抜けるまでは大人しく走っていた。車の後ろについて、流れに乗って。私が清里まで走って来た時もそうした。いえ、いつだって交通の流れに乗って私は走って来たんだ。

 松原湖で県道に入ると、車の流れから外れたみたいだ。先行車はいない。と、不意にNinjaのエンジン音が変わった。ギアがシフトダウンしたのだ、と思ったらスルスルと車間が開いてしまった。負けじと私もシフトダウン。先行するNinjaを追走する。どのくらいの車間が適当なんだろう、よく判らず十数メートル開けて、それ以上開かないようにキープする。

 気持ちいい! 先行する四輪が居ないだけで、自由に走れる気がする。谷が開けて視界が広い。遠くの山並みが見える。眼下に集落が見える。青々とした木々が輝いて見える、稲穂は緑の絨毯だ。風にそよいで波打って見える。素晴らしい。

 カーブが近づいて減速、途端にNinjaと車間が詰まる、やだ、近すぎ、そう思ったらNinjaはいきなりパタンとバンクした。え? 何その動き? 私は教わったように一旦左に振るようにして右にバイクを傾けた。リーンの状態を我慢していると、今度はNinjaが目の前から逃げて行く。でもまだ私は加速出来ない。アクセルを開けてもバイクは加速しない、タコメータは千五百回転くらいでぐずっている。いけない、シフトダウンを忘れたんだ。

 バイクが真っ直ぐ立つのを待ってギアを下げた。跳ね上がるタコメータの赤い針。加速するとNinjaがそこにいた。待っていてくれたのか・・・。ほっとする反面、見失ったらという言葉が脳裏に蘇る。私を残して先に行くのかと思ったら、いいとこ、あるのね。

 次のカーブ、一旦サードに上げたギアを、今度は間違いなくセカンドに落とし、カーブに入る。車間は詰まったまま、彼の加速に一秒遅れてアクセルを開く。よし、今度はそんなに離されていない。ついて行ってる。そのままいくつかカーブを抜けて、先行する乗用車に追いついた。車は速度を落として、ウィンカーを点け、先に行けと合図をくれた。彼が車を追い越す、左手で挨拶。へえ、ああやるのか。格好いいな、真似しよう。

 私が車を追い越し、左手をハンドルに戻すと、彼は加速した。あれ? さっきよりも速い気がする。車間は二十メートルに開いた。彼のブレーキランプが灯る、ここがブレーキポイントだよ、教えてくれている気がする、彼の優しさ。口ではあんななのに。さっきより車間が開いたままカーブに進入、彼の背中を私は追いかける。傾いたバイクがスッと加速した。私がそこに到達する、私も加速する。まるで踊っているみたい。右へ左へステップを踏んで、彼との距離は縮まったり伸びたり。ちょっと嬉しいかも。

 段々距離が開いてきた。社交ダンスのような彼の優雅なステップは、ジルバのように激しくなった。私、ついて行けない。極端に距離が縮まって、ヤバイと思ったら、今度はどんどん引き離されていく。カーブを駆け抜ける度に、二人の距離は離れて行く。待って、そう言いたい気持ちを押し殺した。だいたい言ったって聞こえないもの。

 国道に入る前のレストランで昼食。彼は山賊焼き定食。私は山菜ご飯とキノコ汁のセット。食事を待つ間、そして食べている最中、彼はずっと喋り続けた。饒舌な彼。初めて見るかも。でも言葉使いは相変わらずだ。ぶっきらぼうで乱暴。

「この先の299はエグいけど、蓼科からのビーナスラインが今日のメインだ」

スマホの地図で確認すると道がクネクネと蛇行している。こんな道を走るのか・・・。

「上りのコーナーは失速し易いからな。逆に下りは重力に引っ張られてスピードを落とし難いし、ハーフアクセルでも勝手に加速してしまう。アップダウンのきつい道は、ギアは低めのを選べよ」

「はい」

はいとしか言いようがない。直線区間はまだしも、私には次から次へと出て来るカーブに景色を楽しむ余裕が全くなくなっていた。しかもこれからそれがもっと増えるのだ。体を支える背中が痛い。

「お前、姿勢がいいな」

「お前って言わないで下さい。・・・姿勢は母が躾けに煩かったもので」

「食事の姿勢じゃないよ。そりゃ前から知っている。バイクに乗る姿勢だ。レーサーレプリカで腕がつっかえ棒になっていないし、女の子にありがちな反り腰にもなっていない」

「それはどうも」

渡辺さんに言われ、ずーっと意識してそうしている。だけどよく見てるわ、私の前を走っているくせに。

「でもな、フルブレーキじゃ骨盤は寝かすんだぞ」

「どういうことですか?」

「リア側に体重を移すんだ。立っている骨盤を寝かすだけでも効果はある」

へえ、そうなんだ。

「上半身は柔らかく使え」

「リーンインですか」

「ケースバイケースだ。ブラインドのカーブならリーンアウトの方が向こうを見易いだろう?」


 食事を終えて店を出た。陽射しは強いけれど標高が高く、湿度は低い。涼しいを通り越して寒いくらいだ。

 何も言わずにさっさと出発の準備をする彼。屈伸運動で膝を曲げ伸ばし、腰を捻って肩を回す。それ見て、私も倣って準備をする。結構固くなっているのは緊張のせい? 疲労のせい? でもそうか、休憩の度にこれくらいは動かした方がいいわね。彼は無言で私を指導している? いえ、それは考え過ぎでしょ。

「行くぞ」

「はい」

 駐車場を出るといきなり急カーブが現れ、一旦上げたサードギアをセカンドに落とした。右の180度、上りの大きなヘヤピンカーブ。立上りはセカンドでも加速しない。遠くに彼が次のカーブにアプローチしているのが見える。たった一つのカーブでこんなに差が付くなんて、悔しい。

 反応の鈍いエンジンに、やっと力を感じるようになった頃、次の左カーブ。また上りカーブだ、と思ったらどんどん失速して行く。いけない、エンジンがストールしそうだ。バンクしたまま、エンジンの回転数が徐々に落ちて行く、パワーが落ちて行く。どうしよう、ギアをローに切り替えるべきか、でもクラッチを切った瞬間にマシンは倒れ込みそうだ。でも、このままじゃ・・・。私は思い切ってローギアを選択した。クラッチを素早くつなぎ直す。幸いにもバイクは倒れず、何とかクリアできた。いけない。さっき言われたばかりなのに。私はアクセルを開いた。一万回転まで回してセカンドへ。八千回転でサード、アクセルを閉じて、ブレーキ、セカンドに落としてカーブに飛び込む。立ち上がってサード、アクセルが開け切れない。ブレーキ、シフトダウン。スローインなんで意識しなくても、こう勾配がきつくてはエンジンブレーキだけで速度が下がって行く。ギアを上げたり下げたり忙しい。展望台の看板が見えて、その下にNinjaに跨ったまま片足を着いた彼。ミラー越しに私を見て、そっと走り出した。

 展望台で休憩。なんなのこれ、全然ついて行けない。

「お前、次、前走ってみろ」

「私がですか?」

「そうだよ。後ろから見ててやる」

また、見ててやる、だなんて。

「頼んでいません!」

「そう言うな。後ろからでないと見えない部分もあるんだ」

まったく。でも同じ轍は踏まない。低めのギアを選択するのはエンジンの回転数を下げ過ぎないためだ。もう解った。

「ところで、お前寒くないの? その恰好」

「寒いですよ。でもこれで来ちゃったもので」

「カッパでも着とけ。風通さないだけでもだいぶ違うぞ」

「今日は降水確率10%未満でしたから」

「持って来てないのか? その腰のバッグは?」

「女子のお出掛け必需品です」

「阿保か。山って言うのは天候が変わり易いんだぞ。それにこの辺りは標高で二千メートル級の高地で・・・。一枚オーバーウェアを持ってくるのは常識みたいなもんだろ」

「すみませんねえ、非常識で。家を出る時はこれでも暑かったんです」

「平地と高地の差ぐらい考えろよ。まったく。いつも言ってるだろうが? あらゆる事態を想定し、準備八割現場二割だって」

「あーもう! 仕事の話はしないで下さい」

「仕事の話じゃない、ツーリングの話だ」

「もういいです! 行きます」

「ちょっと待て!」

彼はリアに括り付けた小さなバッグからカッパを取り出した。

「ほら、これ着てろ。サイズが違うからバタつくけど仕方が無い」

ポンっと私に投げた。

「いいですよ」

私は突っ返した。

「いいから着てろ。上半分だけでいいから。風邪ひくぞ」

仕方が無い、そこまで言うなら着てやろう。バッグを開くと中からはグリーンの生地のレインウェアが出て来た。広げて袖を通す。

「うわっ、ぶかぶか・・・」

「文句言うな。腕とわき腹にベルクロがあるから目一杯縮めとけ」

「・・・ありがとうございます」

確かに、一枚着るだけでだいぶ違う。暖かい。

「お前が先行して、俺が途中で追い越すけど、パニくるなよ」


「行きまーす」

アクセルを一回吹かしてクラッチをミート。上り坂を一気に駆け上がった。ミラーの中にNinjaのヘッドライト。随分近い気がする。

 ストレートのような緩やかなカーブをじわっと走り抜け、突如として現れるカーブはタイトではないけれど、路面が荒れている。補修で継ぎ足された路面は黒黒としたひびに見える。あの上は滑りそうだと思いながら、私の走るラインはその上を交差する。

 緩い左カーブをサードのまま抜けて、次の右カーブに備えてブレーキング、シフトダウン、アクセルを当てて一気に倒し込む。リーンのまま、ちょっとふらついたけど、出口が見えてアクセルオン。短い直線区間もしっかりアクセルは開けて、左カーブ、ここで減速開始、と思ったよりカーブの奥が切れ込んでいる。ブレーキングがハードになって、倒し込みのポイントが少しずれた。外に膨らむ。ヤバイか。でも反対車線までは出ていない。

 標高の一番高い所を抜けたのか、緩やかな下り坂。ブレーキを掛けたけれど、思ったよりも減速しない。右カーブ、バンクさせるけど左の崖に近い。左の路肩に小石が散乱しているのが見える。そこには行きたくない。そう思ったけど、どんどん近づいてしまう。乗ったらアウトだよね。なんとかセンターラインに近づけて走ると、勾配がきつくなった左のヘヤピン。下りだから慎重にブレーキして減速、アクセルを当てて倒し込むと、途中から加速・・している? 引っ張られているように前に出てしまった。どうしたらいいの? 私の意思と関係なくバイクが進んでしまう。下りのカーブがこんなに難しいなんて・・・。

 彼が私を追い抜いて行った。前方に出た彼が、左手を上げて私に合図を送っている。ついて来い、そう言っている。切れかけた緊張の糸が少し太くなった。

 私は彼の走りを模倣する。カーブの外側にバイクを置いて、ブレーキ、減速、もっと減速、極端にスピードを落として、バイクを倒し込んで、ターンが小さい。くるっと向きを変えたら立上り、加速して脱出。そうか、そうやるのか。そこまで速度を落として、重力に備えるのか・・・。


「お前、走っているとき、どこを見ているんだ?」

「どこって、前? 前方の、これから走るべきラインを見てますよ?」

女の神展望台。八ヶ岳連峰、南アルプスの景観美しい場所だ。私は写真を撮って、ここまで来た自分を褒めた。きれいな景色だ。頑張って走ってきた甲斐があった。えらいぞ、私。

「ちょっと、これ見てみ」

背中から彼の声。振り向くと不意に彼が右手を私に差し出した。握りこぶし、手の甲を下にしてる。

「何ですか?」

「いいから。これを見ろって」

「もう! 何なのですか? こんなに素晴らしい景観を目の前にして、感動はないんですか?」

「景観は景観、バイクはバイクだ。教えてやるから、これを見ろって」

また、こいつは! 仕事でもないのに、頼んでもいないのに、どうしてこう、いつもいつもいつも命令口調なんだろう⁈

 彼の手は腰の高さ。虫でも掴んでいるのかしら? 恐る恐る覗き込むと、彼はゆっくり指を開いた。え? 何もない。

「そのまま、手の平を見て」

もう、本当に何なの? もしかしたらからかっているだけなの?

「顔と目はそのまま動かさないで、俺が今どちらの目をつぶっているか、解るか?」

「はあ? そんなの、解るわけないじゃないですか! 見えませんよ、視野の外です!」

イラつくわ、こいつ。私は顔を上げた。

「じゃあ今度は、俺の後ろのバイクを見てみろ」

見ればいいんでしょ、見れば! 私は彼の肩越しにNinjaを見た。

「顔と目はそのまま動かさないで、俺が今どちらの目をつぶっているか、解るか?」

「解りますよ、左目をつむっています」

「なんでさっきは解らなかったのが、今度は解るんだろうなあ」

「馬鹿にしているんですか? さっきのは視野の外に顔があって、今は視野の中に顔があるからですよ」

にやりと笑った。

「つまり、そういうことだ」

あ、プチっと行きそう・・・。

「一体何の話をしているんですか? いい加減、怒りますよ! 折角こんな大自然を満喫できる場所にいるのに・・・」

「お前はさあ、この八ヶ岳連峰を見るのに一点を見つめているか? そこを凝視しているか?」

「え? それは、こう、全体をすーーと見ていますよ。全部見えるし、その方が壮大な景色に見えるじゃないですか」

「そうだよなあ。例えば富士山だって、山頂の一部を見るより、裾野から全景を見た方が美しく見えるよなあ」

「だから! それが何なのですか?」

「バイクで走るときは、全体視野で見るんだ。一点を凝視してはいけない。お前、コーナーに入るとき、倒し込みを始める箇所、その一点だけを見てるだろう」

・・・そう言われてみれば、そう、かな。

「だって、どこからカーブに入るか、重要じゃないですか」

「じゃあ、その後は? コーナーに進入した後はどこを見ている?」

「カーブの出口・・・」

「本当か?」

「・・・走るライン、かな」

「つまり、路面を見てるってことか?」

「でも路面を見ていなければ、路面が陥没しているかも、小石が堆積しているかも知れないじゃないですか」

「そりゃそうだ。でもお前、時速三、四十キロで走ってて、目の前五メートルでそれを見つけて回避できるか?」

何も言えない。その回避運動は、たぶん私には無理だ。

「人間の目って言うのはな、近くのものを凝視すると視野は狭まって、周囲が見えなくなるんだ。広く見るには遠くを見る、な、学校で習ったろ?」

確かに、教わった。

「手前、目の前のものしか見ない、見ようとしないから、コーナーの全体像が掴みにくいんだよ。だからギアの選択も間違えるし、ラインも安定しない」

知っていた。解っているつもりだった。でも、出来ていなかった。私はやっぱり素人だ。

「いいか、目の前五メートルのものを見ようとするな、いやむしろ見るな。三十メートル、五十メートル先を見ていれば、自ずと視野に入るもんだ。その中で走るラインを考えろ。五メートル先は無理でも、三十メートル先の障害物なら避けられるだろう?」

あれ? それって前にも言われたような・・・。あ、渡辺さんだ。マリナちゃんだ。あの練習は、こんなところでも生きてくるのか。

「で、でもブラインドのカーブじゃ先が見えませんよ」

辛うじて反論が言えた。

「一メートル進めば景色は変わる! 進めば進むほど先が見えて来る。見える範囲が変わって行くのに、いつまでも定点を見てるからおかしくなるんだ」

・・・もう反論できない。悔しい。

「いいか、倒し込みのポイントに目星を付けて置くのはいい。ただ、それは凝視してはいけない。ポイントに意識は置いてもそこに到達した時には目線は先に移すんだ」

「・・・はい」

「それとな、ビビるなよ」

「はい?」

「仮にオーバースピードでコーナーに進入してしまったとする。ヤバイと思って慌ててブレーキを掛ける。そんな操作をするとバイクは寝ないもんだ。バイクが寝なきゃコーナーはクリアできない」

「オーバースピードで入ったなら反射的にブレーキを掛けますよ? そういうものでしょ?」

「だから怖がるな。怖がらずにスピードを落とせばいいんだ。ただそれだけ。対向車のオーバーラン、道路の陥没、事故、通行止め、想定外の事態が目の前で起こった時、ヤバイと思って体が委縮する。体はな、委縮すると動かなくなるもんだ。慌てずビビらず、落ち着いて回避行動をとる」

「それは無理でしょう? 誰にだって恐怖心はあります。本能みたいなもんです、いえ、本能そのものですよ。それを無理矢理・・」

「訓練するんだよ。練習するんだ。どんな時でも回避運動が取れるようにな」

「無茶言いますね」

「まあ、半分は慣れみたいなもんだ。繰り返し練習すれば身に付く。誰にでもな・・・」

最後の、誰にでもな、の言葉は風に消えた。何故か彼の寂しそうな横顔。それまでの言葉とは口調も彼の目線も違う。

 彼の横顔に私は違和感を覚えた。何処を見ているの? 誰に言っているの? 目の前の、私ではない誰かにそっと語り掛けるような言い方に、何故か切なさを感じた。

「行くぞ」

振り返った彼はヘルメットを被った。きっと気のせいよね、私は自分に言い聞かせた。

 小さな駐車場を出て、上り坂。その先にカーブが見える。私は今教わったことを頭の中で反すうして、視線を遠くへと伸ばした。大きな右カーブはやっぱりブラインドだ。

 開けたアクセルを閉じてブレーキ。右に曲がる姿勢を作ってブレーキのリリース、と同時に視線をその先へ。あ、見える! 彼の背中が。そして判る、彼のNinjaの動きが。それまでブラインドのカーブでは見失っていた彼を、今度は追いかけることができる。路面のギャップも、路肩の小石も。あそこに障害物があるなら、このラインで邪魔はしない。

 抜けて今度は左。ブッシュが邪魔でやっぱりブラインド。彼はセンターライン寄りの位置からバイクを倒し込む。私もそれに倣うが、路肩の砂利が少しはみ出ている。乗らないようにラインを調整する。そうか、視線が遠くになるだけでこんなに走り易くなるのか。

 雑木林を抜け、緑とスカイブルーのコントラストを眺め、二台のバイクは高原を疾走する。峠を駆け上り、駆け下りて、私たちは風になる。眩しい陽射し、爽やかな空気、微かに香る排気ガスの匂い、加速と減速、バンクするバイク、一瞬傾いた世界を首を立てて直立させる。

女神湖に寄り道して記念写真、戻って白樺湖、そこから霧ケ峰へ一気に下る。まるで緑の絨毯の中を滑るように、開けた視界の中で稲穂が揺れる。面白い! 楽しい! ツーリングって、すごい! こんな気持ちになるのはバイクだからだろうか。車で走っても同じように感動するのだろうか。こんなの、私は今まで知らなかった。私の知らない世界、その一つを垣間見た気がした。バイクで疾走する快感、バイクを操っている満足感、目に映る風景、感じる風の心地よさ。嬉しさも楽しさも体全身で受け止めている感じ。


 諏訪湖近くのガソリンスタンドに立ち寄った時、時計はもう三時を回っていた。

「そろそろ帰るぞ」

一日の中で、こんなに長い間バイクに乗っていたのは初めてだ。そしてまだ百五十キロ以上走らなくては家に着けない。腰や背中がそろそろ悲鳴を上げている。

「帰りましょう」

私は素直に同意した。

「そう言えば、どうやって来たんだ清里まで」

「国道をずっと」

「高速は使わなかったのか」

「ETC付けてないもので」

「そんなものなくったって、高速乗れるだろうが・・・」

「・・・私、車でも高速道路は苦手で・・・」

「まったく、しょうがねえな。平日の帰宅渋滞に巻き込まれたら面倒だぞ。疲れが溜まると注意力も散漫になる。事故っていうのは得てしてそういう時に起きるもんだ」

「どうぞ先帰って下さい。私は下でゆっくり休みながら帰ります」

「そんな訳に行くか。伴走してやる。高速使うぞ」

「いいですよ」

「いいから。ついて来い」

なんて強引な。でももう反発する気力が薄れてきた。ついて来いというのだ、その背中を追い掛けている方が、楽だ。どうやら私は身体だけでなく、気持ちも疲労している。

 諏訪インターチェンジから中央高速に乗って、彼は車の間を泳ぐように走り始めた。頻繁にレーンチェンジを繰り返し、先へ先へとバイクを進める。私はその後ろと二十メートル以上車間距離を置き、それでも同じようにレーンチェンジを繰り返して車を追い越した。もし警察車両がいたら、私の免許は一発で停止処分だ。三十分走って、休憩。

「浅見さん、速過ぎます。捕まったら免停必至ですよ」

「そんなポカはしないさ。抜くときは覆面パトかどうか、確認しながら走っている」

「そんなに急がなくったって。流れに乗って走ればいいじゃないですか」

「車の後ろについてゆっくり走ってたら単調で眠くなる。急いでると言うよりも、緊張感を維持するためだな」

まったく、ああ言えばこう言う。

「トップギアで緩慢な加速はするなよ。ギアを落としてパワーバンドで加速するんだ。その回転域の方がエンブレも効きやすい」

「パワーバンドを維持するのって、そんなに大切なんですか?」

彼はあきれ顔になった。

「何を言っているんだか。流すだけならいざ知らず、峠でもコースでも常にパワーバンドを意識しなきゃ。入っているのと外しているのではピックアップトルクが全然違うだろ? 加速したい時に加速できなきゃ、危険回避もできないぜ」

 今日半日で、彼にはバイクについて随分と沢山のことを教わった気がする。だけどその反面、やっぱり馬鹿にされている気もする。なんだ、そんなことも知らないのか、口には出さないけれどそう言われているような・・・。

 言い返せなかった、見返してやれなかった、ガミさんのところでの練習の成果を、見せつけてやれなかった。ほんの少し、上手くなったつもりでツーリングくらい、清里のジェラートを食べに行くくらい一人で出来るわ、そう思ったのだけれど。悔しい。レースじゃない、一般公道を走る、ただそれだけのことでもこれだけ知識とテクニックに差があるのが悔しい。

「お前、上手くなったんだな」

ぼそっと彼が言った。聞き間違えではない。確かにそう言った。

「え?」

「前に三神さんがビデオを送って来た時は、どうしょうもないヘボライダーだったけど、今日はそれなりに走ってた」

「ヘボ? ヘボですって?」

私の脳裏に記憶が蘇る。初心者、ド素人、そして、ヘボ! 罵詈雑言の上書きに怒りが再燃焼した。

「三神さんにお礼を言っとけよ。ああいう低速でのマシンの扱いを練習してきたから今日もそこそこ走れたんだ。バイクって言うのは低速で扱う方が難しい乗り物だからな。ブラインドカーブとか、アップダウンの峠道はパイロンコースじゃ練習できないけれど、基礎ができているから・・・」

私はカッパを脱いで突き返した。

「な? まだ寒いだろう? 着とけって」

「結構です! どうもありがとうございました。こんな初心者のド素人に付き合ってもらって、ヘボライダーと一緒で恥ずかしくなかったですか? 頼んでもいないの勝手に伴走を決めつけて」

興奮のあまり、何を言っているのか途中で判らなくなった。

「な、何言ってんだお前」

「お前って呼ばないで下さい! あーもう! やっぱり最悪! 私、帰ります!」

「おい、ちょっと! 何を興奮してんだか。落ち着けっ、落ち着けって!」

自分でも興奮しているのが判った。でも、もういい! コイツの顔を見ていたくない。私はFZRのエンジンを掛けた。ヘルメットを被ってグローブを嵌め、クリアシールドを下ろした。


 カウルの中に身を伏せて、高速道路をひた走った。バックミラーに映るNinjaのヘッドライトを無視して、アクセルを開いたままだ。スピードメータの針は十時から十一時半を行ったり来たりしている。なるべくあいつのことは考えないように、運転に集中した。追いすがるトラックや車を次々に追い越すと、頭の中は空っぽになるような気がした。

 白いセダンを追い越した時、Ninjaのライトが隠れてセダンが間に割り込んできた。後ろに張り付かれたのだ。何? この動き。あっ、と思った瞬間、バックミラーに赤いランプが灯った。覆面だ、と思った時にはパトカーのサイレンが周囲に響き渡っていた。

「前のオートバイのライダーさん、左車線に移って下さい」

淡々とした声がヘルメット越しに響く。やってしまった。仕方なく走行車線を確認し、アクセルを閉じて左のウィンカーを点けた。ついてない。これも全部あいつのせいだ。楽しかった気持ちも、嬉しかった気持ちも、景色の感動も、ライダーとしての喜びも、全部台無しにして、その上赤切符まで・・・。

 FZRの車線変更とパトカーの車線変更はほぼ同時だった。とその瞬間、右、追い越し車線にバイクが飛び込んで来た。ライムグリーンのNinja。

「ばか・・・」

あまりのことに私はあっけに取られた。パトカーが左車線に移って出来たそのスペースにあいつがいる。加速して私と並ぶ。シールド越しに目が合う。その目は俺に任せろと言っている。そしてあいつは左手をハンドルから離し、振り向きざまにパトカーを挑発した。こぶしを突き出し中指を立てて。

 背中に殺気を感じるとパトカーは右車線に移った。警察官は完全に頭に来ている。それはそうだろう、今まさに速度超過のバイクを停めようとした矢先に、他のバイクが自分たちを挑発しているのだ。

「こらあああ! 前のバイクウ! 左に寄せろお!」

もの凄い怒鳴り声だ、スピーカーからの声が割れている。その声を聞きながら、Ninjaはフロントを持ち上げて加速していくのが見えた。ウィリーのままどんどん離れて行く。覆面パトカーがそれを追走して加速するが、既にその差はとんでもなく離れている。もう微かにそれがオートバイであることが判るくらいの距離だ。

 私は我に返ると、一番近い降り口で高速を降りた。降りて路肩にバイクを停めてヘルメットを脱いだ。あいつは私の身代わりになった? 何故? どうして? 訳も判らず涙が溢れて来た。あいつはどうなるのか。任せろと目が言っていた。ばか。免停どころか、取消になったらどうするのよ。バイクに乗れなくなっちゃう。仕事だって車を使うのに。あ、私たちは公務員だ。あんなことをすれば免職って可能性だって・・・。

 ひとしきり涙を流すと、返って私の気持ちは落ち着いた。しょうがない。もうやってしまったことだ。あいつは逮捕されるかも知れないけれど、どんな処分が下されようともそれは仕方のないことだ。私にだって後で出頭命令が来るかも知れないけれど、それも甘んじて受け入れよう。私はヘルメットを被り直すと、エンジンを掛けた。


 疲れた体に鞭打って自宅まで帰って来た。母は夕食の支度をしている。父親がいない家庭で、彼女は私の母であり、父であり、姉だった。日勤であれ夜勤であれ、どんなに疲れていても食事だけは欠かさず彼女が作ってくれる。

自分では気が付かなかったが、涙で化粧が崩れていたようだ。私の顔を見ると母は、どうしたの? と聞いた。

「転んだ? 怪我はないの?」

「転んでない。清里のジェラートは美味しかった。八ヶ岳の景色は素晴らしかった。バイクは素敵な乗り物だった。でもあいつは・・・、あいつがぁ・・・」

話しているとまた、涙が出た。泣きながら今日一日のことを話すと、母は、こともあろうに笑ったのだ。

「いろいろ教えて貰ったんだねえ。その浅見さんって先輩にはちゃんとお礼を言っておくんだよ」

「なんでお礼なんか。あいつのせいで私はこんなにブルーなのに・・・」

お母さんはもう一度笑うと。

「大丈夫! 浅見さんは任せろって言ったんだろう? きっと、何か考えがあったんだ、きっとそうさ。だから信じてごらん。さ、ご飯にしよう。シャワー浴びておいで」

促されて私は浴室に歩いた。母はまったく根拠のないことを自信たっぷりに言う。でもそれを聞いているだけで大丈夫な気がしてきた。そうよね、きっと大丈夫。自分に言い聞かせた。

 夜、ベッドの中でスマホを握りしめた。着信はまだない。やっぱり捕まったのか、拘束されているんじゃないか、そう思うと胸が締め付けられる。無事なら、電話くらいあるはず。電話があるまで寝るもんか、そう思っていたけれど、疲れた体は私の意識を眠りの底へ誘う。そして寝落ちしてしまった。

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