納車
私のFZRの納車の日と、浅見さんのギブスが外れる日が同じだったのは、ただの偶然だ。
「やっとこの暑苦しいギブスから解放される。手首から肘までガッチリ固定されていたからなあ。身軽に成れる」
「悪臭からも解放されますね」
「悪臭言うな。仕方ないだろ、シャワー浴びれなかったんだから」
「ギブス外すとねぇ、垢がごっそり、何層も固まって取れますよ」
その前日、私たちは浅見さんのギブスに思い思いの落書きをした。本当はギブスをした日に書く、早く回復するためのおまじないという儀式だけど、それは浅見さんが頑として拒否したから。三課の出勤した局員は、皆面白がって悪ノリした。
「くそお、看護師に笑われちまう」
そうは言うものの、浅見さんは嬉しそうだ。
「ギブスを外したら、すぐにバイクですか?」
「そうしたいけどな。当面はリハビリだ。一ヶ月動かせないと、肩から手首まで関節がガチガチになっちまう。明日リハビリ科でカウンセリングがあって、スケジュール決めてくる」
「待ち遠しいですね」
「まあな。待ち遠しいと言えば、真鍋も納車日だろう?」
「ええ。納車したら病院に見せびらかしに行きましょうか?」
「止めとけ。立ちゴケするのが関の山だ」
本当はそんな寄り道をしている時間はなかった。渡辺さんのところにお邪魔する約束をしていたのだ。
「真鍋さん、見つかったよ。昔どっかの大会でFZRに乗ってる人、見掛けたことあって。いろいろツテを辿ったら見つかった。無名の工房で作ってもらったヤツだって、オリジナルエンジンガード。もう使わないからってタダでくれるって、どうする?」
「本当ですか? やったあ、嬉しいー! 是非お願いします。でも無料だなんて、いいのかしら?」
「オークションにも出品したけど、入札がなくって諦めていたそうだ。送料負担で良いっていってたけど、気が引けるなら気持ち、上乗せすればいい。後で連絡先メールするから」
「あ、でもガードもらっても、私、組めません」
「そうか、ならウチに送ってもらって構わないよ。ここには一通りの工具は揃っているからね。僕が組んであげるよ」
とんとん拍子に話がまとまって、私は失礼にならなければ、そう言っていくらかのお金を送金した。渡辺さんのところに、良い人を紹介してくれてありがとう、とお礼のメールがあったそうだ。
渡辺さんのお宅でエンジンガードを見ると、数か所大きな擦り傷があった。きっとこの傷の分、君はFZRを守って来たんだね。そう思うと傷も愛しい。
渡辺さんは手早くアンダーカウルを外して、エンジンガードを装着してくれた。
「意外と目立たないね。いいデザインだ。どこの工房だろう?」
何故か自分が褒められた気がして嬉しい。
「どう? ここまで乗って来た感想は。三神さんのVTRとはだいぶ違うでしょ」
「ええ。ポジションもエンジンも重さも。段違いです」
「当時のレーシーなバイクだからね。三神さんのは特にハンドルを上げているから、FZRだと前傾が特にきつく感じるでしょ」
「手首への負担も大きいですね」
「真鍋さん。それは良くないな」
「え?」
「バイクはね、それがどんなバイクであっても下半身ホールドが基本だ。腕を突っ張って上半身を支えるのは良くない。体幹、腹筋と背筋で支えるのさ」
「体幹、ですか?」
「そう。特にスポーティな動きはね、骨盤が立っていなければできないものさ。人間の体の造りはそうなっている」
今まで意識してなかったけれど、そうなんだ。
「君は何か運動やってたの? この前見たけど、VTR乗っているときはちゃんと骨盤が立っていて、良いフォームだったよ」
「ありがとうございます。学生時代はずっとバスケをやっていたので、そのせいですかね?」
「そうかもね。上半身の使い方も柔らかくて良かった。FZRでも同じように体を使うことを意識した方が良いね」
「ありがとうございます。気を付けてみます」
「これで君も三神塾の塾生だね」
「三神塾、ですか?」
「うん、三神塾。君、知ってる? 三神さんって昔はモトジムカーナのA級選手だったんだよ。もうかれこれ二十年くらい前になるかな。中央の大会で優勝したの、一度や二度じゃないよ、あの人」
「そうなんですか?」
「うん。一回引退したんだけどね、三年前、かな? カムバックしたの」
「三年前?」
「確か、二、三人で始めたんだよね、練習会。でも三神さん、レジェンドだから。噂を聞きつけて、すぐに二十人くらいのライダーが集まって。今はだいぶ丸くなったけど、最初の頃はガミガミ煩くって、それで辞めた人もいたって聞いたよ」
「あ! ガミさんのあだ名の由来ですね?」
渡辺さんは笑った。
「そう。僕らからすれば、A級ライダーなんで神様みたいな存在だし、あの人、引退前には連続優勝記録を持ってたくらいの伝説のライダーだからね。ほら名前も神さんじゃない? それをガミさんだなんて、バチが当たるよ、ほんと」
いけない。私はそんな凄い人のこと、馴れ馴れしくあだ名で呼んでいたなんて。
「だから若い塾生ならともかく、僕ら世代の人はガミさんとは呼べないよ」
「・・・」
恥ずかしい、私は自分を責めた。でもこれから何て呼べばいいのかしら? 仕事では三神所長と呼んでいるけれど。
「いいんじゃない? ガミさんで。僕らは呼べないけど、実は若い子にそう呼ばれるの、本人は気に入っているよ」
私は帰り道、少しだけ遠回して帰ることにした。週末日曜日はシフトが入っている。次に練習できるのは来週の河川敷だ。そう考えると今は少しでもこのバイクに私が慣れるように、走っておくほうが良いように思われた。
渡辺さんには言わなかったけれど、バイク屋さんからこの子を引き取って出発するとき、二回エンストした。千百五十回転のアイドリングは低過ぎるのでないかと疑った。でも一旦走り出すと快適で、箱庭ではない街並みを走るのは新鮮だった。周りの車と並走するのはちょっと違和感があったけれど。
信号待ちで前走車がいなくなり、遠くまで道が見えたとき、ローギアでじわっとアクセルを開けてみた。四千回転くらいから音色が変わり、一気に一万回転を超えてしまった。しかもスピードメータは80km/hを超えたようにも見えた。これはヤバイ、反射的にそう感じた。街中を走るなら一速で事足りてしまう。もっとも凄い排気音だし、ギャップで姿勢が崩れるとギクシャクしてしまう。そのギクシャク感もVTRの比ではない。暴れるバイクを内腿で抑え込み、体幹で体に掛かる重力を支える。くー、きつい。前傾姿勢がこれほど辛いとは。私はギアをかき上げ、四速にした。エンジンの回転数は二千ちょっと。そこからアクセルを開けると反応が鈍い。五千回転くらいから感度が良くなったが、これはどういうことなのか、頭の中で整理した。最大出力の回転数は一万二千回転だから、五千から一万二千回転がパワーバンドってことかな。明日浅見さんに聞いてみよう。
信号を右折も左折もせず、真っ直ぐ走ってきたら、いつの間にか山が近くなっていた。峠道だ。車では何度か走ったことがある。信号のない、クネクネの県道。私はあれだけタイトなターンの練習をしてきたのだから、こんな県道くらい普通に走れるだろうと高を括っていた。が、それはとんでもない勘違いだった。
カーブの先が見えない。どこまで曲がれば良いのか、カーブに進入するまで、どころか進入しても判らない。ぐっとバイクを押さえ込んでリーンを続け、見えない出口を待つ。コースでは先が見通せているけれど、実際の峠道ではブラインドカーブの方が全然多いし、カーブの角度も判らない。もしこんな状態で対向車が来たら。私はどうしたらいいのだろう。
公道では平行走行車がいる。対向車もいる。私を追い越そうとする車両も、路上駐車の車両も、自転車も歩行者もいる。今まで車で走っていて解っているつもりだったけれど、実際にバイクで走って見ると、その意味はちょっと違って思えた。バイクでは交通強者であるとともに交通弱者でもあるのだ。転倒したら、車と接触したら、私の体を守るものはヘルメットとプロテクタだけだ。そう思うとゾッとした。何気ないカーブも、交差点も、バイクと車がぶつかったらバイクは圧倒的不利だ。車と喧嘩して勝てる訳がない。
「そんなの当たり前だろう」
始業前のデスク。私は浅見さんとバイクの話をしていた。FZRの納車報告とちょっとだけ峠を走った話。良かったじゃないか、そう言われると思ったのに。
「メットとプロテクタはライダーの必須装備だ。伊達や飾りじゃないんだ。万が一への備えだ。だいたい、バイク買って即一人峠なんて、危ないだろ。初心者は普通、誰かに引率してもらうもんだ」
「そんなの、誰が決めたんですか? それじゃあ初心者は一人で走ることはないんですか? そんなの、へんです」
「誰かが決めたこと、ではない。いいか、もし、だ。もしお前が一人で走っていて転倒したらどうする? 体やバイクに、自走できないくらいのトラブルを抱えたら、どうする?」
「どうするって・・・。帰って来ますよ、ちゃんと。警察に連絡して、保険屋さんとバイク屋さんに連絡して」
「帰れなくなることだってあるんだ!」
浅見さんは強い口調で言った。私はビクッと反応した。そんなにきつく言わなくても。
「浅見君、声、大きいよ」
向こうで吉野課長のなだめ声。浅見さんは天井を向くと静かに息を吐いた。彼の、上り掛けた血を下げるための習慣。
「兎に角、だ。いちいち口ごたえするな。今度俺が一緒に走ってやる」
「今度って、バイク乗れるんですか? まだ乗れないんでしょう?」
一緒に走ってやる、なんて上から目線の言い方にカチンときた。どうしてこの人はこういう言い方をするのだろう。ましてや一緒にだなんて、頼んでいない。押し売りもいいところだ。
「まあ、当分はリハビリに通うことになったんだが・・・」
「ほおら。整体の、マッチョなおじさんにゴリゴリされて下さい!」
いけない、ちょっと口が過ぎたか。仮にも彼は私の先輩、指導員だ。ところが。
「それがぁ、可愛い娘なんだ。理学療法士っていうんだぞ、リハビリの担当の事。若くて優しくて可愛くて、ああいうのを白衣の天使って言うんだろうなあ」
にやけやがった、こいつ。
「はああ⁈」
「真鍋君! 声が大きいって!」
吉野課長に叱られた。
河川敷の練習場には、私が一番に着いた。私にはバイクを載せるバンやワンボックスカーがない。自走でしかバイクを運べないからフル装備を着込んで来た。他に着替えやタオル、水。念のため500mlペットボトルを三本用意した。あと、お弁当。荷物は結構大きい。FZRの小さなリアシートに大きなバッグを括り付けると、街中を走らせるだけでも感覚が違う。重さで後ろが振られる感じだ。
ガミさんがやって来て、教習所の事務所にトラックとパイロンを借りに行くと、入れ替わりで渡辺さんの車が入って来た。その後ろには田中さん。おはようございます! 皆口々に挨拶を叫ぶと自慢のバイクを下ろして準備を始めた。
トラックがコースに入場すると、誰もが一度自分の手を止め、パイロンの設置に動き回る。通常の練習ではほぼ設置パターンが決まっている。S字やクランクを上手く使って、慣熟走行コースを作り、何も作られていない敷地の半分は極低速のテクニカルセクション。そして先回ウォーミングアップエリアに使った場所は、八の字のタイムトライアルセクションになった。
ガミさんの車で受付を済ませ、利用会費を払う。今日から正規の塾生だ。
「真鍋君、荷物はこの車に移しておきなよ、外は暑くなるから。食料も入っているんでしょう?」
「ありがとうございます。じゃあお願いします」
塾長のガミさんも既に着替えている。そう言えばガミさん、引退前はA級で、カムバックしてからは何級にランクしているんだろう?
荷物を載せてもらって、暫く受付を手伝った。名前と車種、住所と電話番号。一通り受付が済む頃、早くも走り始める人が出始めた。私もうずうずしている。何と言っても今日は真鍋FZRのデビューの日だ。準備体操もそこそこに八の字エリアに来た。スタートして八の字を五周して戻って来る、タイムトライアル。八の字はこの前徹底的にやった。私はできる! そう呟いて。
「真鍋、行きまーす」
そう言って右手を上げると、シグナルを待った。赤・・・黄・・・青、行っけ~とアクセルを開けてクラッチをミート。いつものつもりでパイロンに近づき、早目にアクセルオフ、ブレーキを開始して、ここでターン。私はバイクを倒し込んだ。が、予想に反してパイロンに近づかない。なにこれ、曲がらないじゃない。もっとこっち、こっち! ステアリングは切れ込んでいるのに、回転半径が大きい。やっと回ってアクセルを開けて、勝手違いに驚いた。車体も重く、切り返しは鈍重だ。アクセルを開けても加速できず、減速、えいっとばかりにバイクをバンクさせる。やっぱり曲がらない。こっちだって! こっち来て! 私はもっとバイクを寝かそうとして、フロントタイヤが滑ったと思ったら、私の体の下でバイクが滑走し、その上を乗り越えて私が転がった。なんで? ぽかんと座り込んだ私の周りに数人が駆け寄って来た。
「大丈夫? どこが痛いの?」
ガミさんの顔。誰かがFZRを引き起こしてくれた。
「バイクは大丈夫みたい。レバーもステップも折れていないよ」
「ありがとうございます。なんで転んだか、訳解んなくて・・・。あ、体は平気です。どこも痛くありません」
「VTRと同じつもりでアプローチしたろう?」
二の腕の下に手を差し込まれて、強い力で私を持ち上げた、ガミさん。
「まずかったですかね・・・」
「バイクには各々個性があるからね。先に説明するべきだったかな? しかしまさかいきなり転ぶとは思わなかったよ」
「前のタイヤがズルっとしたと思ったら転がってました」
「儂のVTRはプロダクションだからなあ。普通のツーリングタイヤで同じことをしようと思ったら、そりゃ滑るわな」
そうか、タイヤがグリップしなかったのか。
「VTRとFZRじゃハンドルの切れ角も違うから、最小回転半径はだいぶ違うよ。つまり同じラインじゃ走れない。もっと大回りしないとね」
ああ、そういうことか。
「回転半径を小さくするためにバイクを深くバンクさせる発想は良かったんだけどねえ」
私はFZRを受け取ってお礼を言った。ガミさんの車まで歩いて押して行く。
「タイムトライアルは止めといた方がいいな。今日はFZRとシェイクダウンの日にしたら?」
「シェイクダウン? ですか?」
「そ、このバイクの性格、癖を掴むことに専念して走るの。まず、君自身がFZRってバイクに慣れないとね」
「どうすればいいんですか?」
「最初にここ、走った時のこと、覚えてる?」
「ええ」
忘れもしない、無様な走りとあいつの罵詈雑言。そうだ、あれこそ私がバイクを始めたモチベーションだ。
「フォーパイロンオーバル。四つのパイロンを外周に見立てて回るの。フル加速、フルブレーキ、からのターン。ここのセクションの外にパイロンを置こう。あっと、セクションに入る人と交差しちゃうな。オーバルじゃなくて、手前二つはUターンにしよう。どっち周りでもいいから」
ガミさんはVTRを走らせながら、器用に左手でパイロンを掴み、四隅に設置して行く。その間私はFZRの点検を始めた。ハンドルのエンドキャップが削れていた。エンジンガードに新しい傷。ごめんね、私はFZRに謝った。
「初めは控え目にね。その速度域に慣れてから徐々にスピードを上げて行くんだよ? いきなり無茶したら本当に怪我するよ?」
戻って来たガミさんに言われて、はい、っと返事をした。気持ちを切り替えよう。よし。加速と減速だ。初心に帰ろう。
何周か回って、休憩。遠くでガミさんが、極低速セクションで指導しているのが見える。ガミさんも大変だ。自分の練習もしたいだろうに、初心者の私は人一倍手が掛かるし、教えて下さいと声が掛かれば、その人の指導もこなしている。
私は地べたに座り込んで、自分のバイクを眺めた。このFZR,右回りであれ左回りであれ直角に曲がる分には難しくないのに、Uターンになると極端に難易度が上がる。VTRと比較しても仕方が無いけれど、私には他に比較するものも自分の尺度もない。自分の下手なところは置いといて、この子の性格について考えてみた。
まずエンジン。高回転高出力型なので回せば回すほど加速していく感じだ。スピードが伸びていく、と言えばいいのだろうか。頭打ちが感じられない、よく回るエンジンだ。この短い直線区間で、60km/hが限界だけど、飛び去る景色に感覚が付いていけない。VTRと同じ感覚でアクセルを開けることができない。そしてアイドリング、つまりアクセル全閉でのUターンがひどく不安定だ。千回転ぐらいまで落ち込み、ストール寸前のような気がする。そこからのアクセルオンの反応が悪い。ローギアでも三千回転を越えて来ないと右手の動きとの連動感がない。
次にターン。バンクの倒し込みそのものは軽い。そのくせ切り返しでは重く感じる。ハンドルの切れ角は本当に少ない。Uターンではストッパーに当たるまで切っても、回転半径が大きい。その状態で倒し込もうとすると、ものすごく不安定だ。
つまり。この子は低速のターンが苦手な性格なのだ。それに私のテクニックの無さが加わって、相乗効果でグダグダになる。そうか、これが前にファミレスでガミさんや渡辺夫妻に言われた、FZRはジムカーナには向かない、と言うことなのか。浅見さん知ってたならアドバイスくれたら良かったのに。いや、レプリカじゃない方がいいとも言っていたっけ。でも、私はあの時病室で、ジムカーナ向きの、とは言わなかった。格好良いバイク、という選択肢で選んだのは私自身だ。文句は言えない。・・・さて、どうしよう。
兎に角、もう少し乗り込んでみよう。ファミレスで、乗り込んでみなければ判らない、と言われた。ガミさんには今日はシェイクダウンの日、と言われた。公道を車の後ろについて走っていては判らないことを、ここで走って理解する。私は立ち上がってFZRのエンジンを掛けた。ごめんね、上手く乗ってあげられなくて。私もっと練習するから、もっともっと練習するから。跨ってギアを入れ、でもまずは私の水分補給からね、当呟いてクラッチを繋いだ。
頻繁に休憩を入れて、ただひたすら走った。ガミさんはちょっと走ったと思ったらバイクを停めて田中さんと話し込んで、また一周走ったと思ったら生馬さんと話し込んで。どうやらライン取りの話をしているみたいだけど、話は聞こえないし、私には次元の違うレベルのことだろうって思った。ベテランでも色々考えて走っているんだ。
お昼の休憩は渡辺さんとこのテントでご一緒させてもらって、アイスをご馳走になり、FZRのことを話した。
「え? 切り返しが重いって? そんなことないはずだけどな」
「私の気のせいですかね」
「気のせいで重くなったりもしないけど・・・。タイヤの空気圧、合ってる?」
「2kg/cm2と2.5kg/cm2、合わせました」
「ジムのコースならもっと落としてもいいぐらいだ。でもそれで重いとはおかしいな。ベアリングが潰れているのかな? ちょっと乗っていい?」
午後が始まってすぐ、渡辺さんは私のFZRで走り始めた。慣熟走行コースを走って、八の字セクションを走って、戻って来た。
「ちょっと待っててね」
そう言うと、パイロンを持って八の字セクションの外側にパイロンを並べ始めた。直線に、慣熟コースより設置の間隔は長い。二回往復して十個のパイロンを置いた。不思議そうに見ている私に、
「ロングのスラローム。これを走ってみて」
「はい」
私はゆっくり走り始めた。スラロームは教習所以来、四年振りだ。確か、アクセルのオンとオフをくり返してリズミカルにターンをするの、だったよね。右のターンと左のターンをくり返した。やっぱり切り返しは重い。と、マリナちゃんが後ろからついてきた。
「ヨーコさーん。私の後ろについて走って下さーい」
お父さんに言われてきたのか、私を指導してくれるみたいだ。
「えーと。できるだけパイロンは見ないで、私の背中を見て走って下さい」
え? パイロンを見ない? 聞き間違いではない。確かにそう言った。
「車間距離はなるべく詰めて下さいね」
車間を、詰めるの? よく意味が解らない。
「行きますよ!」
マリナちゃんが右手を上げて振り返る。私も右手を上げて、マリナちゃんが走り始めた。どれだけ速いのか、ついて行けるの、私。そう思ったけど、マリナちゃんはちゃんと私に合わせてゆっくり走ってくれた。これならついて行ける。
一本終わって、ぐるっと回って元の位置。
「二本目、ペース上げます」
振り返って笑顔を見せる。右手を上げてスタート。マリナちゃんがすーと前に出て、パイロンを横切る度に私との距離が開いた。
二本目が終わって、ぐるっと回って元の位置。
「ヨーコさん、遅れてますよ? ついて来て下さい」
三本目、マリナちゃんの後ろを一定の車間距離で走れると、またペースが上がった。
「ヨーコさん、良い感じです。パン、パン、パン、パン、ね。リズミカルに」
右手をお相撲さんの蹲踞のように右左に動かし、私に説明する。
私がマリナちゃんについて行けるようになると、マリナちゃんはペースを上げる。ペースが上がるに連れて不思議な現象が起きた。切り返しが軽いのだ。スピードが上がる、つまりエンジンの回転数が上がる、するとアクセルをオフにしてから次のオンにするときのレスポンスが良くなる。タコメータの針が三千数百回転を行ったり来たりするのが視界の端に入った。マリナちゃんと言えば、頭の位置が変わらず、首から下が振り子のように左右に揺れて、すぐ後ろで見ていると揺れながら腕立て伏せをしているように、バイクが上下に揺れている。面白い。マリナちゃんの体は左右に揺れ、バイクは上下に揺れている。マリナちゃんの背中を見ているから自然とラインもトレース出来た。面白いけど、何故?
二十数本のスラロームを走って、休憩。マリナちゃんについて、渡辺家のテントに入った。
「切り返し、軽くなったでしょう?」
渡辺さんが聞いた。
「はい。でも、どうしてなんですか?」
「ある程度スピードが乗ってくると、この手のバイクはひらひら感が出て来るんだよね。ハンドリングがそういう味付けっていうか。元々サーキット走行とかSSカテゴのレースとか意識して作られたバイクだし、エンジンもトルク感が感じられる回転数になると車体が安定するしね。・・・ただ本当はもっと回して使うエンジンだよね。フォーストのマルチだから下からの吹け上がりはそれなりにいいけど、その真価を発揮するのは八千回転から上じゃないのかな? ジムカーナみたいはコースじゃ、ノーマルのままではそのパワーを使うのも難しいと思うよ」
「ノーマル・・・。カスタムが必要ってことですか?」
「本格的にやるなら、ね。例えばそのセパハンじゃ窮屈でしょ?」
うーん・・・。このフォルム、気に入っているんだけどなあ・・・。
「あと、ハンドルの切れ角も。ストッパーいじって切れ角増やすと回転半径を小さくできるけど、今のセパハンのままだと手が当たっちゃうから。この二つを変えるだけで、小回りと操作性は今よりぐっと良くなるよ。ほら、三神さんのVTRみたいにね」
私は考え込んでしまった。渡辺さんの説明はよく解る。でも実力が伴わないにの改造するのは良いことなんだろうか。順番が逆なような気がする。何か基準、比較、指標になるものはないのか。本格的にモトジムをやるのかどうか、だよね。あいつを見返してやることが目的で、あいつに勝つという目標なのだから。そう言えばあいつ、正規の大会には出ていないって、ガミさんは言ってたよね。何でだっけ? あ、そうだ。もしあいつのNinjaが競技用に改造していないのなら、私のFZRを改造するのはどうなんだろう? あいつに勝てても、バイクを理由にして負けを認めなかったりして。
「あのう、浅見さんのNinjaって、競技用にカスタムされているんですか? ご存じですか?」
渡辺さんは首を振った。
「さあ。ガードは入ってたな。他はどうだろう?」
「はいはーい! 私知ってまーす」
マリナちゃんが手を上げた。
「ハンドルは1.5cm上げてます。あと、ドライブのスプロケット、一丁落とし」
「それだけ?」
「ハンドルストッパーはそのままで、あと、チューニングになりますけど、アイドルを二千五百まで上げて、タイヤはハイグリップですけどサスペンションはノーマルでーす」
「そう。ありがとう」
流石浅見推しを名乗ることはあるのね。私は渡辺さんに尋ねた。
「それって、カスタムに入るんですか?」
「最低限レベルのね」
よし。それなら私がFZRを改造しても不公平じゃない、はずよね。
「スタートラインに立ってしまえば、車両も排気量も関係のない競技だからね。ただ、どのバイクをチョイスするか、どんなカスタムをするかはその人次第だし、そもそもどんなハイスペックなマシンを持ち込んでも、それを操り、ポテンシャルを引き出せるかどうかはその人次第だから。カスタムはするしないを含めて不公平じゃないのさ」
「ヨーコさん、随分浅見さんのこと意識してますよね? ヨーコさんも浅見さんに推し変ですか?」
「じょ、冗談じゃありません。私は、わたしは・・・」
マリナちゃんにからかわれて、私の顔が熱くなった。違うわ、陽射しに当てられただけ。でも、あいつに勝ちたいなんて言ったら、笑われそう。
「浅見さんは私の仕事上の先輩で、指導員ですから。ちょっと聞いてみただけです」
「ここでも先輩になるし、指導してもらったら? 彼、上手いよ」
あ、そうか。今頃気付いた。仕事で四六時中顔を突き合わせているのに、休日も一緒に過ごすことになるのか・・・。シフトが一緒だから休日がずれることはないし。それは・・・うーん・・・。
「浅見さんはいつからここに来れるんですか?」
マリナちゃんは私のそんな気持ちを知ってか知らずか、あいつが待ち遠しいらしい。
「リハビリは三ヶ月の予定だって、そう言ってましたけどね」
「なあに、二、三週間もすれば来るさ」
「シフト次第ですね」
あいつが練習会に来るまで、少しでも速く走れるようになっていないと。
「カスタムの件はひとまず置いといて。今日は兎に角、走ります」
私はヘルメットを被って、FZRに跨った。
「四隅のパイロン、スラロームと組み合わせて。スタート、スラローム、奥のパイロンを左、左、手前をUターン、奥を右、右、スラロームで戻って来て、Uターンね」
「ありがとうございます! 行って来ます!」
コースの中にスラロームが入るだけで変化が付いた。エンジンの回転数を落とさないように、気を付けなければならない。さっきのマリナちゃんを追いかけていた要領で、スラロームに入った。パン、パン、パ・ン、パ・・ン・・・あれ? できない。ポコッとパイロンに触った。あ、当たっちゃった。バイクを止めて、パイロンを直す。あっれー? おかしいなあ。そこに渡辺さんが来た。
「真鍋さん、何処を見て走ってるの?」
「え? パイロンの間? 走るラインをイメージして・・・」
「どんなライン?」
私はそのラインを歩いた。外側からアプローチしてターンしてパイロンに近づいて・・・。
「基本はそれでいいけれど。僕らは直パイの時はパイロンを見ないんだよ」
あ、マリナちゃんにも同じことを言われた。
「ちょっと誤解があるといけないんで、もう少し丁寧に説明するね」
渡辺さんは並んだパイロンの延長線上に立って。
「イメージはこの位置に頭を残して、首から下だけを右左に振る感じ。スキーで連続のコブを滑走するような」
ははあ。マリナちゃんの動きもそうなっていた。
「それで見てるのは常に二、三個先のパイロン。一番手前のパイロンは視界には入れるけど見ない」
「そういう意味なんですか・・・」
「こういう直パイは置いてある間隔が一定なので、走行ラインを目で追うより、全体をイメージしてリズムで走るんだよ。もっとも、意地悪く不等間隔に置かれたパイロンスラロームはラインを考えるために見るけどね」
ラインを考えて走る、かぁ。・・・あっ。
「あの、もう一つ教えて下さい。直角のターンやUターンなんかのラインは?」
「例えば左にターンするときは、一旦右に振ってから左に入ると良いよ。最初からタイトなターンは無理だろうから、大きく入るのを意識してね」
「ありがとうございます」