ツーリング
浅見さんは週一回もしくは二回、リハビリに通っている。勤務シフトの入っていない日だ。肩、肘、手首、関節は動かさないと可動範囲が小さくなってしまうらしい。ライダーにとって、右手はブレーキ操作とアクセル操作、さらにハンドリング操作と忙しく動かす手だ。事務仕事をしている最中、車での巡回の最中、しきりにストレッチとマッサージをしている。理学療法士さんに教えてもらった、と鼻の穴を膨らませて教えてくれた。
私は彼がバイクに乗れない間、少しでもバイク操作が上手くなるように休日はどこかを走り、日曜日はガミさんに教えてもらい、練習を重ねていた。シフトの関係で日曜日に三神塾に行けない日は、残念で仕方がない。
彼の右手のギブスが取れて一か月が過ぎ、お昼の食事を取りながらバイクの話をした。
「そろそろ走りたいな」
お皿に盛ってある千切りのキャベツを、頬張りながら彼は言った。
「口に物が入っている時は喋らない方が良いですよ」
「うるさいな。そんな規則ないだろ」
「マナーですよ。今まで誰にも注意されなかったんですか?」
ごくっとそれを飲み込んで、お袋じゃあるまいし、そう呟いたのは聞こえたけれど、それはもう無視した。
「まだリハビリの途中でしょう? 走れるんですか? 何処を走るんですか?」
「理学療法士さんには無理をしない程度にどんどん動かして下さい、と言われてるからな」
また理学療法士か。のろけやがって、こいつ。
「まだ激しく動くのは負担が大きいから。取り敢えず400kmくらいを、峠を中心に。まだ暑いし、信州辺りを走りたいな」
信州か・・・。清里高原、懐かしいなぁ。私はまた雅美のことを思い出した。ロッジを使った合宿生活、あの教習所の教官はお元気かしら?
「真鍋は? バイク乗っているのか? どの辺走ってるんだ?」
「まあその辺を、ぶらぶらと」
どうしよう、ネタバラシをしても良いのか、した方が良いのか、いや、まだ黙っておこう。
「バイクは飾る物じゃないからな。まあ、きれいにワックスを掛けて、ガレージに飾って見て楽しむ連中もいるみたいだけど。俺は個人的には反対だな。バイクは走るために産まれて来たんだ。道具は使ってナンボ、走ってやらなきゃ可哀そうだ」
「可哀そう、ですか?」
それはライダーが真っ当に走らせることが出来るのが前提で、私のような初心者が乗ると逆に可哀そうではないの?
「ホンダとかヤマハでな、台数限定生産とか、なんとかアニバーサリー、限定生産とかで販売するレーサーやレプリカは本当に美しいんだ。熟練工が手作業で組み立てる希少価値、走る芸術品。機能は極めれば美しい」
恍惚とした表情で語る、バイク馬鹿。
「そういうのはお高いんじゃないんですか?」
「そりゃ目ん玉が飛び出るくらいな。でもな、だからと言ってそれを床の間に飾られて、バイクは喜ぶと思うか? メーカのエンジニアが嬉しがるか? そんなこと、あるもんか。バイクは走るための道具さ、道具って言うのは使ってナンボ、結局消耗品なんだよ。走れば汚れるし傷つくし摩耗する。でもさ、使い込まれた道具って言うのは、美しいもんなんだぜ。勿論手入れ、メンテンアスはちゃんとしなきゃ駄目だけどさ。解んねえかなあ」
私は首を傾げた。解るような解んないような。汚れれば洗えばいい、でも傷は洗っても消えない、残ってしまう。目の玉が飛び出るような高価な芸術品は、日常使いには不向きだと思うけれど。私はFZRの汚れでさえ、気になってしまう。
「真鍋も連れて行ってやろうか? 一緒に行くか? ん?」
なんで連れて行ってもらわなくちゃならないのよ。どうしてこいつは偉そうに言うの? 一緒に行かないか? くらい、言えないの? あ。でも・・・。私はツーリングと言うものがどういうものか、まだ知らない。バイクを買うと決めてから、本屋で数種類のバイク雑誌を手に取ったけれど、こいつに勝つための情報収集だったから、ツーリングについては読み飛ばしていた。確か、地方探訪記、みたいな旅行記事や、読者投稿があったような気がする。練習場まで走ることをツーリングとは言わないし、どんなのだろう、見知らぬ土地を走る、って言うのは。ちょっと興味が湧いてきた。・・・連れて行かれてやるか。
「清里、良いですよねぇ。私、清里高原の合宿免許で教習を受けたんです。あの辺の、ジェラートの美味しい店、知ってますよ」
「・・・清里は甲斐の国、山梨県。信州は信濃の国、長野県。なんだ。社会科、地理は苦手か?」
「し、知ってますよ。佐久に小諸に軽井沢。あと、千曲川! 清里を通って行く、その先じゃないですか」
「木曽、塩尻から安曇野ってルートもある」
彼はにやりと笑った。
「ツーリングって言うのはな、目的地とそこまでのルートを考えるところから始まっているんだ」
お昼休みが終わって事務棟に戻ると、午後始業のチャイムの前に吉野課長がやって来た。すごく怖そうな顔をしている。
「浅見、真鍋はついて来なさい」
普段は君付けで話し掛ける人が。それだけで何か異常な感じがする。
「はっ」
「はい」
私たちは同時に返事をして、それから課長の後ろを歩いて、普段は行かない上のフロアへ階段を上った。何の用だろう、というより、どんな事態なんだろう、聞きたい気持ちを押さえて、ただ、ついて歩いた。三階の奥、会議室の前には部長がいらした。総務部の松原さんも。
「真鍋はこっちへ。浅見は第一会議室へ入れ」
課長の言葉と同時に部長がドアをノックした。これから何が始まるの? 急に不安になって、心臓の音が大きい。部長は浅見さんと第一会議室へ入って行った。
「大丈夫よ、真鍋さん。私も立ち会うから」
松原さんの言葉。
「何が始まるんですか?」
「入りなさい」
課長に促されて、松原さんと私と課長は第三会議室へ入った。
「座って」
課長の短い言葉に促されてまず私が座り、松原さんがその横の椅子へ腰掛け、向い合うように吉野課長がテーブル越しに座った。
「今君たちに、外部委託業者に対してのパワーハラスメント疑惑が掛けられている。昨日弁護士を通じて局長に申し立てがあった。局はこの申し立てに対し、ハラスメント防止規定に則り、調査委員会を通じて事実関係の確認と審議を行うことを決定した」
「パワハラ?」
そう言われてもピンと来ない。いつの事? いつ私が、誰に対して権力を使った嫌がらせをしたというの? 弁護士を通じて、ということは大事になっているってこと、だよね。事の大小は別にして、呼ばれた訳が判って、ちょっと心臓は落ち着いた。
「審議は三田村副局長と倉橋部長が行う。真鍋は呼ばれるまでここで待機、外部との接初は禁止。松原さんには審議終了まで同席をお願いしてあります」
ここまで怖い顔で言い切った課長は、ふう、と息を吐いた。ため息にも聞こえる。
「委員会も外部の言い分をそのまま聞くことはしない。が、正直に話してくれないと困るよ」
「あの、私は・・・。相手は誰なんですか?」
「それを聞いてどうする?」
「事実関係の確認を。説得して訴えを取り下げてもらいます」
「そういうことをしないように、ここに来てもらっているんだ」
課長の語尾がきつい。
「パワハラされたって訴えに対して、事実なのかどうか、もし事実なら何故起きたのか、原因を探る。再発防止策の発案、策定、検証。やることは山積みなんだ。勿論、処分もな」
処分? 処分されるのか、私、いえ、私たち。
「いいか、もしこれが事実なら、私だって何らかの処分を受けるんだ、管理者としてな・・・」
「虚偽です。虚構、不実、事実無根です」
「それなら良いんだ。だが、それを決めるのは君でも私でもない・・・」
そう言うと課長は黙ってしまった。
一時間半待たされ、私の事情聴取が始まった。副局長と部長、私、松原さん、四人だけの第一会議室。そこで七月末の水道配管交換工事の事案だと初めて知らされた。最初に、聞かれたことだけ答えるように、ときつく釘を刺された。それにも関わらず開始二十分でグダグダになった。
「つまりだ。最初に村山組の遅刻があって、次に佐々木氏の局の制服についてのアドバイスがあり、それに腹を立てた浅見が、入札出禁をちらつかせ、作業時間を強要した、ということで間違いはないね?」
「違います。何度言ったら解って頂けるんですか? 村山組は遅刻して、それだって契約違反じゃないですか! その遅れを取り戻そうと、重機作業前点検と作業員健康点呼を省こうとしたんです。それを咎めたら、現場放棄を言ったんですよ? どっちが悪いか明白じゃないですか!」
「真鍋、勘違いするなよ。子供の喧嘩じゃないんだ。どっちが悪いか、が問題なんじゃない。ハラスメント行為があったか、なかったかが我々は知りたいんだ」
「それに。佐々木さんの発言ですが、制服に関してはアドバイスとは受け取れませんでした。確かに空調服にしたら、とは言われましたけれど。少なくとも工事監督官の私を、ねーちゃんと呼び、女性の制服をタンクトップかビキニにしたら、なんていう発言を私はアドバイスとは認めません」
「聞き流せ、聞き流せ! 労務者の軽口をいちいち真に受けてどうする?」
部長の言葉を副局長が制した。
「それで、その発言に腹を立てた君と浅見君は、報復として工事施工の時間強要をした、違いますか?」
「違います」
「君の眼から見て、浅見君は冷静でしたか? 怒りに任せた言葉を強く、威圧的に発したのではありませんか?」
「浅見さんは、そりゃ怒っていたように見えましたけど、言葉使い、態度、いずれも冷静に淡々と対処していました」
「君はどうでしたか? 浅見君と一緒になって、出禁を口にしませんでしたか? それとも浅見君を止めたとか?」
「私は、入札に関しては一言も発していません。二人とも興奮しているように感じたので割って入りました。閉栓と開栓の時刻を口にしたのは私です」
「ほらあ、やっぱり興奮してたでしょ? 浅見君は」
プツンと私の頭の中で音がして。それが聞こえたのか、松原さんが立ち上がった。
「真鍋さん、怒っちゃ駄目よ。冷静に、冷静に、ね」
「副局長も部長も! これは事情聴取ですよね? 彼女を追い込んでどうするんですか⁈」
「松原君、発言は控えなさい。君はオブザーバーだ」
「この密室で! 正当な事情聴取が行われているかどうかを立ち会っているんです。委員会が力任せの誘導尋問を行うなら、それこそ問題になりますよ!」
松原さんの毅然とした態度に、私の頭に上った血は一気に下がった。すごい、素敵。
「三田村副局長、倉橋部長。あの現場でパワーハラスメントはありませんでした。あったのは遅刻に対しての訓告、作業前点検不備の防止及び、反抗的な態度への注意、そして委託業務契約不履行に関する警告です」
私も凛として言い切った。しかし・・・。
「ハラスメントはね、加害者側にその意図がなくとも、被害者側が訴えれば成立しやすい事案なんだ。被害者がその気になれば、君たちは犯罪者だよ」
「これからどうなるんでしょうか?」
会議室を退室した後、私は三課に戻りたくなくて松原さんと一緒にいた。総務課の、打ち合わせ用の小さなテーブル。パーテーションで区切られた一角で紅茶を飲みながら。
「普通に考えれば、部署内のハラスメントなら双方の意見陳述の聞き取りと周辺関係者への事実確認、裏付けね、を行うの。今回は部署外だけど、やることは同じだと思う」
「ってことは、当事者の村山組の現場に来ていた作業員、警備会社の交通誘導員への聞き取りですね」
「そうね。そこで有力な証言が得られれば良いのだけれど、当然向こうの弁護士は手を回しているはずだし。下手したら裁判沙汰ね」
「裁判⁈」
「そうならないように向こうも和解策を打診してくると思うけど・・・。そもそも何を要求しているのか判らないから、何とも言えないわね」
「私たちは、浅見さんはどうなるんでしょうか?」
「それは判らないわ。吉野課長、いえ倉橋部長が相手の要求にどう判断するかだから」
「あー。気が重い・・・」
松原さんは紅茶を飲んで。
「ところで真鍋さんは休みの日は何しているの? 趣味は何?」
「趣味は海外旅行にするつもりでしたけど。浅見さんのシフトに合わせないといけないんで、連休は取れないし、旅行資金はバイクに消えちゃうし・・・」
「あら、あなたバイクに乗るの? 素敵ね。今の季節、気持ち良いんでしょう?」
「いやあ。夏は暑いばかりで。エンジンからの放熱がすごくて夏場はキツイですよ」
それからしばらく、炎天下の下でバイクに跨り続けることがどのくらい辛いかを力説した。松原さんはそれを笑顔で黙って聞いてくれた。
「それに私まだ遠出したことなくて」
話が途切れたところで、彼女は言った。
「良いわね、そんなに夢中になれる趣味があって。それならストレスは大丈夫ね」
趣味? 趣味なのか、あれは。私にはあいつを見返してやりたいだけの修行にしか思えないけど。
「今度の休みはいつ? 折角なら涼しい所にでも行って来たらいいのに」
そうだ、今日のお昼休みにはそんな楽しい話もしていたのだ。それなのにその後二時間も折角の楽しみを台無しにした課長、部長、副局長。三人が悪いわけではないけど許せな・・・あれ? 楽しみにしていたのか、私は。あいつとのツーリングを?
「さ、そろそろ仕事、戻ろっか」
促されて席を立った。私の心の中でいくつものモヤモヤが渦巻き、ちっともすっきりしない。何故パワハラ疑惑を掛けられたのか、審議の結果はどうなるのか、あいつと私の処分はどうなるのか、ツーリングはどうなるのか、私はあいつと走ることを楽しみに考えていたのか・・・。
モヤモヤしたまま三課に戻ると、吉野課長のテンションは少し下がっていた。
「ああ、真鍋君、遅かったね」
「すみません、ちょっと自律神経を整えていたもので」
「浅見君、真鍋君、ちょっと来なさい」
はい、っと返事をした私。むすっと無言で席を立ったあいつ。うわっ、不機嫌丸出しだ。二人して課長のデスクの前に直立。
「審議が済むまでの仮処分として、二人には工事作業立ち合い監督の任から除外する」
「え?」
「あ。勿論、業者さんとの接触も禁止だ。コンタクトするじゃないぞ」
吃驚した。こんなに早く処分が言い渡されるなんて。あ、仮か。
「まだ年内計画案件だけでも十件以上残っているんですよ? 村山組だけじゃあない、他の業者さんの施工だって!」
「解っている。・・・計画案件は全て他の課員に振り当てる」
ガヤガヤと課に残っていた人の声。耳が痛い。
「イレギュラー対応は私が行う。君たちには、担当エリアの計画工事日程に関して、他の振り替え担当者のエリア担当を命ず。以上」
「あの、あれはどういうことですか?」
席に戻りながら不機嫌なあいつに聞いた。
「正規の処分が下されるまで、我々は工事には立ち会わない」
「はい、それは解りました。その後の命令がちょっと・・・」
「我々の代わりに誰かが監督をする。その誰かのエリアを当日我々が担当する、まあ、当日業務の入れ替えだ」
「それって、もしかしたら・・・?」
「一時的ではあるが、我々がこの水道局の管轄全エリアが担当するということ」
「滅茶苦茶大変じゃないですか!」
パワハラだ。これこそパワーハラスメントだ。
休日の朝。目が覚めると、窓から涼しい風が入っていた。午前四時、まだ辺りは暗いが夏の気温が一番低い時間帯、あと少しすれば空は白み始める。
中途半端な時間に目を覚ましてしまったのは、昨日が夜勤明けだからだ。あの、忌々しい事情聴取の日は二十四時間勤務の日で、不機嫌なあいつとずーと一緒だった。途中仮眠室に二時間ずつ離席したものの、終始無言で口をへの字に曲げ、ただ淡々と黙々と工事計画書を作成し続けるあいつの横で、私も同じ仕事をしていた。自分が監督しないかも知れない工事の、区間、期間、時間、を地区ブロック単位で一覧表に作成し、入札告知やスケジュールの作成、立会人への要請文書、警察への道路使用許可願いの雛型、エトセトラ。
朝になり、定刻になって日勤の課員と入れ替わり、一言、お疲れ、と口にすると、あいつはさっさと帰って行った。ツーリングのツの字も無かった。
私は一旦帰宅したものの、全然眠れず、モヤモヤが解消せず、気分転換に美容室へ出掛けた。髪は定期的に染めているものの、長さは肩甲骨の下まで伸びていた。学生時代はショートオンリーだったのが卒業前から少しずつ伸ばし始め、今はセミロング。色はブラックブラウンを少し抜いている。
「あら、いらっしゃい。今日は早いのね」
行きつけの美容室は本当に私の憩いの場だ。大きな鏡の前に座ってヘアーエプロンを掛けてもらい、担当の美容師さんと何気ない話をするだけでリラックスできる。
「今日はどうします?」
「・・・私、今すっごく機嫌が悪いんです。夜勤明けでお肌ボロボロだし。何とかして下さい」
「そうねえ。じゃあ、洋子さんに魔法でも掛けようかしら? 機嫌が直るような魔法を」
「お願いします。私を綺麗に可愛くして下さい。あいつを・・」
「あいつ?」
「いえ、何でもないです。お任せでお願いします」
「そおねえ。時代はやっぱりショートなんだけど。洋子さん、刈り上げたことあったっけ?」
美容師の真治さんが私の髪を手ですきながら話し掛ける。
「刈り上げはないです。マッシュボブばかりで」
「じゃあバリカン入れてみる? 洋子さん、頭の形が良いから似合うわよ?」
「あんまりボーイッシュなのはちょっと・・・」
このねーちゃん、ボリュームねーから、いつかの笑い声が蘇る。刈り上げにしたらまた現場でからかわれそうだ。・・・現場には当分行かないのか。
「エレガント系がいいな・・・」
「じゃあ、ちょっとサイドのボリューム落として耳掛けか外跳ねにしましょう! どっちがいいかしら」
髪を指で挟んでくるくるっと巻いたかと思うと真っ直ぐ伸ばし、あごのラインで手を止めた。
「ここまでカットするわね」
霧吹きで髪を湿らすと、躊躇なくバッサリとハサミを入れた。
「カラーはどうする? 今の色でも良いけど、トレンドはベージュ。金髪でも似合うわよ」
「白金系だとどうなりますか?」
「攻めるわねえ。だいぶイメージ変わるけど、良いと思うわ。やってみる?」
真治さんが二時間掛けた私のヘアスタイルは、すごく良い。自画自賛。よおし、可愛い!
「メイクもね、ファンデはツートーンくらい明るくして、目元にラメ入れると映えるわよ」
帰りしなにアドバイスを貰って、そのままメイクショップにより、二種類のアイシャドウとチークを買った。
上機嫌で自宅に戻ると、夜勤のために昼寝をしていたお母さんが目を覚ましたらしく、食事の準備をしていた。
「あ! どうしたの? イメチェン? 彼氏に振られたの?」
「今どき彼氏に振られたぐらいで髪を切る女子はいません。もう、昭和なんだから!」
「良いわねえ、うん。似合ってる。我が娘ながら可愛い。完璧」
母親と雖も褒められるのは嬉しい。
私の遅い昼食とお母さんのだいぶ早い夕食を二人で一緒に食べ、私はしばらくは買ってきたコスメを使って鏡の前で遊んでいたのだが、突如として襲ってきた睡魔に耐え切れずにメイクを落とすと、そのままベッドに倒れ込んだ。
そして朝。暗闇の中で光る星が、その明るさを失うように周囲の空が色づいてきた。漆黒から紺色、深い色がどんどん明るくなるのを見て、いつかの夏空を思い出した。そうだ、清里、ジェラートを食べに行こう。初めてのツーリングがどうなるか判らないけれど、今日は平日、どうせ私には伴走を頼める人はいないのだ。FZRでアイスを食べに行く、そのアイディアはとても魅力的に思えた。
よし! 脚を振り上げベッドから飛び起きると、服を脱ぎながら浴室に歩いた。
シャワーを浴びて髪の毛を乾かし、新しいメイクを決めるまで丁度一時間。目元に入れたラメは、私の顔を大人っぽくしてくれた。
トースト一枚、トマト半分、無糖のヨーグルトを百グラム、牛乳を一杯。朝食を済ませて、バイクに乗るための着替え。下着の上に直に革パン、上はスポーツブラにロングTシャツ、胸部プロテクタを付けてモトクロスジャージ。肘当てはその上からベルクロで締めた。財布、免許証、ハンドタオル、メイク道具をウェストバッグに入れて準備完了。玄関でブーツを履き、ヘルメットとグローブを持ってドアを閉めた。
さあ、行くわよ。自分自身に呟いて、FZRのエンジンを掛けた。アイドリングが落ち着くのを待って、出発。国道に出て最初のガソリンスタンドで給油、タイヤの空気圧をチェックして、FZRに囁いた。
「今日はね、いつもとは違う所に行くのよ。高原の、美味しい空気を吸わせてあげる」
記憶では国道に出て、ずっと真っ直ぐ、141号を北上すれば清里のはずだ。スマホのナビをセットして、ポケットに仕舞い込んだ。ハンドルにスマホホルダーが必要ね。ジムカーナの練習の時には簡単に外せるヤツ。私は忘れないように頭の中のメモに大きく書いた。
バイクに跨って、ふとガソリンスタンド事務所の壁を見た。外壁の時計は午前七時。イグニッションを回してセルのボタンを押す。四気筒の咆哮は、今、私の心境にぴったりとはまった。嬉しさと期待、そしてワクワクとちょっぴりのドキドキ。クラッチを切って、シフトペダルを押し込む。私はゆっくりとクラッチを繋いだ。
清里の駅前には十時半に着いた。平日、車は流れていて渋滞はなく、教習時代のように一時間に一回の割合で休憩をしたけれど、思ったより早く辿り着くことが出来た。てっきり到着はお昼かな、と思っていたから。
平日にも関わらず、駅前には大勢の観光客がいた。それを避けながら駅舎をバックにFZRと一緒に写真を撮り、SLを背景に写真を撮り、それからお目当てのアイスクリーム店へ行った。
店の前にバイクを停めて中に入るとお客さんで賑わっていた。カウンターで注文をして、ジェラートを片手に中庭に入りベンチに座る。テーブルには何組もの女の子たちと、カップル。女子一人で来ているのは私一人だけみたい。でも、いい。
通りからは背を向け、店舗をバックに一枚。自撮りで一枚。溶けないうちにてっぺんから頬張った。うん、美味しい。そうよ、これよ、これを食べに来たんだわ。
大型バイクの排気音が聞こえて、ふと目をやると緑色のバイクが私のFZRの横に停まった。サイドスタンドに重量級のバイクを預け、ゆっくりと跨いで降りるその風体は、ベテランライダーの雰囲気がある。その人はシールドを上げると私のバイクを覗き込んでいるようだった。珍しいのかな? もうだいぶ古い絶版車だもの、人目を引いても仕方ないわ。勝手にそう思ったが、前に回ったり後ろに回ったり、タイヤを見たり。変な人だわ。ああ、そう言えばウチの職場にもいたっけ、バイクを覗く癖のヤツ。同じ癖を持つ人っているのね、ガミさんの練習に来る人も、他人のバイクを観察してる人、結構いる。
その人は上着のジッパーを一気に引き下ろすと、ヘルメットと脱ぎながら店舗の入り口に歩き、中に消えて行った。ここからはもう死角だ。体格から男性だと思われたけど、男の人がこの店に独りで入るのはどうなんだろ? 女子の私が一人でというのなら誰も気にしないけれど・・・。
ジェラートを食べながら、さて、と考えた。目的は果たした。あとはどうしよう? 教習所を覗いて教官に挨拶するか、それとも・・・。スマホに目線を落としながら、片手でスマホを操作し、観光のめぼしいところを探す。溶けかけたジェラートを半分すするように口に入れた。目的を達成したとは言え、このまま帰るのも勿体ない気がする。松原さんにも言われた通り、折角高原に来ているのだ。下界では味わえない涼しさを堪能しよう。とりあえずお昼ね。
「すんません、横、良いっすか?」
検索しているスマホの向こうにブーツが見えた。さっきのライダーさんかな? そう思いつつ、その声に聞き覚えが・・・まさかね。
どうぞ、と言いつつ顔を上げると、見慣れた顔。一瞬、時が止まった。
「なんでここにいるのよ!」
「あ。真鍋! 髪が違うから気が付かなかった・・・。お前こそ、こんな所で何してる」
「こんなとこって、お店の人にもお客さんにも失礼でしょ? 自分だって、ジェラート買ったくせに」
「アイスにしようか、迷ったんだよ。暑いから冷たいのが食べたくってな。って、違う! 何故、どうして、お前がここにいるのかを聞いてんだよ」
「お前って言わないで下さい! あーもう最悪! 折角仕事の嫌なこと忘れに来ているのに、なんで職場の人間に会うかなあ・・・」
「ま。いいからちょっと横ずれろよ」
図々しい。レディの横に無神経な。
「タイヤはしっかりサイドまで使っているし、エンジンガードもそれっぽいし、外から店の中庭見たら皮パン、モトジャージに肘当てのライダー。女性の事務屋かと思ったら、まさか真鍋とはな。世間は狭いわ」
「質問に答えて下さい」
「お前と一緒だよ。フラストレーション発散のためのツーリングだよ、リハビリを兼ねて」
「信濃の国、長野に行くんでしょ?」
「もう走って来たさ、天龍から駒ケ根を県道中心に北上して来た。で。お前が清里のジェラートが美味いっていうから、検索して店探して」
「ジェラートの美味しい店を知ってる、って言ったんです。だいたい、周りは女の子ばっかりなのに、恥ずかしくないんですか? 男独りで。検索までして探すなんて」
「恥ずいわ! でも暑いからな、ジェラートの誘惑に負けた。これ食べたら直ぐに出るさ。これから蓼科、霧ヶ峰だ、途中で昼飯食ってな」
「それって、私が考えたルート! もう! 真似しないで下さい」
「真似なんかしてねーよ。仕方ねえなあ、一緒に走ってやるか」
「伴走は頼んでいません!」
「初心者が粋がるな。コケた時の保険だと思え」
一理ある、のかな? なんか言いくるめられた気がするけれど、結局私はこいつと一緒に走ることにした。今更、ここに来るまで一人で不安で、とは口が裂けても言えない。
店を出て、私は緑色のバイクを眺めた。大きい。これがリッターバイクか。ラームグリーンとブラックのツートン、Ninjaとカラーグラフィックのロゴ、綺麗だ。私のFZRは白をベースに赤と青の太いライン。
「松原湖から八ヶ岳ビューロードでショートカット、299に入って西に走って蓼科。299は名前がメルヘンだがエグいぞ」
「ついて行きます」
私たちはヘルメットを被ってグローブを着けた。
「峠に入ったら無理するな。曲がる所は必ず止まっているから、見失ったら直進厳守で」
私は頷いた。無理するな? 見失ったら? そんなに簡単に見失うわけないでしょ。
浅見さんはNinjaを取り回して向きを変えた。私も倣ってFRZを後ろに下げ、向きを変えた。
「お前、三神さんとこで練習してたんだな」
「なんでそれを・・・」
「初心者の素人が、そんなにタイヤのエッジまで使えるかよ。でもな、市街地走行や峠はコースとは違うからな。ギヤはちゃんと使い分けること。市街地は周囲の車、対向車、自転車、歩行者にも目を配れ。コーナーはスローインファストアウトを徹底しろよ」
「解ってますよ」
彼はバイクに跨った。ガチャっとサイドスタンドを払う。私も同じ動作。
「解っていても出来ないから初心者、素人なんだよ」
カチン。あなたがバイクに乗れない間、私はガミさんに鍛えてもらったのよ? ガミさんの練習会に行ったことが解って、それでもそんなこと言うのか、こいつは。それに、ここまでだって走って来たんだ。たぶんこいつの頭の中にはいつぞやの、素人丸出しの私の走りしかイメージがないはずだ。
Ninjaのエンジンが掛かる。重量級の、野太い音だ。吸気音も凄い。私もFZRのエンジンを掛ける。負けてない、このエンジン音。
「行くぞ、準備はいいか」
「いつでもどうぞ」
吃驚させてやる。密かにそう思って、クラッチを切った。あいつの左足がステップに乗る。私は左足でシフトペダルを押し込む。Ninjaが僅かに左に傾き、あいつは右足をステップに乗せた。左の肩越しに私を見ると、目の前の道をさっと流して右左の確認。右手を上げて合図を送ると、その右手がアクセルを掴むと同時にNinjaを発進させた。私はその後を追うように、ほぼ同時にクラッチをミートした。二台のバイクは盛夏の清里を軽やかに走り始めた。